2711話
「やっぱり地上部分には特にそれらしい物は何もない、か」
風雪のアジトに入ったレイは、そこに本当に何もないのを確認して残念そうに呟く。
ここには何もないと、そう予想はしていたものの、それでもやはりもしかしたら何らかの手掛かりになりそうな何かがあるのではないかと、そんな期待を抱いてしまったのだ。
しかし、建物の中に入ってみれば、廃墟……というのは少し大袈裟だったものの、それでも間違いなく特に誰かが使っているような場所でないのは、明らかだった。
「そうなると、まずはどうやって地下にあるだろうアジトに行くかだな」
風雪という、エグジニスの中でも最大手の暗殺者ギルドの拠点だ。
当然ながらアジトに向かう隠し通路や隠し扉といった場所はそう簡単に見つからないだろう。
そう思って建物の中を見て回っていたものの……
「えー……マジか……」
建物の一番奥にある部屋には、あからさまに下に通じる階段が用意されている。
それこそ何のカモフラージュもしておらず、その気になればそのまま地下に降りていけるようになっている状況であり、あまりにもあからさますぎた。
(罠か?)
暗殺者ギルドの拠点にある、これ見よがしな階段。
普通に考えれば、これは罠でしかないだろう。
それはレイも分かっていたのだが、それでも実際にこうして目の前にあると、どうすればいいのか迷う。
「罠……本当に罠か? 罠なら、こんなに分かりやすいようにするか?」
呟きつつ、まだかなり数に余裕のある斧を階段に向かって放り投げる。
もし罠であれば、あの斧に何かが起きる筈。
そんな思いで階段を見ていたレイだったが、聞こえてきたのは階段を下に向かって落ちていく斧の音のみ。
特に何か罠らしい罠が発動する様子はなく、斧は特に何か被害を受けた様子はない。
「これは……罠じゃない?」
あまりに予想外の展開に驚きつつ、レイは階段を覗き込む。
当然ながら、そのような状況であっても何らかの罠が発動し、例えば槍や矢、針といった物が飛んでくる様子はない。
「もしこれが罠じゃないとすれば、こっちを侮っているのか? それとも……」
そこで言葉を切ったレイは、改めて階段のある方を見て言葉を続ける。
「俺と正面から戦って対処出来る。そんな風に思っているのか?」
「いえ、そんなことはありません」
レイの言葉に答えたのは、階段から聞こえてきた声。
その声の主は、レイに言葉を返しながら姿を現す。
非常に色っぽい……娼婦にしか見えないような女。
ただし、その足運びは一流のそれだ。
先程レイに真っ向から戦いを挑んで来た男と比べても、目の前の女の方が強いだろう。
また、娼婦らしい肌の露出の多い格好は、男を相手にする場合は有利に働くのは間違いない。
そんな女を前にして……しかし、レイは特に動揺した様子はない。
目の前にいる女が美人なのは間違いない。
だが、レイはエレーナ、マリーナ、ヴィヘラといった絶世の美貌を持つ女を見慣れているし、マリーナやヴィヘラのような露出度の高い格好も見慣れている。……それでもまだ頬を赤くすることはあるのだが。
そんなレイの様子を見て、女は微かに眉を動かす。
このような格好をしているのを見れば分かる通り、女は自分の美貌に強い自信を持っている。
そうである以上、自分を見ても欲情した様子を見せない男というのは、信じられなかった。
……実際には、女は確かに滅多に見ない美人ではあるのは事実だが、それは滅多に見ないであって、他に類を見ない程ではない。
エグジニスでは最高の美貌かもしれないが、世の中上には上がいる。
自分を見たレイが欲情や感嘆の視線や態度を見せないのが不満ではあったが、それでもすぐにその表情を消し、笑みを浮かべる。
今度の笑みは男を誘う女の笑みではなく、友好的な印象を相手に与える為の笑み。
同じ笑みでも即座にその笑みの種類を変えることが出来るのは、人との交渉に慣れているからだろう。
「それで、深紅のレイ様が一体私達にどのような用件でしょうか?」
「一応確認しておくけど、ここは風雪の拠点で間違いないよな? 最初はここまで露骨に地下に続く階段があったから罠かとも思ったんだが」
「相手が相手ですもの。下手に隠しておけば、最悪建物ごと燃やされてしまうでしょう?」
それはレイの性格や能力を知っているからこその言葉。
実際、もしレイがこの建物を探して地下に続く階段なり扉なりを見つけることが出来なかった場合、最終的には面倒になって建物諸共燃やしていた可能性は高い。
「なるほど。俺が来るから前もってこうして開けていた訳か。その割には、この建物を守っていた奴は普通に敵意や殺意を向けてきたが?」
「彼らにはレイ様のことを教えてませんでしたから。レイ様なら、あの程度の相手は問題なく倒せるでしょう? 実際に倒してますし」
「それは間違いないが、そのせいで俺に悪印象を持たれるとは思わなかったのか?」
「私が集めた情報が事実であれば、問題ないかと」
そう告げる女に、レイはなるほどと納得する。
実際、レイはただ斧を投擲しただけだったし、セトも前足の一撃であっさりと相手を倒した。
そしてレイはそれに対して口にする程に悪印象の類は持っていない。
女の言葉は、そこまで間違っている訳ではなかった。
「そうだな。間違ってはいない。そっちは手札を二枚減らした訳だが」
「そこまで重要な手札ではないので、お気になさらず」
「なら、前置きはそのくらいにして、そろそろ本題に入らせて貰ってもいいか?」
「あら、私はもう少し魅力的な殿方と話していたかったのですが……そう言われてしまうと、否とは言えませんわね。それで本題とは?」
「潰れてくれ」
それは単調直入なレイの要求。
女も、まさかここまで直接的にレイが潰れろと要求してくるとは思っていなかったのか、一瞬驚きの表情を浮かべる。
すぐに友好的な笑みを浮かべたが。
「随分と直接的ですね。ですが、私達はレイ様と敵対した覚えがないのですが?」
勿論、女も風雪の幹部の一人だ。
現在レイが暗殺者に狙われているのは知っている。
レイがスラム街にやって来たのは、レイを狙っている暗殺者ギルドを潰す為にやって来たのだと、そう思っていたのだが。
それが何故か全く関係のない風雪の拠点にやって来て、そして消えてくれという。
正直なところ、レイが一体何を考えているのか分からなかった。
「ん? ああ、違うのか。エグジニスの中では風雪が一番大きな暗殺者ギルドだと聞いていたから、てっきり俺を狙ってるのは風雪かと思ったんだが」
「そうでしたか。では、誤解は解けたようですし、お帰りは……」
交渉役の女としては、レイのような存在には早く帰って欲しかった。
自分には理解出来ない論理で動き、その上自分達を潰すと言い、それを行えるだけの実力を持っている。
完全に理解不能の存在だった。
そして……理解不能の相手だからこそ、レイが次に口を開いた時には、その表情が固まる。
「いや、このまま帰るつもりはない。きちんと風雪は潰していくぞ」
「……今、何と?」
聞き間違いであって欲しい。
そう思いながら尋ねてくる女に、レイは当然といった様子で再び口を開く。
「風雪を潰す予定は変わらない」
「一応確認しますが、レイ様を狙っているのは私達ではないと、そう理解しているのですよね?」
「そうだな。風雪が俺を狙っていたのなら、面倒はなかったんだが」
「では、その……何故敵対している訳でもない私達を潰そうと?」
「風雪はエグジニスの中でも最大手の暗殺者ギルドだ。そのギルドを潰されたりしたら、普通はそれをやった相手を狙うなんて真似はしないだろう?」
「いえ、それは……」
レイの狙いは分かった。分かったし、実際に有効だとは思うが、だからといってそれで自分達が潰されるのに納得しろという方が無理だろう。
ましてや、風雪はエグジニスにおいて最大規模の暗殺者ギルドとなる。
もし風雪が潰されるといったような事になった場合、エグジニスの闇の勢力図に大きな影響があり、それによって無駄な騒乱が起きかねない。
「私達が潰されると、エグジニスの裏世界でも騒動が起きます。それによって必要のない死人が出るかもしれませんが?」
「それは好ましくない。好ましくないが、だからといって今の状況のままでいいとも思えないしな。それにやりすぎた場合はまた俺が介入すればいい」
それは、レイが実力を持っているからこそ出来ること。
そして実際にレイがそのような真似をやろうと思えば可能なだけの実力を持っている。
女もそれを理解しているだけに、この状況が最悪に近いというのだけは分かる。
分かるが故に、何とか現在の状況を好転させる必要を感じて、素早く考えを巡らせ……やがて、一つの結論を出す。
風雪が助かる為には、これしかないと思えるような結論を。
「レイ様、一つ提案があります。この提案には、レイ様も納得して貰えると思うのですが、どうでしょう?」
「提案?」
女の口から出て来た言葉は、レイにとってかなり予想外のものだった。
今のこの状況で、風雪から差し向けられた交渉役が何らかの提案をしてくるとは、と。
しかし、同時にこのままでは自分達が壊滅することになると理解している以上、そのような手段に出るしかないというのも、十分に理解出来た。
正面から戦えば、その時点で風雪の敗北は決まっている。
あるいは、レイと戦わずに逃げるといった選択をすれば生き残れるかもしれないが、そのような場合にはそれはそれで他の暗殺者ギルドに狙われるといったようなことになってもおかしくはなかった。
風雪がエグジニスにおける最大規模の暗殺者ギルドなのは間違いないが、同時に自分達がそれに取って代わりたいと思う者は決して少なくないのだから。
「はい。提案です。レイ様が風雪を潰そうと考えたのは、レイ様を暗殺者が狙っているからですよね?」
「そうなるな。後は、誰が俺を暗殺するように頼んだのかという情報も欲しいから、それを得る為の手掛かりを探してというのもある。でなければ、こうしてわざわざ暗殺者ギルドの拠点に入って来たりはしないで、外から魔法を使って有無を言わさず消滅させてるよ」
助かった。
レイの言葉を聞いた女は、訓練の成果として表情に出さないようにしていたが、その背中には冷たい汗が大量に浮かんでいる。
もしレイがそのつもりなら、それこそ自分達はこうして何も提案するようなことも出来ず、消滅してしまっていたのだから。
レイは深紅の異名を持つように……そしてベスティア帝国との戦いで広まった噂のように、炎の魔法を得意とする。
実際には深紅というのは炎の魔法もそうだが、それ以上にデスサイズで敵を殺した時に流された血の量から、そのような異名となった点も大きいのだが……一般的には、やはり炎の魔法を得意としているから、という点が大きい。
そんな魔法を、自分達が知らない場所で使われていたらどうなっていたのか。
それは考えるまでもなく明らかだろう。
助かった。本当に心の底から助かった。
そんな思いを抱きつつ、それでも女は表情に動揺や安堵を出さないようにして、言葉を続ける。
「それでしたら、なおのことレイ様にとって利益のあるお話がありますが、どうでしょう?」
「俺に利益のある話?」
その言葉を完全に信じた訳ではない。
だが、こうして話をしている限り、向こうは現在の状況……風雪にとっては絶望としか呼べないような、この状況をどうにかしたいと考えているのは明らかだった。
そうである以上、レイも少しくらい女の話を聞いてもいいと、そう思える。
「言ってみろ。ただし、それが全くの嘘であったり、この場をどうにかする為の誤魔化しであったりした場合、俺は容赦なく風雪を殲滅するぞ」
普通の……いや、ある程度腕の立つ冒険者がそのようなことを口にしても、女はその強がりを笑って受け止めることが出来るだろう。
それこそ、精一杯の言葉だと判断して。
だが……レイの場合は、それをやる。
それこそ相手が多数の腕利きを揃えている暗殺者ギルドであっても、間違いなく殲滅するといったような真似が出来るだけの実力を持っているのは、風雪が持っているレイの情報からして明らかだった。
ごくり、と。
女の白い喉が艶めかしく動く。
その辺の男がその喉の蠢く様子を見れば、それだけで女に向かって襲い掛かってもおかしくはないような、そんな艶めかしさ。
女は自分がそのような真似をしているという認識すらないまま……一か八かといった様子で口を開く。
「私達、風雪がレイ様を狙っている暗殺者ギルド血の刃を滅ぼします。レイ様が欲している情報も手に入れましょう。……どうです? それなら、私達を滅ぼすといったような真似をしなくてもいいのでは?」
そう、女は告げたのだった。