2617話
『ほう』
レイが取り出した牛肉を見て、他の面々はそんな声を漏らす。
肉となったその部分を見ただけで、上質な肉だと理解出来たからだ。
特に食に関してはレイと同じくらいに貪欲なビューネは、他の者達のように声に出したりはしていなかったが、それでもレイの出した肉を食い入るように見つめている。
それだけ、ビューネにとって魅力的な肉に見えたのだろう。
ビューネ以外の者達も、そんな肉を見て美味そうだと思っているのは間違いない。
「マリーナ、この肉の料理を頼めるか?」
「ええ、それはいいけど……」
いつもならレイの頼みは引き受けるマリーナが、少し戸惑った様子で……それでも頷く。
そんなマリーナの様子に、レイは疑問を抱いて尋ねる。
「どうしたんだ?」
「いえ、この肉の質を見ると、私よりももっと腕の立つ料理人が料理した方がいいんじゃないかと思ったのよ」
マリーナは、確かにこの中では一番料理が上手い。
……とはいえ、他の面々は元々そこまで料理が上手い訳ではないので、マリーナの腕はこの中では突出しているものの、あくまでも素人にしてはという言葉が頭につく。
マリーナもその辺については理解しているので、このように極上の素材を自分が料理してもいいのかと、そんな風に思ってしまったのだろう。
とはいえ、料理というのは時には素人の方が美味い料理を作ることも珍しくはない。
プロの料理人は、あくまでも料理を作ることで金を稼いでいる。
だが、素人の料理というのは、あくまでも趣味でやっている者が多い。
それこそコスト度外視で料理をする者も多く、そういう意味ではプロの料理人よりも美味い料理が出来てもおかしくはない。
勿論、料理の腕がろくにないのに高価な食材を使っても、それを台無しにするだけだ。
あくまでもセミプロと呼べるだけの技量があって、初めてプロの料理人を上回る料理を作ることが出来るのだが。
仕事ではなく、あくまでも趣味で屋台を出している者の中には、このような者がいる。
当然ながら高価な食材を使っている以上、収支的には赤字になるのだが、趣味だからこそ、それでも構わないということなのだろう。
マリーナも、技量的にはセミプロと呼ぶに相応しい以上、レイとしては十分にこの肉を任せることが出来るという思いがあった。
「マリーナが料理をしてくれれば、どんな料理でも美味く食うよ。もっとも、この手の高級な肉ってのはシンプルに塩や香辛料を使って焼いた方がいいと思うけど」
「そうね。でも、これだけの肉となると焼き具合が問題になってくるわね。正直なところ、本当に美味しく料理出来るかどうかは分からないわ。……それでも試してみる?」
そう尋ねるマリーナに、その場にいた全員が同意するように頷く。
結局のところ、この牛肉を今日……それこそ今すぐ食べたいとなると、誰かが調理をする必要がある。
そしてどうせ料理をするのなら、料理が上手い者に任せたいと思うのは当然だろう。
そんな周囲の視線を向けられ、マリーナは少し考え……やがて、頷く。
「分かったわ。じゃあ、この肉を料理してくるから、ちょっと待っててね。とはいえ、今日これから手の込んだ料理を作るような時間はないし、レイが言ったように単純な料理になると思うけど、それでいいわね?」
そう尋ねてくるマリーナに、誰もが異論はないと頷く。
それを満足そうに見るマリーナ。
夕食を食べるには少し遅い時間だけに、そんな中でシンプルに焼くのではなく、もっとしっかり手の込んだ料理を作れ……などと言われれば、それこそマリーナは満面の笑みを浮かべて相手を見ていただろう。
口には笑みを浮かべつつも、目は全く笑っていないという、そんな笑みを。
「じゃあ、レイ。もっと肉を出してちょうだい。これだけだと、とてもじゃないけど全員分にはならないでしょ?」
「分かった。ただ、固まりの状態だけど、大丈夫か?」
ローリー解体屋が幾ら解体の技量が高い者が集まっているとしても、肉はブロック状のままだ。
そもそも、肉は料理をする際にそれぞれ使い方が変わる。
ステーキのように厚めの肉を焼いたり、一口大に切って煮込み料理に使ったり、薄切りにして他の具材と一緒に炒めたり……といったように。
そうである以上、職人達が自分達で勝手に肉の状態を決める訳にはいかないだろう。
だからこそブロック肉の状態で引き渡し、それを受け取った者が自分で切り分けて使う必要があった。
「問題ないわ。それくらいならこちらでどうとでも出来るから、出してちょうだい」
マリーナに促され、レイはブロック肉を一つ取り出す。
部位としては、もも肉の辺りだ。
上質な赤身の肉を楽しむという点では、最適だろう。
「へぇ……これはまた……」
その肉の塊を見て、マリーナは感心したように呟く。
長い時を生きてきたマリーナの目から見ても、その肉は非常に上質な肉だと理解したからだろう。
ダスカーを含め、貴族の屋敷に招待された経験の多いマリーナだけに、当然多くの料理を見てきていた。
だからこそ、レイの出した肉が十分に素晴らしい食材であるとマリーナには理解出来たのだ。
「どうだ?」
「問題ないわ。切るのも……問題ないと思うでしょうし」
そう告げると、マリーナは肉の塊をあっさりと持ち上げる。
肉の塊はそれなりに結構な重量があるのだが、マリーナは特に重さを感じているようは思えない。
この辺り、マリーナの身体能力の高さを示しているのだろう。
マリーナは精霊魔法使いではあるが、同時に弓も武器として使っている。
それだけに、腕力という意味でも一般的な魔法使いよりも明らかに上だった。
……あるいは、世界樹の巫女というのも関係しているのかもしれないが。
(世界樹の巫女か。……だとすれば、闇の世界樹について何か知ってるか? ただ、あれに闇の世界樹って名前がついてたのを知ると、マリーナは怒りそうなんだよな)
肉の塊を持って家の中に戻っていくマリーナ……の、背中が大きく開いたパーティドレス姿を見ながら、レイはそう考える。
マリーナにとって、世界樹がどれだけの意味を持っているのかは、レイには分からない。
世界樹のある故郷を出てこうしてギルムにいるし、そもそもマリーナが冒険者になったのはかなり昔だ。
そういう意味では、世界樹の巫女という存在であっても、世界樹そのものに対しては強い思いを抱いていない可能性もある。
だが、以前マリーナの故郷に行った時のことを考えると、何だかんだと世界樹に対して強い思いを抱いているような気がしていた。
(闇の世界樹については、ギルドの方でもう魔石とか素材を解析してるだろうし、そっちで色々と分かる可能性もある。詳しい話については、そっちから情報を得た後でもいいか。……もっとも、マリーナならその気になればギルドから幾らでも情報を引き出せそうだけど)
ワーカーは仕事とプライベートをしっかりと区別するのは間違いないだろうが、それ以外の者にしてみれば、マリーナに世話になった者が多い。
そのような者達は、マリーナに頼まれれば嫌と言えない者も多いだろう。
あるいは、単純に色気にやられてしまうか。
「レイ、祭りの件で色々と街中は騒がしいという話だったが、どうであった?」
「ん? ああ、そうだな。さっきマリーナも言ってたけど、急に祭りをやるって話が出たから、色々と困惑している奴も多いし、それでいて楽しみにしてる奴も多いって感じだな」
帰る途中で遭遇した喧嘩の一件も、あるいはその辺が関係しているのかもしれない。
そうレイは思いつつ、エレーナに答える。
「ふむ、なるほど。……ああ、そう言えば今朝はすまなかったな」
唐突に変わった話題に、レイは一瞬何について言われているのかが分からなかった。
しかし、少し考えれば納得出来る。
レイと面識を得たいと判断し、やって来た者達の件なのだろうと。
「起きた時、家の中にあれだけ多くの奴がいたのは驚いたけどな。すぐここに避難したし、アーラからもその件は聞いてるから、気にしなくてもいい」
貴族達が中庭に強引にでも入ってくるようなことをしていれば、レイも不満を口にしたかもしれない。
しかし、エレーナに会いに――正確にはレイと面識を求めて――来た貴族達は、その一線を越えるようなことはしなかった
マリーナの家に入れる時点で、ある程度の人格は保証されているのだが、それと同時にここで無茶な真似をすれば、それこそエレーナの顔を潰すことになるという思いもあったのだろう。
そのおかげで、レイは鬱陶しい思いをしなくてもすんだ。
「それで、あの連中はどうしたんだ? もういないみたいけど」
中庭から見える限り、家の中にはエレーナに会いに来た貴族達がいるようには思えない。
であれば、もう帰ったのは間違いない。
もっとも、レイが起きたのが昼前。今はもう午後八時程。
それを思えば、レイが起きてから八時間以上が経っている。
そうである以上、貴族達もいつまでもこの家の中にいる訳にはいかなかったのだろう。
もしそのような真似をしていれば、それこそレイと面識を得るどころの話ではなく、エレーナからも不愉快な相手として認識されてしまう。
貴族達にしてみれば、そのような真似は絶対に出来ない。
これで会いに来た相手がエレーナではなくもっと別の相手……それこそアーラであったりした場合なら、貴族の中にはレイに会うまでは絶対に帰らないといったようなことを考える者がいてもおかしくはないのだが、相手はエレーナだ。
姫将軍の異名を持ち、貴族派を率いているケレベル公爵家の令嬢でもある。
そのような相手から不興を買うような真似は、とてもではないがしたくないと思うのは当然だろう。
「うむ。レイがいなくなったのを確認すると、大半の者は帰ったな」
「そうか。なら、そう騒がしくなかったみたいだな。……けど、俺に会いに来たってことは、明日にでもまた俺に会いに来たりするのか? それはそれで厄介だけど」
そう言うものの、それでもレイがいつも通りの時間に起きていれば、その辺は特に問題はなかったりする。
エレーナに面会をしに来る貴族も、当然のようにそれだけが仕事ではない。
ギルムで集め、実家に送る情報を精査する必要があるし、それ以外にも貴族というのは情報を集める為や、顔繋ぎの為にも夜には他の貴族を招いてパーティを行ったり、そこまで大袈裟ではなくても食事会をしたりといったようなことは珍しくはない。
ましてや、今は祭りの件も含めて様々な情報が飛び交っているような状況だ。
それだけに、多数の貴族が情報を集めようとしてもおかしくはなく……結果として、かなり遅くまで寝ている。
レイは基本的に早朝には起きて、時にはエレーナやヴィヘラと戦闘訓練をすることも珍しくない。
そういう意味では、貴族達がエレーナと面会にやって来た時、既にレイの姿は家の中にはなくなっている。
今日は、昨日の疲れがあって起きるのが遅くなってしまったが、普段であればそのようなことはあまりない。
「祭りの件もあるから、来ることは来るだろうが、それでも人数は今日程多くはないだろう」
「そうか。だとすると、祭りに近付けば近付く程に、来る奴の人数は減っていくってことか?」
「そうなるだろう。もっとも、祭りが終わればまた一気に増えるだろうが」
「……だろうな」
エレーナの言葉に、面倒そうな様子でレイは呟く。
祭りでは、レイが倒したクリスタルドラゴンの死体が披露される。
ランクSモンスター、それも新種のドラゴンだ。
魔の森に棲息するそのようなドラゴンを倒したドラゴンスレイヤーにして、ランクA冒険者となったと、そうレイは発表されるのだ。
既にギルムにいる多くの者が、レイは昇格試験に合格したと考えており、ほんの少数……レイが昇格試験に落ちることに賭けていた者達だけが、それを認めていない。
そんな状況ではあるが、クリスタルドラゴンの死体とドラゴンスレイヤーについて知られれば、間違いなくレイと面識を得たいと思う者は増えるだろう。
それこそ、今朝とは比べものにならないくらいに。
(今更だけど、かなり面倒なことになったよな。錬金術師達も、間違いなく素材を求めてやってくるだろうし)
トレントの森の木に魔法的な処理をしている錬金術師達にしてみれば、新種のドラゴンの素材というのは、それこそ喉から手が出る程に欲しい代物だ。
そうである以上、間違いなく面倒なことになるだろう。
……せめてもの救いは、今はレイがトレントの森で伐採された木を運ばなくてもよくなったことだろう。
そんな風に思いながら、肉料理が出来るのを待つのだった。