2611話
草原で十分に遊んだレイは、もう少しで夕方くらいになる時間ということもあってギルムに戻ることにした。
少し早めに戻ることにしたのは、夕方になれば外で働いていた者達がギルムに戻ってくるので、中に入る為の手続きに時間が掛かると判断した為だ。
(あ、どうせならトレントの森でリザードマン達に挨拶をしてくればよかったな。……いや、数時間程度しかなかったし、どうせならもっとゆっくりと時間がある時の方がいいか)
セトがギルムに向かって降下していく時の浮遊感を楽しみつつ、レイはそんなことを考える。
ギルムの前には、既にある程度の行列が出来ていた。
それでもまだ夕方になる前ということで、並んでいるのは早く仕事が終わったか、今ギルムに到着した者達ばかりだ。
レイが予想していたよりも少し行列は長かったが、それでもピーク時に比べれば短いのは間違いない。
そんな行列に並ぶと、当然のように周囲は驚いた様子を見せる。
しかし、セトの存在については十分に理解しているのか、特に騒ぐ様子はない。
「レイさん、セトを少し撫でてみてもいいですか?」
と、レイの前にいた二十代程の商人が、そう聞いてきた。
セトに対して興味津々といった様子を見れば、セトに危害を加えるような相手には思えない。
「セトが嫌がらないのなら、構わないぞ。ただ、セトに危害を加えるような真似をすれば、相応の報いを受けることになるから、気をつけてな」
「グルゥ」
レイの言葉に、その通りと喉を鳴らすセト。
商人はそんなレイの言葉に少しだけ驚き、怯えつつもそっとセトに向かって手を伸ばす。
やがて商人の手がセトの身体に触れ……
「ふぅ……」
セトの身体から生えている毛の滑らかさに、商人は感嘆の息を吐く。
一瞬、この毛で服かなにかを作ったら売れるのではないかと、そんな風に思った商人だったが、幸いなことにすぐレイの言葉を思い出し、その考えを振り払った。
もっとも、レイは多少大袈裟に言っていたが、商人がそのようなことを考えていても、実際に行動に移さない限り、セトは商人に攻撃をするような真似はしない。
そんなことをしている間にも門の中に入る手続きは進み、レイ達もあっさりと中に入る。
初めて……もしくは長期間ギルムを空けていた者であれば、荷物の検査の類もしっかりとやられるのだが、レイの場合は数時間前にギルムを出ていったばかりだ。
セトの飛行速度を考えれば、その数時間で一体どれだけの距離を移動出来るのかは取りあえず考えないようにしているらしい。
そもそも、密輸品の類を運ぶとした場合、レイはミスティリングに収納する。
そしてレイのミスティリングに収納されている品々を調べるとなれば、それこそ一昼夜どころではすまないだろう。
そんな訳で、レイは特に荷物の検査を受けたりはしない。
これは、レイが今までギルムの冒険者として活動してきたというのも、影響しているのだろう。
レイなら、そのような犯罪行為はしないと。
……実際には、敵対した相手は貴族であろうがなんだろうが平気で殺しに向かうという行動をするので、十分犯罪的ではあるのだが。
それもダスカーに対してはそのようなことをしないと、これまでの行動から思われているのだろう。
他の者に比べてあっさりとギルムの中に入ったレイは、これからどうするべきかを考え……漂ってくる香りに気が付く。
複雑な香辛料を多数使っている、刺激的な香り。
緑人の影響によって、現在ギルムでは様々な香辛料が作られている。
その香辛料は、商人達にとっては大きな魅力となっていたが……ダスカーは商人達だけに売るのではなく、ギルムの住人にも多少は行き渡るようにしていた。
これは、ギルムの住人がどのような香辛料を好むかというのを調べるという意味もあるのだろう。
食というのは、その地方によって大きく変わってくる。
例えば、レイが日本にいた頃に食べていた茶碗蒸しは栗の甘露煮が入っている甘い茶碗蒸しだった。
それが普通だと思っていたので、最初に東京の茶碗蒸しはしょっぱいというのを知った時は、驚いたものだ。
また、栗の甘露煮の代わりに銀杏が入っているといったことも同様に驚いたことがあった。
そういう意味で、レイが以前行った砂漠……砂上船を入手した場所でも香辛料の栽培が盛んだったが、そこと同じような香辛料を育てても、ギルムの住人には好まれないといった可能性は十分にあった。
「グルルゥ」
「ああ、ちょっと美味そうな匂いだな。……時間にも余裕があるし、見ていくか」
仕事が終わって腹が減ってギルムに入ると、漂ってくる食欲を刺激する匂い。
レイの感覚としては、どこかカレーに近い香りがする。
そのような条件反射もあって、レイはセトと共に香りの漂ってくる方に向かって進む。
そうして到着した先には……結構な行列が出来ている屋台が存在していた。
「だよなぁ」
残念そうに言うレイ。
ただでさえ、食欲を刺激する香辛料を使った料理の匂いが漂っているのだ。
そろそろ夕方になって仕事が終わるこの時間になれば、その香りに誘われるように多くの者が集まってくるのは当然だった。
とはいえ、どこかカレーを思わせるような匂いが漂っている以上、レイとしてはここで並ばないという選択肢は存在しない。
そうして並んでいると、行列が次第に前に進んでいく。
その前に進む速度は、かなり早い。
その理由としては、底の深いスープ皿に鍋からスープを盛り付け、パンを一つとスプーンを渡すだけといったような、簡単に料理を渡すことが出来るからだろう。
ちなみに皿とスプーンは一応一緒に売っているということになっているのだが、食べ終わった後に返せば、その分の金額は返ってくる。
それを見たレイが思い浮かべたのは、駄菓子屋で売っていた炭酸飲料でも瓶を返すと少しだけ金額が戻ってきていたな……ということだった。
これなら、家に食器を持って帰りたい人は普通にそのまま持って帰ることも出来るし、食器はいらないという者は食器を屋台に返して多少なりとも金額が戻ってくる。
もっとも、この仕組み自体はギルムではそこまで珍しいものではない。
特に屋台でスープの類を売っている者なら、多くがこの形式を取っていた。
だからこそ、それそのものはそこまで珍しくはなかったのだが……
「青……?」
行列が短くなれば、屋台の近くでスープを飲んでパンを食べている者の姿を確認することが出来る。
そうした者達のスープ皿が目に入ったレイだったが、そのスープが青色をしていたのに、驚く。
基本的にスープというのは、色々な色がある。
トマトのように赤い野菜を大量に使った赤いスープや、緑の葉野菜をペースト状にして作った緑のスープ、透明なスープや茶色のスープといった具合に。
そういう色のスープは、レイも見たことがある。
だが……青のスープとなれば、話は変わってくる。
今まで色々な料理を食べてきたレイだったが、それでも青のスープというのは初めて見る。
(食えるのか?)
一瞬そう思ったレイだったが、改めてスープを食べている他の者達の様子を見ると、皆が美味そうに食べていた。
その様子を見れば、スープは十分に美味いと思えるのは間違いなかった。
(多分大丈夫だよな? ……というか、どうやって青い色のスープとかになるんだ?)
あるいは、何らかの着色料の類でも使っているのか? と思ったが、わざわざ青いスープにする必要もないだろう。
それはつまり、何か別の理由があってこのような色になっているのだと考え……ちょうどそのタイミングで、レイの番が回ってくる。
「え? レイ?」
店主もレイの顔を知っていたのか、驚きの声が上がった。
もっとも、屋台を使っている者にしてみれば、レイはかなり有名人だ。
料理が美味ければ、大量に購入してくれるお得意様なのだから、当然だろう。
もっとも、それは料理が不味ければ大量に購入したりしないということを意味しているので、何気にレイの存在はその屋台の料理が美味いかどうかを決める為の基準になっている節もあった。
だからこそ、店主の男もレイの姿を見て驚きつつも喜び、同時に緊張した様子を見せているのだろう。
レイは自分の分とセトの分を購入し、代金を支払う。
だが、その代金が思っていたよりも安いことに驚く。
「随分と香辛料をたくさん使っているみたいだけど、この値段で大丈夫なのか?」
「ああ、これはちょっと特別な相手から購入してるから、この値段でも十分に儲けは出るんだよ」
特別な相手というのは、間違いなく緑人……正確には緑人を雇っているダスカーなのだろうが、レイはそれを表に出さないようにして会話を続ける。
「それにしても、青いスープって……今まで色々と食べてきたけど、こんな青……それも真っ青なスープなんて、初めて見た」
驚きながら言うレイに、店主は自慢そうに笑みを浮かべる。
「香辛料に頼ってるだけじゃ、駄目だからな。きちんと料理の腕も磨く必要がある。特に視覚ってのは料理を食べる上でも大きな役目を果たすからな。そういう意味では、このスープは自信作だよ」
レイが知っている限り、このように自信満々に言う者というのは、本当に自信満々でそう言っているのか、もしくは独り善がりな料理を作り、それを他の者が食って不味いと言えば、お前達は味というものが分かっていないと主張したりする。
だが、幸いにしてこの屋台の周囲でスープを食べている者達は、誰もが不味そうな様子を見せていない。
それどころか、仕事が終わって空腹だったということも関係しているのか、心の底から美味そうにスープを食べていた。
そんな客達を見れば、この店主の自信が独り善がりなだけではなく、本当に料理の腕がある相手だと判断出来る。
(それに、ダスカー様が選んだ人物だしな)
ダスカー本人ではなく、ダスカーの部下が選んだという可能性もある……というより、その可能性の方が高かったが、それでも香辛料を任せるのだから、まさか料理の腕が悪い者に任せたりはしないだろう。
「じゃあ、十分に味わってくれ。それで美味かったら、纏め買いしてくれてもいいんだぜ?」
いいんだぜ? と言いながらも、自分の出しているスープを味わえば間違いなく纏め買いしたくなる筈だ。
そんな態度を見せる店主に頷き、レイはセトと共に屋台から少し離れた場所で早速食べる。
セトは当然のようにスプーンを使える筈もなく、皿から直接スープを飲む。
レイが追加で出した皿の上には、セトの分のパンも置いておく。
「さて、食うか」
「グルルゥ!」
レイの言葉にセトは嬉しそうに喉を鳴らし、スープを味わう。
美味い。
それがスープを飲んだレイの正直な気持ちだった。
とはいえ、やはり考えていたカレーとは大分違う。
……当然だろう。レイの考えていたカレーというのは、カレールーを使って作ったカレーだ。
カレールーというのは、その中に各種香辛料や油分といったものが固められており、それを入れるだけで香辛料のプロとも言うべき者達が長年日本人の舌に合うようにと試行錯誤して出来たカレーを気軽に食べられるというものだ。
そんなカレーを食べ慣れていたレイにしてみれば、今まで使ったことがない新種の香辛料を使って一人で考えた料理というのは、当然だが物足りなさを感じてしまう。
それでも、あくまでもレイの知っているカレーと比べると劣っているという意味で、純粋にスープとして食べた場合は間違いなく美味い。
(カレー風味のスープってところか。……スープカレーってのがあるらしいけど、そんな感じなのか? いや、勿論スープカレーは青くないんだろうけど)
生憎と、レイはスープカレーを食べた事はなく、料理漫画やTVで見たことがあるだけだ。
それだけに、このカレー風味のスープがスープカレーなのかと言われれば、それが正しいのかどうかは分からないので、素直に頷くことは出来なかった。
そうして味わいつつ……ふと、思う。
カレー風味のスープなら、ギルム名物のうどんをいれればカレーうどんになるのではないか、と。
スープカレーは食べたことがないレイだったが、カレーうどんはそれなりに食べたことがある。
スーパーでも茹でたうどんに掛ければいいだけのレトルトで売ってるのは珍しくないし、外食をする時に食べることもあった。
それを思い出し、これにうどんを入れればいいのではないかと思うレイ。
勿論、レイは単純に茹でたうどんをこのスープに入れればいいだろうと思っていたが、実際にカレーうどん(仮)として出す場合、うどんもスープもそれに合うようにしっかりと調整する必要がある。
それでも、カレーうどんを食べたいレイは、取りあえずこのスープを食べ終わったらある程度買いだめしてから、カレーうどんについて話そうと考えるのだった。