0269話
周囲の視線が自分に集まっているのを感じてはいるのだろう。だがエレーナはそんな様子を気にも止めず、視線を今回の騒動を引き起こしたのだろう相手へと向ける。
ルノジス・イマーヘン。次期イマーヘン侯爵家の当主であり、実力はあるのだが他人を見下す傾向が強い。
そんな風に目の前にいる人物の性格を思い出しつつ、手に持っていた連接剣へと魔力を流して通常の状態へと戻し腰の鞘へと収める。
「何か騒動が起きていると思えば……ルノジス、私の部下と客人に対して何をしている?」
ビクリ。
一欠片の感情すらも込められずに呟かれたその言葉に、ルノジスの身体が思わず反応する。
基本的に他人は自分に利用される存在と思っているルノジスだが、さすがに自分よりも上位貴族であり、貴族派の中心人物でもあるケレベル公爵家の令嬢を相手にして逆らう程に愚かではない。そして戦闘でもエレーナは自分と互角の相手である以上このまま騒動を起こすのは危険だと判断する。何よりも将来的に自分の妻になる相手なのだから、と。
もっとも、戦闘で互角というのはあくまでもルノジスの高いプライドがある故にそう判断しているのだが、それを認めることが出来るのなら今の様な性格になっていないのも事実だった。
刀身の半ばで切断された剣をそのままに、笑みを浮かべながら小さく首を振る。
「エレーナ様、そんなに厳しい顔をしていては貴方の美しい顔が台無しになります。今のは……」
そう言いつつ、視線をアーラ達の方へと向ける。
この場でアーラが自分に逆らったと言ってもエレーナを不愉快にさせるというのは理解していた。何しろアーラはエレーナの幼い頃からの親友なのだから。ルノジスにしてみれば虎の威を借る狐……否、竜の威を借るトカゲにしか見えないのだが、それでも将来的には自分の妻にしようと狙っているエレーナの機嫌を損なうのは避けたかった。そして、その視線はアーラの隣にいたレイへと向けられる。
(身に纏っているのは何らかのマジックアイテムらしいが、それ程ランクの高いマジックアイテムではなさそうだ。ローブの下に着ている服装も貧相極まりない。つまり奴は貴族ではなく……戦場になるであろうこの場にいるとなると、恐らくは冒険者風情)
瞬時にレイへと視線を向け、そう判断する。
レイの着ているドラゴンローブが普通のローブではなくマジックアイテムであると見抜いたのは、ルノジスの実力を現しているだろう。だが、マジックアイテムであると見抜けはしても、ドラゴンローブがどれ程の逸品なのかを理解出来なかったのはそれだけ隠蔽の効果が高かったからか。
「そこの冒険者風情が己の身分を弁えていなかったのでね。ちょっとした躾けをしようかと思いまして」
ルノジスの言葉に、エレーナの眉が微かに歪む。
それを見たアーラは、内心でこれ以上無い程に地雷を踏み抜いたルノジスへと向かって、あらん限りの罵詈雑言を投げ付けていた。
確かにレイは外見で言えば貴族であるルノジスとは比べものにならないように見える。だがそんなレイは、自分の主君でもあるエレーナが思慕している相手なのだ。特にイエロをギルムの街に派遣してからは、乙女としての顔を見せるようになったエレーナの前でよりにもよってレイを侮辱するとは、と。
(この場は何とか収めないと……)
いつもであれば真っ先に暴走するアーラなのだが、さすがにこの場でエレーナとルノジスが決闘騒ぎを起こそうものならどうなるか分かっていた。この辺、以前に比べて成長しているのだろう。
「その冒険者は私の知人なのだがな。その知人に対して剣を向けるということは、当然それは私に対しても同様だと考えるが?」
「……いえ、エレーナ様の知人であるのなら私もこの場は収めましょう」
冒険者ならともかく、エレーナと正面切って対立することの愚を悟ったのだろう。ルノジスが刀身の中程で折れた剣を鞘に戻して引き下がる。
ただし、最後にレイを鋭い目付きで睨み据えていくのは忘れなかったが。
(俺、今回の件は全く関係無いんじゃないのか? なのに何で睨まれているんだ?)
レイとしては、内心で呟いたように今回の件は自分に全く関係の無い場所で進み、そして解決した出来事だ。なのに、何故原因となったアーラではなく自分が睨みつけられるのか。自分が原因で貴族に絡まれるのならまだしも……と思うものの、さすがにこの場でそれを口にしないだけの分別は弁えていた。
もっとも、それがルノジスに聞こえたら更に面倒なことになりそうだったというのが口に出さない最大の原因なのだが。
「申し訳ありません、エレーナ様。いらない迷惑を掛けてしまいました」
「気にする必要は無い。あの者の行動は私としても目に余っていたところだから、ここで釘を刺しておけたのは却って好都合だっただろう。……それよりもレイ、久しいな」
アーラに鷹揚に頷き、自分に近づいて来たレイへ笑みを浮かべて声を掛けるエレーナ。
同時に周囲で一連の出来事を見守っていた者達は、男女に関わらずエレーナの浮かべた笑顔を見て思わず息を呑むような衝撃を受ける。
姫将軍としての笑みではない。エレーナ・ケレベルという1人の女としての笑みだというのを本能的に理解したからだ。
そうすると、続けて思うのはその笑みを向けられたのが誰であるのかということだが、レイの名前を知らない者が大多数であっても、グリフォンを連れた冒険者というのはこれ以上ない程に目立つ為に10万を超えるミレアーナ王国軍の中でも知る人ぞ知る話題となっていた。レイが目立つのは避けられないと判断したダスカーが流した、中立派であるラルクス辺境伯の隠し球であるという噂と共に。
「ああ。そっちも元気そうで何よりだ。イエロを送り返す時はちょっと不安だったが、無事到着したようだな」
「そうだな。レイからの手紙も読ませて貰った。……まぁ、他にも色々と収穫はあったがな」
エレーナの脳裏に一瞬だけイエロを通して見たケニーやレノラの姿が思い浮かんだが、あくまでも一瞬だけであった為か特に雰囲気に出るようなことはなかった。しかし……
(エレーナ様……)
幼少の頃からエレーナと付き合いのあるアーラにしてみれば、そんないつもと違う様子はすぐに理解出来た。
それでも特に何も言わないのは、やはりエレーナに心酔しているアーラだからこそだろう。
「さて、とにかくこんな場所で話をしていてもなんだ。私の天幕に来ないか? あれ以来レイがどうしていたのかというのも聞きたいしな」
エレーナの天幕。その言葉に再び周囲はざわめく。エレーナ達の周囲にいる冒険者や騎士団、兵士達はよく分かっていないが、その意味を知っている貴族達に驚きが走るのはある意味当然だった。何しろこれまでその美貌とは裏腹に男の影が一切無かったエレーナなのだ。あるいは男を自分の部屋に呼ぶことがあったとしても、それはあくまでも姫将軍のエレーナとして部下や同僚を呼び寄せるという意味でのものだった。だが今のエレーナの様子を見ている者達は、つい数秒前にエレーナの浮かべた笑みを見ているのだからそんな風に思っている者はいないだろう。
「そう、だな。確かに俺としてもそうしたいんだが……」
呟きつつ、視線を空へと向けるレイ。夕日と呼ぶにはまだ早いが、それでも午後も暮れへと入って来ているのが分かる。
「ん? どうした? 何か用事でもあったのか? それなら無理にとは言わないが」
「……いや、問題無い。ただ、食事の用意とかをしないといけないから30分程しか時間が無いが、それでも構わないか?」
レイのその言葉にほんの一瞬だけ寂しそうな目をしたエレーナだったが、それは一瞬で消える。次の瞬間にはいつものエレーナへと戻り、問題無いと頷く。
「もちろん構わないさ。こちらとしてもダスカー殿に雇われているレイに無理は言えない」
そう言い、そのままレイを案内するようにして前を進む。
「さあ、レイ殿。私達も行きましょう。エレーナ様の天幕はこの先にありますので」
「そうだな。セト」
「グルゥ」
レイの呼びかけに答え、セトも尻尾を振りつつ背中にイエロを乗せて、貴族派の野営地の中を自分の散歩道だとでもいうように進んで行く。
その様子を見送る者達が向ける視線は多種多様だった。グリフォンという高ランクモンスターを従えているレイに対して驚愕の表情を向ける者、エレーナのような美人と会話出来るのを羨む者、セトの背に乗っている小型の竜でもあるイエロに目を奪われる者。……そして、冒険者風情が自分達貴族派の象徴でもある姫将軍に対して気安い言葉を掛けるのが許せないという複数の貴族達の視線。
そんな視線を背中に受けつつ、レイ達はエレーナに案内されて進んで行く。
(貴族といっても十人十色、か)
内心で呟くレイの脳裏に過ぎったのは、丘の上で会ったシミナール・ギュプソスだ。伯爵家と侯爵家という違いはあれど、ルノジスとは比べものにならない程友好的に接してきたその姿は、改めて考えると強い驚きをレイの中に引き起こしていた。もっとも、それはやはり直前に遭遇していた貴族2人が両極端だったからこそだろう。
そんな風に考えているのが分かったのだろう。アーラも特に何を言うでもなく沈黙を保ったまま進んで行き……やがて、1つの天幕がレイの視界に入ってくる。
「へぇ、これはまた」
レイの雇い主でもあるダスカーの使っていた天幕も豪華な作りであり、マジックアイテムの1種だった。その時も驚きに目を見開いたレイだったが、今目の前にあるのはダスカーが使っていた物と比べても遜色がない……というよりも、明らかに格上のマジックアイテムだ。
「姫将軍として活動する以上は、どうしてもこのような見栄も必要なのでな。お前も知っている馬車も同様だ」
天幕の側に佇んでいる馬車と馬。本来であれば軍馬や荷馬のような馬は同じ場所に集めておくのが普通なのだが、エレーナの使っている馬は魔法を使って品種改良を重ねた軍馬としての一面もあり、夜にエレーナの天幕に忍び込んでくるような者――夜這い目当ての不埒者やベスティア帝国の暗殺者等も含む――に対する見張りの役目も持っている為、特例として天幕の側に繋がれていた。
「さ、入ってお茶でも飲みながら話を聞かせてくれ。ああ、もちろんセトも入ってくれて構わないぞ」
レイとセトの関係を知っているエレーナだけに、特に気にする必要も無く天幕の入り口を開く。
エレーナにしても、一級品の軍馬として生み出された自分の愛馬がセトを気にしているのを見ての行動だった。
以前ダンジョンへと行く時も一緒だったのだが、その程度の期間ではやはりグリフォンであるセトには慣れなかったらしい。もっとも、この場合は危険を察知する能力の高い軍馬だからこそ、セトの存在に慣れないのだが。現にギルムの街でレイが泊まっている夕暮れの小麦亭の厩舎では、最初はともかく数日もすれば馬や他の従魔達もセトの存在に慣れる……というよりは危機感が麻痺して騒がなくなる。それでも完全に落ち着くわけではないところがセトの存在感を示しているのだろう。
「グルルゥ」
セトにとっても、別に軍馬を怖がらせるつもりは無い為に特に異論は無いとばかりに喉を鳴らしながら天幕の中へと入っていく。
そして……
「外から見たときも相当の物だと思っていたが、実際に中に入ると俺達が使っているテントとはまるで別物だな」
天幕の中を見回しながら感心したように呟くレイ。
外から見る限りでは10畳程の大きさにしか見えなかった天幕だが、中に入るとその部屋は軽く20畳を越えているのだ。そして天幕の中にある家具にしても、とても戦地で使うような物ではない。以前にレイがダンジョンへと出向くときに使った、この天幕の表にある馬車と比べても随分と豪華な内装と言えるだろう。
「父上からの贈り物だ。何しろ私は姫将軍などと呼ばれている以上、戦地に出向くのも珍しくはない。……とは言っても、この天幕を渡されたのは今回が初めてだが」
「……この天幕は、エレーナ様が継承の儀式を成功させた褒美として用意されていたものですからね。元々エレーナ様は姫将軍として貴族派の象徴とも呼べるお方でしたが、今は更にエンシェントドラゴンの力をお持ちです。ですのでその力を発揮されたときに他の者達に変な目で見られないようにという思いもあったのでしょう。この天幕はケレベル公爵家が持っているマジックアイテムでも、本来であれば当主が受け継ぐべき物の1つなのですから」
エレーナの言葉だけでは足りないと思ったのだろう。アーラが紅茶の準備をしながら補足するように言葉を紡ぐ。
「そうだな。特に今回の戦争はこれまでのような小競り合いで終わるとはとても思えない。だからこそ父上も我が家に伝わっていたこの天幕を私に授けたのだろう」
「……ケレベル公爵様はエレーナ様に無事戻って来て欲しいと思っているのですよ。だからこそご自分の右腕でもあり、ケレベル公爵騎士団の騎士団長でもあるフィルマ様を派遣してきたのですから。さぁ、紅茶を淹れたのでソファの方へどうぞ」
アーラに促されるように天幕の中にあるソファへと腰を下ろすレイとエレーナ。そして、レイの側で床へと寝転がるセト。
そんな姿に以前ダンジョンへと向かった時のことを思い出し、アーラは微かな笑みを浮かべつつテーブルの上へと紅茶の入ったカップを置くのだった。