2639話
「おお……」
「これは……」
観衆達から少し離れた場所で様子を見ていたエッグの部下の二人からも、クリスタルドラゴンの死体を見ることは出来た。
勿論、間近で見ている者達に比べれば迫力は劣る。
また、今日ここでクリスタルドラゴンの死体が公開されるというのも知っていたので、そういう意味でも驚きは小さい。
小さいのだが、それでも声を奪う程の驚きを二人に与えたのは間違いなかった。
それでも今にも動き出しそうなクリスタルドラゴンの死体に目を奪われたのは、十秒程。
すぐに我に返ると、怪しい動きをしていた者達が動いていないかどうか、そして動いている場合は部下達が取り押さえているかどうかというのを、確認する。
しかし、幸いにも……いや、ある意味で当然ではあるのだが、間近でクリスタルドラゴンの死体を見た者達はその姿に圧倒されており、妙な行動をとってはいなかった。
その者達の中には、クリスタルドラゴンの死体が公開されたらすぐに素材を多少なりとも奪おうと考えている者もいたのだろう。
あるいは、今日はまず様子見といったような者もいたのだろうが。
そんな者達ではあったが、目の前にいきなり現れたクリスタルドラゴンの死体は、度肝を抜くのに十分だった。
クリスタルドラゴンの死体が公開されるというのは知っていた。知っていたが、それでも舞台の上にただ死体を置いておくだけだと、そう思っていたのだ。
恐らくは、それでもランクSモンスターということもあり、見ている者に対しては十分な迫力を感じさせただろう。
だというのに、精霊魔法で飾り立てられたクリスタルドラゴンの死体は、それこそ今にも動きそうに思えるような、圧倒的な迫力を持っていた。
その迫力は、これが死体であると分かっているにも関わらず、いつ動き出してもおかしくないと、そう思える程の迫力。
そんなクリスタルドラゴンの死体を前に、観衆達の多くが怒声にも聞こえる程の歓声を上げている。
興奮しきっている観衆達が邪魔で、何とか我に返った者達もクリスタルドラゴンの死体に近付くような真似が出来ない。
今の状態で出来るのは、クリスタルドラゴンというのがどのようなモンスターなのか……そして、もし奪うのであればどの部位にするべきかといったものだった。
そんな中、不意に観衆の中から誰かが飛び出そうとし……その瞬間、近くにいたエッグの部下達が取り押さえる。
エッグの部下達も、間近で見たクリスタルドラゴンの死体の迫力には圧倒されるものがあった。
それでもこうしてマークしていた相手が妙な動きをした瞬間に取り押さえることが出来たのは、さすがと言ってもいいだろう。
もしクリスタルドラゴンの死体の迫力に圧倒され、その結果としてマークしていた相手に好き勝手な真似をさせたりした場合、それは後々絶対に面倒なことになるのは確実だった。
その恐怖が、クリスタルドラゴンの死体の迫力よりも勝ったのだろう。
普段であれば、自分達の近くでそのようなことが行われていれば、周囲にいる者達も何をしている? と疑問に思ってもおかしくはない。
だが、興奮の頂点にあるような他の者達は、周囲で起きていることには全く気にした様子がなく。ただひたすら自分の視線の先に存在するクリスタルドラゴンの死体を見るのに夢中になっている。
もし何をしているのかといったような目で見られた場合は、興奮のしすぎで体調が悪くなったので、手当てをしていると誤魔化す予定ではあったが、幸いにしてそんなことをする必要はなかった。
「おい、こいつを引っ張っていくぞ。今はいいけど、いつまでもこのままにしておけば見つかるかもしれない」
「分かった」
既に押さえている相手は、麻痺毒を使って動けないようにしてある。
勿論、このようなことをする者である以上、毒を無効化するようなマジックアイテムを持っていたり、遅効性の解毒薬の類を使用している可能性もあった。
その為に、何かあってもすぐ対処出来るように警戒しながらも、男を観衆の前から移動させていく。
男を移動させる動きが少しだけ鈍いのは、エッグの部下達もクリスタルドラゴンの死体をもっとよく見たいからだろう。
裏社会の住人だろうが、だからといってランクSモンスター……それも新種のドラゴンに興味がない訳ではない。
出来れば、自分達もしっかりじっくりと、見てみたいと思う。
だが、今の状況を思えばそんなことをしていられるような余裕はない。
ここでクリスタルドラゴンの死体を見ていて、妙な動きをした男を逃がすといったようなことになれば、それこそ一体どのような目に遭うのかが分からないからだ。
だからこそ、男達は必死にクリスタルドラゴンの死体を見ないようにする。
気が付けばそちらに視線を向けたくなるものの、それを何とか我慢しながら麻痺して動けない男を運んでいくのだ。
観衆の中で、それと同じような光景が幾つかあった。
そんな光景を離れた場所で見つつ、この場所の責任者の男は眉を顰める。
「動かない奴もいるな」
予想外という訳ではない。
この状況でいきなり動くといったような真似をせず、しっかりと状況を見て……それから判断する者もいるだろうと、そう思ってはいた。
即座に動いた者達と比べると慎重に動く者達ではあるのだが、それだけに厄介な相手なのは間違いない。
実際に動いた訳ではない以上、ここで捕らえるといったような真似は出来ないのだから。
それが少し残念だったものの、それでもここに集まってきている者の中で怪しい相手はそれなりの数を捕らえることが出来た。
当初の予定通りの結果ではある以上、この状況に不満はない。
「出来れば、もう少し多くを捕まえたかったけどな」
「それはしょうがないだろ。あれだぞ、あれ。寧ろ、あんなのを見て即座に動いた連中がこれだけいるのに驚きだよ」
百聞は一見にしかず。
そんな言葉がエルジィンに存在している訳ではなかったが、似たような意味の言葉は存在している。
ともあれ、男達はクリスタルドラゴンの死体が公開されるというのは知っていたものの、それでも実際に見た時の迫力は相当なものだった。
「捕らえた連中に関しては、任せてもいいんだよな? 俺はもう少しここで待って、遅れてくる連中がいるかもしれないから、そっちに集中する必要があるからな」
「おう、任せろ。その為に来たんだ。ここでしっかり働かないと、エッグさんに怒られてしまう」
その言葉に、話を聞いていた男も納得するように頷く。
エッグはここでしっかりと働かない相手には、間違いなく罰を与えるだろう。
そうして男は、部下に指示をして動き出すのだった。
台の上に立つダスカーは、観衆の様子を見て満足そうに頷く。
クリスタルドラゴンの死体の公開は、行われる多くの理由がある。
だからこそ、この結果はダスカーにとって十分に満足出来るものだった。
……とはいえ、ここまで興奮するとは思わなかったが。
ダスカーも最初にクリスタルドラゴンの死体を見た時は、かなり興奮した。
当然だろう。魔の森に棲息する、ランクSモンスター、新種のドラゴン。
普通であれば、そのうちのどれか一つでも皆が騒いでもおかしくはないというのに、そんな言葉が三つも揃っているのだ。
普通に考えれば、この光景は見ている者にとって興奮してテンションが上がり、歓声を上げ続けてもおかしくはない。
ダスカーもそれは理解出来たのだが、だからといっていつまでもこのままにしておく訳にもいかない。
何人か妙な行動をしている者が見えるが、ダスカーは特に気にした様子がない。
多くの者が興奮しているのだから、その興奮のあまり妙な行動をする者がいてもおかしくはないだろうと。
とはいえ、いつまでもこのまま観衆達を騒がせておく訳にはいかない。
自然と興奮した状況から収まるまで待っていれば、それは一体どれくらいの時間がかかるのか。
そう考えると、それこそ数分、十数分、数十分……それどころか、一時間経っても興奮したままといった可能性もある。
だからこそ、そんな観衆達に向かってダスカーは大きく手を挙げる。
それを見て、観衆達は少しずつではあるが興奮から騒いでいる状態から、多少なりとも落ち着いた様子を見せる。
「諸君、喜んで貰えて何よりだ。……繰り返すが、このモンスターは魔の森に棲息するランクSモンスター、新種のドラゴンであるクリスタルドラゴンだ。レイは、単独でこのようなモンスターを倒した、ドラゴンスレイヤーでもある」
ドラゴンスレイヤー。
その言葉に、話を聞いていた者達が再びざわめく。
ドラゴンを倒すというのは、それだけ大きな意味を持つ。
勿論、今までにドラゴンスレイヤーとなった者はそれなりに多い。
何だかんだと、ドラゴンはそれなりの数がいるのだから。
ワイバーンの類も、分類上は一応ドラゴンの下位種族といった扱いになる。
とはいえ、当然の話だがワイバーンを倒したところでドラゴンスレイヤーといった扱いにはならない。
基本的には、ランクA以上のドラゴンを個人で倒して初めてドラゴンスレイヤーといった扱いになる。
……中には、多数の冒険者を揃えてランクAモンスターのドラゴンを倒してドラゴンスレイヤーと自称する者もいるが、公式的には扱われない。
とはいえ、レイの場合も自分だけで倒したのは事実だが、レイの場合はセトという相棒がいた。
そういう意味では、レイをドラゴンスレイヤーと呼ぶのはどうかと思う者もいるかもしれないが、レイはテイマーということになっているので、その辺りの事情を考えれば問題はなかった。
「昇格試験に合格し、ランクA冒険者になっただけではなく、ドラゴンスレイヤーとなったレイ。そのレイは、このギルムに対し深い愛情を抱いてくれている。このギルムの領主として、私は非常に嬉しい!」
ダスカーの言葉は、聞いている者達に強い説得力を与える。
実際、レイという異名持ちのランクA冒険者というのは、ギルムの住人にしてみれば非常に頼りになる相手なのは間違いない。
観衆達も、ダスカーの言葉で改めてレイに視線を向ける。
そんな視線を向けられたレイは、先程とはまた違った視線を向けられたことに気まずい思いをしていた。
とはいえ、この状況で自分が何を言っても場を混乱させるだけだろうし、表情を特に変えるようなこともないまま、黙り込むだけだ。
「皆、今日はこれから祭りを楽しみ、日頃の疲れを癒やし、思う存分楽しんで欲しい!」
レイが表情を変えないように、心を無にしている間にもダスカーの演説は続いていたらしい。
そんな演説を締めくくるように、ダスカーはそう告げ……再び、その話を聞いていた観衆達の口からは、歓声が上がる。
わあああああああ、といった観衆が歓声を上げると、それぞれに自分のやりたいことをそれぞれ行うべく行動を始めた。
勿論、その場に残ってクリスタルドラゴンの死体を熱心に眺めている者も多い。
(ある意味で、これからが祭りの始まりと言ってもいいのかもしれないな。……まぁ、最初のイベントで皆の度肝を抜いてしまったが)
ここに集まった観衆達が、最初に見たのがクリスタルドラゴンの死体だ。
この祭りで出し物を出す方として参加している者達が、一体どのような出し物を考えているのかは、レイも分からない。
だが、クリスタルドラゴンの死体より印象的な物はそうないだろうから、そういう意味で何らかの芸をやる者達にしてみればかなり難易度が高くなってしまったのは間違いないだろう。
そんな風に思っていると、先程よりも多数の騎士や冒険者が舞台の周辺に集まってくる。
それは見学に来たのはではなく、警備の為だというのは、集まった冒険者や騎士達が一定間隔で並び、その視線がクリスタルドラゴンの死体ではなく、それを見ている方に向けられているということから明らかだ。
クリスタルドラゴンの死体の希少さを思えば、このように防御を固める必要があるのは当然だろう。
レイとしては、出来れば危険を避ける為にも式典が終わったのならミスティリングに収納しておいた方がいいのでは? と思わないでもない。
だが、式典を見ていなかった者も当然のように多数おり、そのような者達もクリスタルドラゴンの死体を見せて欲しいとダスカーとワーカーから頼まれれば、レイとしても断ることは出来なかった。
またそれぞれ護衛として腕利きの騎士と冒険者を出すと言われたことも大きい。
……レイにしてみれば、騎士はともかく冒険者、それも腕利きのギルドが信頼出来る冒険者が、よく祭りの中でそういう依頼を受けてくれたな、という思いもあったのだが。
ともあれ、一番面倒だった式典が終わったことで、レイは大きく息を吐くのだった。