2647話
「んー……今日はいい天気だな」
マリーナの家の前で、空を見上げながら言う。
早朝だけあってか、人の数も少ない。……もっとも、マリーナの家は貴族街でも端の方にあるので、元々人の姿はそんなに多くはないのだが。
それでも日中であれば、何らかの理由で家の前を通る者もいるし、見回りをしている者もいる。
貴族街でも端のほうだからこそ、誰かが何らかの表沙汰に出来ない目的で侵入する場合、このような端の方から忍び込むといったことは珍しくない。
「レイだから大丈夫だとは思うが、気をつけるように」
「じゃあ、いってらっしゃい。気をつけてね」
「ゴーレムね。強いのなら少し興味あるけど……まぁ、こっちで仕事も残ってるから私はこっちに残るわ」
エレーナ、マリーナ、ヴィヘラの三人から声を掛けられ、次いでアーラとビューネの二人にも声を掛けられた。
もっとも、ビューネはいつも通りに一言だけだったが。
「じゃあ、いつまでもここにいたら貴族達に見つかるかもしれないし、そろそろ行くか。……セト」
「グルゥ」
レイの言葉に、イエロと別れの挨拶をしていたセトが喉を鳴らしながら、レイの前にやってくる。
本来なら、このまま正門まで行って手続きをしてからギルムを出る必要があるのだが、レイの場合は特例としてダスカーから手続きなしでこのままギルムを出てもいいことになっている。
増築工事の為に、ギルムを覆っている結界がなくなっていたからこそ出来ることだ。
もし結界が展開していれば、さすがにこのような真似は出来ない。
「じゃあ、行ってくる」
そう言い、セトの背に乗るレイ。
レイを背中に乗せると、セトはそのまま数歩の助走をした後で翼を羽ばたかせ、空に駆け上がっていく。
急激に高くなっていく光景を見ながら、既に増築工事の現場では働き始めている者がいるのが確認出来た。
正確には増築工事を進めているのではなく、今日の仕事の準備をしているといった方が正しい表現だろう。
(昨日の今日で、一体どれくらいが仕事になるんだろうな)
突然決まった祭りということもあってか、昨日の祭りでは多くの者が存分に楽しんでいた。
それこそ夜遅くまで……いや、朝方まで酒を飲んでいた者がいても、おかしくはない。
そのような者達は、それこそドワーフのように種族的に酒に強いような者達でもない限り、二日酔いになっているのは間違いないだろう。
そのような状況では、当然ながら仕事は出来ない。
あるいは無理に仕事に出て来るような者もいるかもしれないが、現場で指揮をしている者に見つかって、無理矢理休みにさせられるだろう。
これが個人で行っている仕事であれば、それこそ二日酔いだろうが問題ない。
だが、この仕事はギルムの領主のダスカーからの仕事だ。
そんな現場で二日酔いの者達を仕事に使い、二日酔いから工事に手抜きをしたり、自分でも気が付かないうちにミスをしたりといったようなことになった場合、取り返しのつかないことになる。
最初は特に問題がなくても、増築工事が終わって数年ほどが経った後で、その手抜きやミスによって防壁が崩れたりといったようなことになれば、ギルムの住人としては洒落にならない。
だからこそ、仕事はしっかりとしているのだ。
なお、仕事を求めて来た者の中には、当然ながら適当に仕事をこなして楽に稼ぐといったようなことを考えている者もいたが、そのような者の大半は重要な工事ではなく、誰がやってもいいような工事……具体的には荷物運びのような単純な肉体作業に回されている。
運よくそのことに気が付いた者は、最初こそ適当に仕事をしようとしていたものの、そのような真似をすれば重労働に回されるといったことで、真剣に仕事をするようになった。
(そう言えば、エッグの部下から貴族派か国王派か、もしくは国外の勢力か分からないけど、仕事をしている中にも工作員が混ざってるって話を聞いたことがあったな)
中立派……もしくはダスカーに恨みを持っている者にしてみれば、増築工事の中で意図的に壊れやすくしておき、それによって後日ギルムに被害を与えるといったことを考えている者もおり、そのような連中を何人か摘発したと、そう聞いた覚えがある。
エレーナにはまだ知らされていない情報だが、レイとしては出来れば貴族派の仕業ではなければいいが、と思う。
「グルルゥ」
レイと同じく増築工事の現場を見ていたセトは、不意に喉を鳴らしながらそれ以外の地上に視線を向ける。
その先では何人もが上を向いており、何人かはセトを指さしている者もいる。
地上から飛び立ったセトの姿に気が付いた者もいたのだろう。
「うわ、やっぱり」
そんな中、レイは貴族街の近くや、その近くにある高級住宅地の周辺に結構な人数が集まっているのを確認し、そう呟く。
あの全てがそうであるとは限らないが、それでも恐らくは多くがレイと接触しようとしていた者達なのだろう。
まだ午前六時になるかどうかといったような時間帯であるにも関わらず、既にあれだけの人数が集まっているのだ。
レイにしてみれば、ご苦労さんといったような感想しか思い浮かばない。
とはいえ、マリーナがダスカーと話をつけていたので、今はこうして暢気に思っていられるのだが、もしマリーナが街中で自由に飛んでギルムを出る許可を貰っていなければ、レイはあの中を突破する必要があった。
そう思うと、マリーナに感謝しかない。
「さて、あの連中に見つかっても何だし……そろそろ行くか。エグジニスは一体どういう場所なのか、かなり楽しみだしな」
「グルルルゥ」
レイの言葉に、セトも同意するように喉を鳴らす。
セトにしてみれば、エグジニスという場所には一体どんな美味い食べ物があるのかといったように思っても、おかしくはない。
レイの場合はゴーレムやマジックアイテムを楽しみにしているが、セトの場合はその双方に興味はないのだから。
そうなると、やはり食べ物くらいしかセトが興味をいだくような存在はなかった
レイの言葉に喉を慣らしつつ、セトは翼を羽ばたかせる。
急速に遠くなっていくギルム。
(あ、トレントの森にちょっと顔を出した方がいいか? いや、そうすると時間が掛かるし、何よりも商人達がトレントの森までやって来る可能性があるか)
ダスカーからの命令で、トレントの森に近付くのは許可のある者だけとなっている。
だが、クリスタルドラゴンという新種のランクSモンスターの素材を入手しようとする商人や貴族、錬金術師といった者達にしてみれば、それこそ決まりなど破っても構わないといったように暴走してもおかしくはない。
勿論、そのような真似をすれば後々厳しい処分を受けることになる可能性が高いのだが、今の状況を思えばそのような真似をしてでもどうにかしたいと、そう思ってもおかしくはなかった。
「うん、やっぱりこのまま真っ直ぐにエグジニスに向かった方がいいな。……結構場所が複雑だから、注意して移動する必要があるし」
エグジニスのある場所は、一応聞いている。
だが、地図の類は当然貰っていない。
エルジィンにおいて、地図というのは一種の戦略物資に等しい存在だ。
当然ながら、日本のようにその辺で詳細な地図を購入するといったような真似は出来ない。
レイもそれを知っているからこそ、エレーナやマリーナからエグジニスまでの道については聞いてはいるものの、地図の類もなく、聞いた話だけで移動する必要があった。
「えーと、まず暫くは街道沿いに移動する必要があるのか。出来れば、街道とか関係なく飛びたいんだけどな」
「グルルルルゥ!」
背中に乗っているレイの言葉に、セトは自分もそう思う! といったように鳴き声を上げる。
街や村、都市……そのような場所を結ぶのが街道だが、その街道も最短距離で真っ直ぐ伸びている訳ではない。
山や丘、川、湖……それ以外にも様々な自然の障害物があれば、それを避ける形で街道を作る必要があった。
小さな丘程度であれば、それを削って平地にするといったようなことも出来るだろうが、山となれば……いや、丘は丘でも大きな丘となれば、そこを削って平地にするより迂回した方がいい。
結果として街道はかなり曲がりくねっている場所も多い。
しかし、当然ながら空を飛ぶセトにしてみればそんな地上の様子は全く気にせずショートカットすることが出来る。
例え地上に山があろうと、川があろうと、崖があろうと……そんなのは、空を飛ぶセトにしてみれば全く関係ないのだから。
とはいえ、レイも自分やセトが若干……そう、本当に若干だが、方向音痴気味であるというのは知っている。
恐らくこっちの方にエグジニスがあるだろうといったようにして移動した場合、もしかしたら……本当にもしかしたらだが、迷子になってしまう可能性もあった。
そしてレイが今まで迷子になった経験から考えると、そうした時に限って何らかのトラブルに巻き込まれるのだ。
馬車が盗賊に襲われているといったようなトラブルであれば、レイとしては寧ろ大歓迎といった感じではあるのだが。
盗賊狩りはレイにとって実利を兼ね備えた趣味だ。
それでいて人助けにもなるのだから、趣味としてはこれ以上ないものだろう。
「とはいえ、エグジニスには出来るだけ早く到着したいし……やっぱり変に近道とか考えないで、聞いた通りに移動するか。ギルムに戻る時は、近道を考えてもいいかもしれないけど」
ギルドの倉庫で行われている、クリスタルドラゴンの解体。
その素材を取りに、近いうちにまたギルムに戻ってくる必要があった。
とはいえ、レイにはあまり深刻そうな様子はない。
マリーナがダスカーから貰った許可証により、正門で手続きをしなくても自由に空からギルムに直接降下するといったような真似が出来るようになった為だ。
それこそ、マリーナの家の中庭に直接下りるといったような真似をすれば、誰かに見つかってもそう簡単に接触されるようなことはない。
(まぁ、精霊が急降下してきた俺達にどう反応するか、分からないけど)
マリーナの精霊魔法によって、害意のある存在は排除されるように設定されているのは、レイも知っている。
だが、普通に歩いて敷地内に入った場合であればともかく、上空から降下していくのだ。
当然ながら、そんな状況では精霊達がどのように判断するのかというのは、レイにも理解は出来ない。
(その辺に関しては、試してみるしかないか。急降下していくんじゃなくて、ゆっくりと地上に降下していくといった形を取れば、もし排除された場合にも対処は出来るし)
そんな風に思いつつも、マリーナの精霊魔法である以上、その辺に関しては心配しなくても何となく大丈夫なのではないか、と。そうレイは思ってしまう。
マリーナに対する深い信頼が、そう思わせるのだろう。
「セト、ゆっくりと、遠回りになっても確実にエグジニスに行くぞ。出来れば、迷子になったりはしたくないしな。……もっとも、迷子になったからといって、それがエレーナ達に知られるとは思わないけど」
「グルゥ!」
任せて、と喉を慣らしつつ、セトは街道沿いに空を飛んで移動する。
その速度は、地上で歩いている者達とは比べものにならない程に速い。
(今日もギルムに向かってる奴は多いな。……けど、あの連中、ギルムに到着したら残念がるだろうな)
残念に思う理由は、当然のように昨日の祭りだ。
祭りともなれば、多くの者の財布の紐が緩む。
それだけに。大商人ではなく個人で商売をしているような商人の場合、まさに絶好の稼ぎ時だったのだ。
そして祭りの雰囲気に浮かれて多くの金を使った者は、当然だがその雰囲気から我に返った翌日からは財布の紐が固くなる。
勿論、増築工事で仕事をしている者達は毎日のように報酬を貰えるので、決して食事も出来ない程の貧乏になるといった訳ではないのだが。
それ以外にも、商売云々は関係なくクリスタルドラゴンの死体を見ることが出来なかったのは心の底から悔しがってもおかしくはない。
何しろ、魔の森に棲息するランクSモンスターの、新種のドラゴンだ。
一般人はともかく、色々な場所に行く商人や、それどころか冒険者であっても一生に一度見ることが出来るかどうかといったような、そんな希少な存在。
それこそ、金を取って見せるといったような真似をすれば、ミレアーナ王国中どころか、ベスティア帝国やそれ以外の国からも話を聞いて見物客がやって来てもおかしくはないような、そんな見世物だ。
それだけに、話を聞けば心の底から悔しがるだろうし……昨日クリスタルドラゴンの死体を見た者達は、その圧倒的な光景をこれ幸いと話すのは間違いなかった。