2629話
「ふむ……なかなかの強さだった」
ザリガニの死体を前に、ガガは満足そうな様子を見せる。
まさか、自分の攻撃を正面から受け止め……その上で、弾くような真似をされるというのは、驚きだった。
だが、驚くという意味では、ガガにしてみればそれ以上の驚きを経験している。
それこそ、レイやエレーナ、ヴィヘラといった面々と模擬戦を行い、それで勝ったことは一度もない。
自分よりも圧倒的に小さい相手にそれなのだ。
そのような驚きを知っているだけに、ザリガニが自分の攻撃を受け止め、弾いた程度の驚きで動きが止まるといったようなことはなかった。
「ガガ様、お見事でした」
部下のリザードマン達が、ザリガニの首を切断したガガに感嘆の声を贈る。
実際、これ程のモンスターは元いた世界でもそう多くはない。
それだけに、そのような強力なモンスターを自分達――レイやセトに協力して貰ったが――で倒せたというのは、リザードマン達にとっては非常に名誉なことだった。
しかし……そんな喜びに水を差す者もいる。
「貴様らぁっ! 一体、何をしたのか分かっているのか! このモンスターは未知のモンスターなのだぞ! それも異世界から転移してきた、そんな存在だ! そのようなモンスターを殺すなど、一体何を考えている!」
レイの足から再び冒険者に……それも今度は先程のように逃げ出せないようにしっかりと押さえつけられた学者が、叫ぶ。
それはまさに怒声といった表現が相応しい、そんな声だった。
学者にしてみれば、異世界から転移してきた湖のモンスターなのだから、それに興味を持つのは当然だろう。
レイもそれが悪いとは言わない。
それどころか、もっと積極的に調べて欲しいとすら思っていた。
だが……それはあくまでも、自分達やこの湖の周辺にいる者達に被害が出なければの話だ。
こちらを攻撃してくる相手、それも弱いモンスターで攻撃をしても意味がないような相手ならまだしも、明らかにこの周辺にいる者達を殺すことが出来るような相手となれば、話は変わってくる。
あるいは巨大なモンスターであっても、攻撃をせずに甘えてくるような存在であれば、また話も違ったのだろう。
だが、あの敵は間違いなく殺そうと……それもただ殺すのではなく、喰い殺そうとしてきた。
そのようなモンスターがいる以上、放っておけないというのはレイにしてみれば当然だろう。
(というか、スライムといい、このザリガニといい、こういうモンスターは厄介だよな。この湖の広さを思えば、似たようなモンスターが他にいてもおかしくはないし)
未だに岸の一画で燃え続けている巨大なスライムにしろ、今回のザリガニにしろ、偶然レイがいる時に襲ってきたから、何とかなった。
スライムはともかく、ザリガニはもしかしたらガガ達リザードマンでどうにか出来た可能性もあるが。
ともあれ、厄介な状況にあるのは間違いない。
「聞こえているのか! レイ! 貴様、覚えていろよ! 私にこのようなことをして、ただですむと思っているのか! この件はダスカー様に報告させて貰う!」
レイが自分の話を無視しているのが気に食わなかったのか、学者は苛立ち混じりに叫ぶ。
しかし、レイはそんな学者の声も特に気にした様子もなく、男を押さえている冒険者達に声を掛ける。
「それで、このザリガニはどうするんだ? やっぱり食べるのか? 毒針は素材として俺が欲しいけど」
「うーん、どうだろうな。食えるかどうかは……」
その冒険者は、あまり気が進まない様子を見せている。
だが、冒険者の中には今までこの湖で獲れた魚やモンスターを食べていた者も多数おり、そのような者達にしてみれば、このザリガニは間違いなく美味いのではないかと思えてしまう。
この世界の基本として、高ランクのモンスター程に高い魔力を持っている関係からか、その肉は美味いというのがある。
勿論、例外としてオークのようにそこまで高ランクではなくても非常に美味い肉を持つモンスターがいたり、あるいは高ランクモンスターであっても不味い肉を持っている者もいるのだが……そのようなモンスターは、本当に稀だ。
その経験から、明らかに高ランクモンスターであるだろうザリガニも、美味いと思えたのだろう。
実際、レイが戦ってみた感じでは、ランクBの上位といった程度の強さは持っているように思えた。
「ちょっ! 困ります!」
冒険者同士で話をしていたところに、割って入ったのは学者の一人。
いや、それ以外の学者達もまた、最初に声を上げた学者と同じようにレイ達の言葉には賛成出来ないといった様子を見せていた。
「このモンスターを殺したのは安全の為に仕方がないとしても、貴重な異世界のモンスターです。それを思えば、こちらで分析させて下さい」
その言葉に、レイは悩む。
普通に考えれば、このザリガニは倒した者達が所有権を主張してもおかしくはない。
特にレイにしてみれば、毒針は当然のこと、出来ればザリガニの身も欲しい。
ザリガニを食べると聞けば、え? と思わないでもないが、日本ではともかくそれ以外ではザリガニというのは意外とポピュラーな食材でもある。
また、食材として有名なロブスターだが、このロブスターも分類的にはエビではなくザリガニの仲間だ。
レイはそこまで詳しい事情については知らなかったが、それでもザリガニのハサミを見る限りでは身がぎっしりと詰まっているの間違いなく、それを食べたいと思うのは当然だろう。
だが、それと同時にこの湖の秘密を解き明かしたいという思いもあるし、何よりもこのザリガニの身を食べることが出来るのかというのがある。
もしこれが、トレントの森で遭遇したモンスターの肉であれば、その情報については広く知られているモンスターも多いだろうし、もし分からなくても自分で調べるなり、ギルドで聞くなりといった手段がある。
だが、この湖は異世界から転移してきた存在である以上、当然ながらその生物の詳細は分からない。
それでも冒険者やリザードマンは、岸の近くで獲れた魚を普通に食べたりしているのだが……それも未知の生物である以上、本来なら非常に危険なのだ。
しかし、それでも魚の類であれば大丈夫という思いがあるのか、皆が普通に食べており、実際に毒を持っている魚は今のところ存在していない。
だが、それはあくまでも今のところでしかない。
ましてや、今回レイが倒したザリガニは、ただのザリガニではない。
ザリガニであると同時に、サソリの要素も持ち合わせているようなそんな個体だ。
毒針を見れば分かるように、その身にも毒があってもおかしくはない。
普通なら毒のある場所を取り除けば、食べることは出来るのだが。
具体的には、フグのように。
だが、その辺りの生態についても分かっていない以上、食べるのは危険だと、そう学者が主張し……レイは、妥協する。
「分かった。じゃあ、俺はあの毒の針を貰うだけでいい。身体の方は諦める。それでいいか?」
「そうですね。それが妥協案でしょうか」
学者が悩ましげにしながらも、そう告げる。
学者としては、出来れば毒針も自分達で研究したい。
何しろ、これだけ巨大なモンスターが持つ毒針なのだ。
それが非常に興味深く思うのは当然だろう。
だが同時に、その毒針とそれ以外のザリガニ全体のどちらを選ぶかと言われれば、やはりそれはザリガニ全体を選ぶしかない。
「それと、ザリガニと戦ったのは俺達だけじゃない。ガガ達にも、このザリガニじゃなくても、何か別の報酬をやってくれ」
「それは勿論」
レイと話していた学者だけではななく、他の学者達もその言葉には頷く。
非常に知能が高く、その上で既に大半がこちらの言葉も覚えたリザードマン達だ。
友好的な相手だけに、そのような相手を蔑ろにするような真似は決して出来なかった。
何しろ、現在は湖の方に多くの学者が注意を向けているが、異世界の存在ということであれば、ガガ達リザードマンも同様なのだ。
そうである以上、学者達としてもリザードマンと友好的な関係を築こうとするのはおかしくなかった。
「そうか。なら、そっちに関しては頼んだ」
そう言い、レイは少し離れた場所に置いていた毒針……正確には毒針を含んだ尻尾の先端をミスティリングに収納する。
何人かの学者はそんなレイを羨ましそうに眺めていたが……レイはそんな視線を向けられているのを理解しつつも、それ以上気にせずにガガ達の方に向かう。
「レイ様」
そんなレイに、長剣を鞘に収めたゾゾが近付いてくる。
当然の話だが、ゾゾもまたガガと共にザリガニと戦っていた。
多くのリザードマンにしてみれば、ガガの指揮でザリガニと戦うのは全く問題がなかった。
今の状況を思えば、優れた指揮が出来る者が指揮をするというのは当然だったし、何よりも大きいのはガガはリザードマン達の中でも強い信望を集めていることだろう。
だが……ゾゾはそれが分かっていても、レイに仕えるという立場を取っている以上、出来ればレイの下で戦いたかった。
そんなゾゾに対し、レイは軽く肩を叩いて口を開く。
「よくやったな」
レイの口から出たのはそんな一言だったが、それはゾゾにとって十分な報酬となる。
「ありがとうございます」
「あのザリガニはお前達にやる訳にはいかないけど、倒してくれた感謝の気持ちとして、学者達がお前達に何か後で渡すって話だったから、期待しているといい」
自然とハードルを上げるようなことを言ってるレイだったが、未知のモンスター……それも巨大な異世界のモンスターの死体をほぼそのまま――毒針の尻尾はレイに持っていかれたが――入手することに成功したのだ。
ザリガニを解析して得られる知識を考えれば、ザリガニと戦う時に主力となったリザードマン達に相応の報酬が支払われるのは当然のことだった。
「ありがとうございます。それで、レイ様は一体何故今日ここに? もしかして、あのモンスターの存在に気が付いていたのですか?」
「あのな、そこまで俺を買い被るな。幾ら何でも、この状況で湖からあのザリガニが姿を現すなんてのは、完全に予想外だったよ。ここに来る時に見つけることが出来たのは、偶然でしかない」
そもそも、ザリガニはその巨体が圧倒的な防御力もあって強敵ではあったが、レイがいなくても恐らくここにいる冒険者やリザードマンといった戦力で対処は可能だっただろう。
倒すのではなく撃退するといったような形になったかもしれないが、それはそれでザリガニも自分が岸の側で負けたというのを理解すれば、再度近付いてくるようなことはない筈だ。
そういう意味では、レイとセトがここにやって来たのは、あくまでもザリガニを逃がさずに倒すことが出来たとういうだけの話で、あくまでも当初の予定よりもいい結果になっただけと言ってもいいだろう。
「そうですか。それでもレイ様が会いに来てくれたのは嬉しいです。魔の森……という場所の件はもういいのですか?」
「ああ。そっちは問題ない。俺にとっては最良……かどうかは分からないが、それでも悪くない結果だった」
当初の目標である昇格試験は、問題なく合格した。
また、ランクSモンスターのクリスタルドラゴンを倒すといった結果も残している。
そういう意味では最善の結果ではあったのだが、改めて魔の森での行動を思い返せば、もっと上手く……効率よくモンスターを倒すことが出来たのではないかと、そんな風に思ってしまう。
今だからこそ、そのように思うのだと知ってはいる。
知ってはいるのだが、それでもやはり色々と思うところがあるのは間違いない事実なのだ。
あの時はこうすればよかった、この時はああすればよかった。
本当に今更ではあるのだが、そんな風に思ってしまうのは間違いのない事実。
とはいえ、既に魔の森のある場所は覚えている。
エグジニスでほとぼりが冷めるのを待ったら……いや、それだと既に冬になっている可能性が高い以上、来年の春……それはそれで、春は増築工事の件で一気に人が入って来るので間違いなく忙しくなるので、それが一段落した初夏辺りに行くことになるのかもしれない。
(今が晩夏だと考えると……一年後くらいか)
日本にいる時の感覚で考えれば、かなりのんびりとしたものなのだが、冬に外で活動するというのは、色々と面倒だ。
そうである以上、やはりレイとしては安全性を重視するという意味でも、来年の初夏辺りが魔の森に向かう最適な時期だろうと、そう考える。
もっとも、それはあくまでもレイがそのように考えているだけで、他の者達がどう考えているのかは分からなかったが。
来年の初夏の予定を決めると、レイはゾゾやガガ達と話をするのだった。