2723話
商人との約束でアンヌが奴隷になった。
それは、リンディの顔を強張らせるのに十分な衝撃を持っていた。
それでもいきなり泣き叫んだりといったことがなかったのは、ここで自分がそのような真似をしても意味がないと、そう理解していたからだろう。
そうである以上、今は少しでも多くの情報を集めるべきだ。
そう自分に言い聞かせ、何があっても騒がないように準備をしながら言葉を続ける。
「それで……カミラ。アンヌさんが奴隷にされるかもしれないから、私に会いに来たの?」
「うん。ちょっと前にリンディ姉ちゃんから手紙とか、色んな物が届いてたから」
なるほど、と。
レイは何故カミラがこの宿屋にやって来たのかを理解する。
レイが知っている限りでは、孤児院出身の冒険者のうち、エグジニスにいる者で纏め役となっていたのはゴライアスという人物の筈だった。
しかし、そのゴライアスは現在行方不明で、もしカミラがゴライアスに会いにいっても無駄足にしかならなかっただろう。
そういう意味では、リンディに会いに来たという選択肢は偶然ではあっても最善のものだった。
もしゴライアスに会いに行った場合、そもそもゴライアスがどこの宿に泊まっているのかといったようなことも分からなかった可能性が高いのだから。
(そう考えれば、寧ろよくカミラはリンディの宿まで無事に到着出来たよな)
孤児院のあった街からエグジニスに来るまでも、普通の子供ならそう簡単に出来ることではない。
だが同時に、エグジニスという準都市の規模の中でリンディの泊まっている宿に無事到着したというのは、驚くべきことでもある。
表通りにある宿ならともかく、ここは安宿……裏通りにある宿で、道もそこまで分かりやすい訳ではない。
それ以外にも、スラム街程ではないにしろ治安も悪い。
場合よっては宿屋に到着するよりも前に殺されるなり、奴隷として売られるなり……そんな風になってもおかしくはない。
「それでアンヌさんを奴隷にしたという商人というのは?」
「ガービーの仕業だよ」
「そう、やっぱり……」
何故か納得するといった様子を見せるリンディ。
「リンディ、ガービーってのは? 聞いた覚えがないけど」
レイにしてみれば、ガービーという名前は聞いた覚えがない。
そんな訳で、一体ガービーというのが誰なのかと尋ねたのだが、そんなレイに対してリンディは忌々しそうな様子で口を開く。
「レイには言ってなかったかしら。孤児院に寄付をしていた商会の代表よ」
そう言われ、レイは思い出す。
以前そんな話を聞いた、と。
ただし、その時は商会の代表が違う人物になって寄付の金額が少なくなったと、そのような話で、奴隷云々というのは聞いた覚えがなかったが。
「そのガービーって奴が、新しくなった代表な訳だ」
「ええ、残念ながらね。……それにしても、何だってアンヌさんが……お金には困っていたけど、それでも自分を奴隷として売るまで困っていたという訳ではない筈よ。これは一体どういうことだと思う?」
冷静に判断しながらレイに尋ねるリンディだったが、その掌は厳しく握り締められており、今にも皮が破れて血が流れそうですらあった。
ここで自分が暴発しても意味はないと、そう理解しているからだろう。
(とはいえ、ゴライアスの件が心配なのに……それだけじゃなくて、ここでまた孤児院の一件か。孤児院の……一件? いや、まさかな。幾らなんでもそんな真似をわざわざする必要はないだろ)
この時、レイが思い浮かべたのはドーラン工房のことだった。
ゴライアスがいなくなった件に、もしドーラン工房が関わっているのなら……それはつまり、ゴライアスが育った孤児院に目を付けてもおかしくはないのでは? と。
しかし、すぐにそれを否定する。
ゴライアスを誘拐したのがドーラン工房だというのは、まだ納得出来る。
盗賊もどうにかして素材として集めているのを考えると、恐らくそれなりに鍛えている人物の方がいいのだろうと。
しかし、それは分かるが、何故そこでアンヌが出て来るのか。
レイが見たところ、アンヌは普通の女でしかない。
子供達に慕われていたり、初対面でもセトを怖がらずに接したりといった面はあるが、それでもゴーレムの素材として使えるような素質を持っているのかと言われれば、即座に首を横に振るだろう。
勿論、レイがアンヌに接したのは短時間なので、レイが気が付けない何らかの才能があったという可能性は決して否定出来ないが。
(うん、考えすぎだな)
あまりにタイミングが合っていたので疑問に思ったレイだったが、すぐにそう頭を切り替えてから、口を開く。
「アンヌは、単純に顔立ちが整っていた。それで奴隷として高く売れると、そう思った可能性が高いんじゃないか?」
「それは……」
レイの口から出た言葉に、リンディが嫌悪感を表す。
とはいえ、その嫌悪感はレイに向けられたものではなく、アンヌを女として高く売れるからという理由で奴隷にしたガービーという相手に対してだが。
実際、レイが口にした内容が奴隷とされた最大の理由なのは間違いない。
間違いないが……だからといって、それが許容出来るかと言われれば、また別の話だ。
「アンヌ姉ちゃん、どうしようもないのか?」
レイとリンディのやり取りを聞いていたカミラが、恐る恐るといった様子で……その目に絶望を浮かべながら尋ねる。
カミラにしてみれば、リンディに事情を話せばどうにかアンヌを助けられると、そう思ってエグジニスまでやって来たのだ。
その危険性を思えば、それこそ五体満足でエグジニスに到着出来たのは運がよかったとしか思えない。
カミラも、自分の運がよくてエグジニスに無事到着したというのは十分に理解しているだろう。
それだけに、リンディを頼ればどうにかなると思っていたのだ。
子供のカミラにとって、エグジニスのような場所で冒険者としてきちんとやっているリンディは、何でも出来ると思っていた。
……そのようにカミラが思ったのは、少し前に会ったレイが、冒険者としてもの凄い強さを発揮したからというのが大きいだろう。
レイが凄かったから、同じ冒険者のリンディも凄い。
そして凄いのだから、奴隷にされてしまったアンヌを助けてくれる。
単純にそう考えたのだろう。
……レイと一緒にされたと知れば、リンディはとんでもないと顔を真っ青にして首を横に振るだろうが。
リンディも冒険者としては中堅程度の実力は持っている。
だが、ランクB冒険者には遠く及ばないし、ましてや異名持ちのランクA冒険者のレイと比べられてはたまったものではない。
そのように思ってもおかしくはなかった。
不幸中の幸いなのは、自分がどうカミラに思われているのかをリンディが気が付いていないということか。
「ともあれ、アンヌが奴隷にされたのは分かった。それだけなら、対処のしようがない訳でもないが……一応聞いておくが違法奴隷って訳じゃないんだよな?」
「カミラの話を聞く限り、そのようね」
ギリリと歯を食いしばりながら、リンディは答える。
目の前に広がっている美味そうな料理を睨みながら。
当然料理に罪はないのだが、今はそのような真似をしてでも、自分の中にある苛立ちを治めたかった。
「これが違法奴隷なら、対処するのは簡単なんだけどな」
正式な奴隷……借金奴隷や犯罪奴隷といったように、この世界で奴隷というのは認められている。
若干それに思うところがない訳でもないレイだったが、ここは日本ではない以上、郷に入っては郷に従えと思い、その辺は特に気にしていない。
……気にしていないというか、盗賊を捕らえて犯罪奴隷とする為に警備兵達に売り払っている以上、レイにそのようなことを言う資格はあまりないのだが。
ただし、レイがやっているのは違法でも何でもない、法に則ったものだ。
盗賊達も、襲ってきたレイに殺されるよりは、まだ奴隷としてでも生き延びたいと思う者もいるだろう。
万が一……億が一の可能性ではあるが、いい主人に買い取って貰える可能性もないではない。
その大半は鉱山奴隷や戦争やダンジョンでの捨て駒として使われることが多いのだが。
ともあれ、盗賊を捕らえて犯罪奴隷として売るレイの行為は問題ないが、違法奴隷となると話は違う。
人を強引に連れ去り、その相手を無理矢理奴隷にするといったような。
このような場合は違法奴隷という名の通り、犯罪だ。
もしアンヌが違法奴隷であれば、相手は犯罪である以上は盗賊狩りと同じように奴隷商人を襲っても何の問題もない……どころか、寧ろ警備兵から感謝されるし、場合によっては謝礼金を貰える可能性もある。
とはいえ、違法奴隷を扱っている奴隷商人も自分が犯罪者であるというのは当然知っている。
そうである以上、自分が捕まらないように警備兵に賄賂を渡しているような者もいるし、場合によっては警備兵の上層部であったり、もっと上の存在に賄賂を渡している可能性もあった。
そのような場合は、違法奴隷を扱っている奴隷商人を倒したからといった感謝されるようなことはなく、それどころか正規の奴隷商人を襲ったという扱いになって寧ろ襲った方が犯罪者扱いになる可能性も高かったが。
ともあれ、そのように違法奴隷を扱っている奴隷商人であれば対処は難しくないのだが、これが法的に問題のない奴隷商人となると話は変わってくる。
そのような奴隷商人を襲えば、それこそ問答無用で襲った者達が犯罪者となるのだから。
そうならないようにする為には、適正な手段でアンヌを奪い返す必要があった。
「もっとも手っ取り早いのは、それこそ奴隷になったアンヌを金で買い取る事だが……」
「そんなお金、あるわけないでしょ」
即座にリンディがそう告げる。
レイもその話については十分に理解出来た。
リンディは依頼で稼いだ金の大半を孤児院に送金しているのを知っていたからだ。
だからこそ、本来ならもっといい宿に泊まれるのに、あのような安宿に泊まっているのだから。
もっともその宿の主人は決して悪人という訳ではなく、面倒見のいい人物なので、もしかしたらリンディにもう少し金があってもあの宿から移るようなことはなかったかもしれないが。
とにかく、リンディは生活的に決して余裕がある訳ではない。
そんなリンディが奴隷にされたアンヌを買い戻したいと言っても、その金額をどこから出すかという問題もある。
「ただでさえ、アンヌを買うとなるとかなり高いだろうしな」
そう告げるレイの言葉に、苦々しげな様子を見せるリンディ。
エグジニスで暮らしている身として、当然ながら奴隷についての話を聞くことも多く、レイの言ってることが嘘ではないと理解した為だ。
基本的に、奴隷というのは若ければ高額となる。
ただし、若いとはいえ子供の場合は安いが。
十代半ばから三十代前半くらいまでの男女が、一般的には高額となる。
男女共に、そのくらいの年齢が働く際に便利なのだから当然だろう。
勿論何らかの特殊技能を持っていれば、それ以外の年齢でも高くなるが。
また、それらとは別に容姿によっても値段は変わってくる。
特に顔立ちが整っている男女ともなれば、その値段は普通の奴隷よりも圧倒的に高額となるのは間違いなかった。
そうである以上、顔立ちが整っており、まだ若いアンヌが高額になるというのはどうしようもない事実。
とてもではないが、リンディが買い戻せるような値段ではない。
……いや、リンディの懐具合を考えれば、老人や子供の奴隷であっても購入出来るかどうかは微妙なところなのだが。
しかし、そのような状況であってリンディの目に絶望はない。
確かにリンディには金はない。
しかし、現在リンディと同じテーブルに座っているレイは異名持ちの高ランク冒険者だ。
また、盗賊狩りを趣味としている影響で金に困るといったことはまずない。
「レイ……アンヌさんを買い戻すのに、協力してくれない? 勿論、借りたお金は絶対に返すわ。だから、お願い」
レイに向かってそう頭を下げるリンディ。
そんなリンディを前に、レイはどうするべきかを考える。
実際、リンディの行動は決して間違っていない。
少しでも早くアンヌを助け出す必要がある以上、そのアンヌを購入出来るレイに頼むというリンディの行動は、合理的だった。
また、リンディとこれまで行動を共にしてきたレイにしてみれば、リンディが金を借りたまま返さないといったような真似をすると思えない。
そうである以上、こうして頭を下げるリンディに対し、やがてレイは口を開く。
「アンヌを買い戻せるかどうかは分からないが、まずはアンヌを見つけるのが優先だ。具体的に幾らでアンヌが売られているのかも分からないしな」
そんなレイの言葉に、リンディはこれなら大丈夫だと判断して頷くのだった。