2618話
ぐぅ……と、レイの腹の中からそんな音が鳴る。
当然だろう。現在家の中からは、食欲を刺激する暴力的なまでの香りが漂ってきているのだから。
その香りが何の香りなのかは、考えるまでもない。
レイが先程マリーナに渡した、牛肉を焼いた匂いだ。
現在テーブルの上には、レイが帰ってきた時に並んでいた幾つかの料理が並んでいるが、その料理はまだ誰も手を付けていない。
それこそ、食欲という点ではレイに負けないくらいに貪欲なビューネですら、テーブルの上の料理に手を伸ばしていないのだ。
幸いなことに、テーブルの上にある料理はどれもがサラダや軽く摘まめる料理といった感じで、時間が経てば味が極端に落ちる料理の類ではない。
そうして待っていると……最初はレイを含めて皆が話していたり、セトとイエロがテーブルから離れた場所で遊んでいたりしたのだが、家の中から漂ってくる香りに自然と言葉は消えていき、セトとイエロも大人しくなる。
そうして、一体どれだけの時間がすぎたのか。
それこそ、レイにしてみれば数分にも、数十分にも……それどころか数時間にも感じてしまう。
実際には十分強といったところだろう。
そのくらいの時間が経過し、やがてマリーナが複数の皿を引き連れて姿を現す。
……そう、引き連れてだ。
マリーナの後ろには、複数の皿が浮かんでいる。
どうやってそれをやってるのかは、マリーナが凄腕の精霊魔法使いであることを考えれば、想像するのは難しくない。
「お待たせ。レイから聞いた通り、塩と胡椒、それ以外に幾つか香辛料を使って、焼いてみたわ」
そう言い、皿がテーブルの上に置かれる。
どの皿が誰の皿なのかというのは、決まっていたのだろう。
実際にレイの前に置かれた皿に乗っている牛肉は、一kg以上は確実にあろうかという程の大きさだった。
とはいえ、セトの前に置かれた皿の上には、三kg近い肉が乗っているし、他の面々も五百gオーバーは確実な肉が皿の上に乗っていた。
それを考えれば、レイの肉だけが極端に多い訳ではない。
皆もそれぞれ目の前の肉に興味津々といった様子だった。
料理を作ってきたマリーナも空いてる場所に座り、いよいよ食事が開始される。
皆が真っ先に手を伸ばしたのは、当然のように牛肉のステーキ。
本来なら前菜代わりにサラダを食べたりスープを飲んだりしてからステーキを食べるのだろうが、ここまで食欲を刺激する香りに耐え続けた以上、皆が真っ先にステーキを食べようとするのは当然だった。
ナイフで牛肉を切ると……
「おう?」
その断面を見て、レイは驚く。
一kg以上の肉の量だ。
それだけの肉を焼くのなら、それこそ長い時間を掛けて焼く必要がある。
レア……もしくはもっと生に近いブルーレアやブルーというのもあるが、その中でも特にブルーというのは肉の表面を数秒焼いた程度の焼き加減だ。
中にはローという……焼いていない、それこそ生肉の状態もあるのだが、それはステーキとして考えた場合、論外だろう。
そんなステーキの焼き方があるのだが、レイの前にある肉はかなり分厚い肉であるにも関わらず、ミディアムレア程度の焼き加減だった。
普通に考えれば、これだけの肉の塊をこうまで上手く焼けるとは思えない。
いや、本職の料理人なら焼けるのかもしれないが、マリーナは別にステーキ職人といった訳ではない。
にも関わらず、目の前にある肉はレイ好みの焼き加減となっていたのだ。
それが嬉しく、レイは驚きつつも笑みを浮かべて切り分けた肉を口に中に放り込む。
まず口の中に広がるのは、肉を焼く時に使ったのだろう香辛料の香り。次に肉に振られた塩の塩分を感じ、肉を噛みしめると肉の焼けた香ばしさと肉汁が肉から溢れ出る。
それだけではなく、肉の感触も噛み応えがある割にあっさり噛み切れてしまう。
「美味い」
レイの口から出たのは、その一言だけ。
本当に美味い料理を食べた時、下手な称賛の声は出ない。
一口目を食べ終わると、再びレイの腹はもっと肉を寄越せ、この肉を食うぞと、強烈な自己主張をしてくる。
腹の強烈な主張に促されるように、レイは再び肉を切って口に運ぶ。
やはり、美味い。
そんな感想を抱きながら、レイは至福の時間を味わう。
レイ以外の面々も、皆が感想を一言二言口にしつつ、ステーキを口に運ぶ。
そうして気が付けば、全員がステーキに夢中になっていた。
それは肉を持ってきたレイや、実際にステーキを焼いたマリーナも例外ではない。
……いや、寧ろレイの場合は一度自分で調理――適当に焼いただけだが――して食べたことがあるだけに、この肉の美味さというのは想像以上だった。
同じ焼くという調理法なのに、何故ここまで味が違うのか。
レイはそのような疑問が一瞬頭をよぎるが、それはステーキの美味さの前にあっさりと消える。
今はそんな下らないことよりも、目の前のステーキを味わう方が重要だろうと。
実際には、何らかの料理のコツがあるのなら、それを使えばレイが野営の時に料理をする時、今までよりも美味く料理を出来るのだから、決して下らないことではないのだが。
とはいえ、マリーナはレイのパーティメンバーである以上、料理に関してはマリーナに任せておけば問題ないのだが。
頭の片隅でそんなことを考えつつも、レイはステーキを味わうことに集中する。
だが、大きな肉の塊であっても、当然だが食べれば食べるだけその量は減っていく。
レイは、それこそ永遠にこの肉を食べ続けるという時間を楽しみたかったのだが、生憎とそんな真似が出来る筈もない。
そうして気が付けば、レイの前にある皿の上には肉汁が軽く残っている程度で、それ以外の肉は全てがレイの腹の中に消えていた。
レイ以外の者達も、気が付けば自分の前にあるステーキを食べきっていた。
「美味しかったわね」
ヴィヘラがしみじみと呟く言葉に、皆が改めて同意する。
だが、そんなヴィヘラに対し、マリーナは笑みを浮かべて口を開く。
「これはいらない?」
そう言い、指さしたのはいつの間にか用意されていた、テーブルの上のパン。
焼きたてという訳ではないが、それでも見ただけで理解出来るくらいに柔らかそうな白パンだ。
そのパンを何に使うのか。
それは皿に残っている肉汁を見れば明らかだ。
だが……明らかではあるが、パンと肉汁は合うのかといった疑問を、マリーナ以外の面々は抱く。
スープをパンに付けて食べるというのは、それなりに知られてるし、保存が利くように焼き固められたパンを食べる時は、それこそスープを吸わせて柔らかくしてから食べるといった手段がある。
だが、それはあくまでもスープだからの話であって、肉汁でそのような真似をすれば胸焼けしてしまうのではないか。
あるいはステーキに何らかのソースの類が掛かっているのならまだしも、今回はレイの要望によって、シンプルに塩胡椒や軽く香辛料を振られた程度なので、当然のようにソースの類もない。
だからこそ胸焼けをすると思ってしまうのは、当然のことだろう。
だが、マリーナはそんな他の者達の視線を向けられながらも、パンを手に取る。
そしてパンで皿の中にあった肉汁を拭うと、それを口に運ぶ。
「ああ……美味しいわね」
それは、マリーナの口から出た心からの言葉。
決して誤魔化すようにそのように言ってるのではなく、本当に美味いと思うからこそ、そのように言ってるのだと理解出来た。
そんなマリーナの様子を見れば、それが嘘だとは思えない。
レイを始めとした他の面々もまた、マリーナと同じく肉汁をパンで拭って口に運ぶ。
「これは……」
驚きの言葉を口にするレイ。
勿論、先程のステーキと比べれば、味は劣る。
だが、パンが肉汁を吸い、また皿に残っていた塩や香辛料のおかげで、ステーキとはまた違った味を楽しむことが出来た。
肉汁を吸っているだけに、胸焼けをするようなくどさがあるのではないかと思っていたのだが、肉汁ではあっても、そこまでしつこくない……言ってみれば、サラリという表現が相応しいくらい、あっさりとレイの中に吸収されていく。
「どう?」
「……美味い」
レイの口から出た美味いという言葉に、満足そうな笑みを浮かべるマリーナ。
他の面々も、そんなパンを食べて満足そうな表情を浮かべていた。
(鍋物を食べた後は、雑炊とかうどんとかラーメンとかで締めるけど、そういう意味ではこのパンで肉汁を綺麗に食べるのが、このステーキの締めなのか? ……まぁ、普通の肉でこんな真似をしたら、間違いなく胸焼けをするだろうけど)
このような真似は、あくまでもこの肉だからこそ……魔の森の側にいる牛のモンスターの肉だからこそ、出来るのだ。
そういう意味では、かなり特殊な料理――と呼んでもいいのかどうかは微妙だが――なのだろう。
「まだ、何か食べたいという人は、テーブルの上にある料理を食べてちょうだい。レイから貰った肉は、ちょっと食材として凄すぎて、料理をするのに気を遣うわ」
マリーナのその言葉に、何人かは残念そうな表情を浮かべる。
あれだけ美味い肉だったのだから、出来ればもう少し別の料理……それも当然ながら、牛肉をメインにした料理を食べたいと、そう思ったのだろう。
実際、レイもそのように思った一員だった。
しかし、マリーナの様子を見れば、新しく料理をして欲しいと言ってもそれが難しそうなのは理解する。
(肉か。塩竃焼きとか……後、土の中に埋めてその上で焚き火をして焼く……乞食焼きだったか? そんな感じの料理を作ってみたら、面白そうな気はするけどな)
レイとしては色々と料理を考えてみるものの、そう簡単に出来るものではない。
皆がステーキを食べ終わり、肉の味を思い出すのも一段落したところで、やがてヴィヘラが口を開く。
「それで、魔の森にはいつ行くの?」
その言葉は、レイにとっても意表を突かれた。
いや、正確にはヴィヘラであればそのようなことを言うとは思っていたのだが、それでもこうも早く言うとは……と。
勿論、レイにしてみれば再度魔の森に行くのは反対しない。
それどころか、魔の森にはまだレイやセトの知らない未知のモンスターが多数いる以上、是非とも行きたいと思う。
しかし、そのような思いはあるものの、同時にすぐに行くといった真似は出来なかった。
「取りあえず、祭りが終わって一段落するまでは魔の森には行けないだろ。そこで俺は昇格試験の合格を発表されるんだし」
祭りで昇格試験の合格が発表されるのに、そこにレイがいないとどうなるか。
間違いなく騒動になるだろう。
それどころか、祭りを企画したダスカーの顔に泥を塗るようなことにすらなってしまう。
レイとしては、何らかのどうしようもない理由があるのならともかく、そのような理由がないのであれば、祭りをすっぽかすといったような真似はしたくなかった。
「そうした方がいいかしらね」
そんな風にあっさりとヴィヘラが言ってきたので、聞いていた者はレイ以外に他の面々も驚く。
それこそ、ヴィヘラの性格を思えば、今すぐにでも魔の森に行きたいと言うのかと思ったのだろう。
自分がそのような視線を向けられているのに気が付いたのだろう。
不満そうな様子で口を開く。
「あら、何か不思議なことでもあった? 言っておくけど、私だってその辺は多少は考えてるのよ? それに……祭りが開かれるまで、クリスタルドラゴンの死体を見ることは出来ないんでしょ?」
それが理由か。
そう内心で思ったのは、恐らくレイだけではないだろう。
「ヴィヘラがそう言ってくれるのなら、俺としても助かるよ。……そう言えば、祭りって具体的にいつやるか決まったのか?」
数日中にということであった以上、それこそ明日か明後日に祭りが行われてもおかしくはない。
本来なら、祭りの準備というものは、時間が掛かる。
それこそ、場合によっては数ヶ月といったくらいに。
レイが小学生だった頃の思い出に、住んでいる地域の小学生が集まって七夕の準備をするというのがある。
正確には、笛や太鼓の練習。
夕食を終え、午後七時くらいから八時すぎまで公園に集まって練習し、その練習が終われば近くにある駄菓子屋で一人一つだけだがアイスを貰える。
もっとも、実際にはそれは町内費の類から払われていたのだが。
小学生が夜に皆で集まって騒ぐというのは、それこそレイにとっても非常に思い出深いことだった。
そのような練習のことを思い出していると、マリーナが口を開く。
「今回の祭りは急ぎだし……それこそ、明日とは言わないけど明後日くらいにはなるんじゃない? レイはある意味で祭りの主役なんだから、多分聞けば教えてくれると思うけど」
そう告げるマリーナの言葉に、明日は領主の館に行ってみるかと、そうレイは思うのだった。