2602話
ダスカーと祭りについての話や、それ以外にも魔の森についての話をしていたレイだったが、気が付けば既に夕方になっていた。
正直なところ、この時間になるまで話に夢中になるとは……といったように思わないでもなかったが、それでもレイとしては悪くない気分だ。
とはいえ、だからといっていつまでもダスカーと話をしている訳にはいかない。
今回は色々と特別だったが、ダスカーは現在結構な量の仕事を抱えている。
そんな中でレイとずっと話しているというのは、ダスカーにとっても決していいことではない。
レイはこうしてセトと共に街中を歩いているが、今頃ダスカーは本来なら今日やる筈だった仕事を急いで片付けているだろう。
「グルルゥ?」
どうしたの? と喉を鳴らすセト。
そんなセトに、レイは何でもないと首を横に振り……
「レイ!」
と、不意に聞き覚えのあえる声が聞こえ、そちらに視線を向ける。
視線を向けるまでもなく、レイはその声が誰のものなのかを理解していた。
そして視線を向けた先には、レイの予想が当たった人物の姿がそこにはあった。
「ヴィヘラ、今日はもう仕事は終わったのか?」
「あのね、久しぶりに会うのに……言うのはそういう言葉なの?」
呆れた様子で……それでもレイと会えたことを喜びながら、笑みを浮かべる。
夕陽によって周囲が赤く染められる中、向こう側が透けて見えるような、娼婦や踊り子のような薄衣を身に纏ったヴィヘラの姿が赤く染まっている光景は、どこか幻想的なものがある。
とはいえ、それでもレイはヴィヘラの美貌を数え切れない程に見てきたのだ。
幻想的なヴィヘラの姿に目を奪われたのは、一瞬だけでしかない。
「そうだな。最初はこう言うべきだったか。……ただいま」
「おかえり」
笑みを浮かべてそう告げるヴィヘラに、ふとレイは気が付く。
「あれ? そう言えばビューネはどうした?」
「ビューネなら、もう先にマリーナの家に帰ってるわよ。私はちょっと用事があって少し戻るのが遅くなったの」
用事? と少し疑問に思ったが、そう告げるヴィヘラの口が好戦的な笑みを浮かべたのに気が付くと、何となくその理由が理解出来てしまう。
(多分、ヴィヘラにちょっかいを出してきた奴とかがいたんだろうな)
絶世の美女という表現が相応しいヴィヘラが、踊り子や娼婦のような姿をしているのだ。
手甲や足甲は装備しているが、言ってみればそういうプレイの内容をする娼婦……といったように見えないこともない。
ましてや、このギルムには毎日のように大勢が仕事を求めてやって来る。
そんな者の中には、それこそヴィヘラにちょっかいを出すような者がいてもおかしくはない。
ギルムにある程度長くいる者なら、それは自殺行為だと知っているのだが。
しかし、本人がそれを知らず、ましてやギルムに来たばかりで事情に詳しい知り合いもいない。……更には、ヴィヘラの周囲にそのような相手を止めるような他の者もいないとなると、最悪の結果しか見えない。
(まぁ、それでも怪我程度ですんでるだろうけど)
敵が強者であればともかく、単なる力自慢のお山の大将といったような者であった場合、ヴィヘラの戦闘欲を刺激するといったことは、まずない。
それこそ、一撃で気絶させられて終わりといった程度だろう。
「一応聞くけど、その用事で問題になるようなことはなかったんだよな?」
「そうね。大丈夫だと思うわよ」
何故そこまで断言出来るのかといったことに、若干疑問を抱くレイ。
だが、ヴィヘラは戦闘狂ではあっても、一般的な常識がない訳でもない。
元はベスティア帝国の姫だったが、出奔して冒険者として活動してきたのだ。
その生活の中で、一般常識を完全ではないにしろ、ある程度習得したのは間違いのない事実だ。
そのヴィヘラがそう言うのだからと、取りあえず納得しておく。
あるいは、何か問題が起きるようならその時はその時だという風に思ったことも事実ではあったが。
「分かった。なら、帰るか。ヴィヘラもこれ以上は特に何も予定はないんだろ?」
「ええ。それにしても……さっきの男のおかげでこうしてレイと一緒に帰れるんだから、そういう意味では感謝してもいいのかもしれないわね」
笑みを浮かべ、ヴィヘラはレイの腕に自分の腕を絡めてくる。
レイの腕で柔らかで豊かな双丘が押し潰される感触。
一日動き回っていた筈なのに、ヴィヘラから汗臭さは感じない。
そのことを若干疑問に思うレイだったが、今更かと思い直す。
そもそもレイもそうだが、ヴィヘラもまた既に普通の人間ではないのだから。
そう考えれば、寧ろこれが普通のことでもあるように思えた。
「当たってるぞ」
柔らかさを感じつつも、周囲の視線が気になり始めたレイは、そんな風に言う。
現在レイに向けられる視線は、昇格試験の件を気にしたものというよりは、ヴィヘラのような美人と腕を組むなんて羨ましい……といった視線が圧倒的に多くなっている。
「当ててるのよ。……いえ、潰してるのよ、かしら?」
満面の笑みを浮かべながらそう告げるヴィヘラ。
レイはそんなヴィヘラに何か言おうとしたものの……ヴィヘラの様子を見て、ここで何を言っても意味はないと判断する。
いや、それどころか、もしここで何か言った場合、それは余計に面倒なことになるだろうと、そのくらいは予想出来る。
そんな訳で、レイは不満を口にすることなくヴィヘラとセトと共に道を歩く。
当然ながら、そんなレイの様子を見た者達から延々と嫉妬の視線を送られていたが。
「そう言えば、ここ数日で何か変わったこととかはあったか?」
「うーん、特にそういうのはなかったわね。レイがいなかったから、少し家の方が寂しい雰囲気だったけど」
自分がいなかったから、寂しい。
そう言われれば、レイとしても悪い気はしない。
もっとも、レイの意識の大半は自分の腕で潰されているヴィヘラの双丘に向けられていたが。
何しろ、ヴィヘラと腕を組んだままで歩いているのだ。
当然ながら、そうして歩く度にヴィヘラの双丘は形を変え、柔らかな……幸せな感触をレイに与えてくるのだから、当然だろう。
「トレントの森の方は?」
「そうね。モンスターが現れているのは変わらないけど、今までは出なかったようなモンスターが出て来る時もあるわね」
「それはしょうがないだろ」
元々、トレントの森にはモンスターや動物、鳥といった生き物達がいなかった。
それだけに、行き場のないそのような生き物達が次々と集まってくるようになったのだ。
だからこそ、まだどのモンスターもきちんとした縄張りといったものは持っておらず、場合によっては縄張りを得たモンスターが翌日には別のモンスターによって追い出される……もしくは殺されるといったようなことにもなる。
そうである以上、当然の話だがモンスターの種類は多くなる。
「でも、モンスターの種類は多いけど、強力なモンスターはいないのよね」
戦いを好むヴィヘラにしてみれば、当然ながら戦うモンスターは強いモンスターの方が好ましい。
しかし、トレントの森に出て来るモンスターは、とてもではないがヴィヘラにとっては満足出来る相手ではないのだろう。
「レイの方はどうだったの? 昇格試験については聞かないけど、魔の森だから強力なモンスターがいたかどうかくらいはいいでしょ?」
期待に満ちた目を向けるヴィヘラに、レイは少しくらいならいいかと考える。
幸い、レイ達の周囲には人の姿はなく、レイの話を盗み聞きするような者もいない。
「強力なモンスターって訳じゃないけど、異様に素早いトンボのモンスターがいたな」
「トンボ? 素早い? 具体的には?」
「具体的には……俺も最初はそのトンボを攻撃出来ないで、向こうの攻撃を何とか回避するのが精々だったといったくらいか」
トンボと最初に遭遇した時のことを思い出しながら、呟くレイ。
レイにしてみれば、いきなりだということもあったのだが、それでもレイですら反撃を行うことは出来ず、攻撃を回避するといったような真似しか出来なかった。
レイですらそうだったのだから、普通の冒険者であれば間違いなく何が起きたのかも分からないまま、死んでしまうだろう。
とはいえ、トンボは速度に特化しているモンスターで、防御力は非常に弱い。
自分の武器を振り回していて、偶然それが敵にぶつかれば……それだけで、相手を殺すといったようなことも不可能ではない程に。
もっとも、そのような偶然でどうにかなるよりも、トンボの攻撃で自分が死んでしまう可能性の方が高いだろうが。
「へぇ……それは面白そうね」
レイですら、回避するのが精々だった。
そんな言葉を聞けば、当然ながらヴィヘラはそんなモンスターに興味を持つ。
長剣のような武器は持たず、精々が手甲や足甲といった防具兼用の武器しか持たないヴィヘラだ。
攻撃の速度には自信があるだけに、そのトンボと戦ってみたいと思うのは当然だろう。
(ヴィヘラなら何とかなるか? いや、けどあの速度は……)
レイも、ヴィヘラの攻撃の速度は知っている。
好きこそものの上手なれという言葉があるが、ヴィヘラの場合はまさにその典型だろう。
そんなヴィヘラと、レイはそれこそ数え切れないくらいの模擬戦を行っている。
それを知った上で、レイは難しいだろうと思っていた。
それだけ、トンボの速度は速かったのだ。
(とはいえ、ヴィヘラなら何度か見れば対応出来るようになると思うけど)
ヴィヘラが戦闘において優れているところは色々とある。
例えば、相手の防御力を無視して直接体内に衝撃を与える浸魔掌。
高い身体能力や、鋭い勘といったもの。それ以外にも様々なものがあるが、その中の一つに学習能力の高さがある。
一度見た攻撃は二度と食らわない……とまではいかないが、それでも以前よりも明らかに対処能力は上がる。
それだけに、トンボの速度も最初こそは驚くものの、それを二度、三度と見れば対処出来るようになってもおかしくはなかった。
「ヴィヘラにしてみれば、面白い相手かもしれないな」
レイは取りあえずそう言っておく。
その言葉はお世辞でも何でもなく、あのトンボはヴィヘラにしてみれば楽しい相手と認識するのは間違いなかった。
(今度魔の森に連れていったら、戦わせてみるか。……問題なのは、あのトンボは遭遇率が低いってことだけど)
あの速度だけに、魔の森の中を歩いていれば遭遇するのは難しくないだろうと、そう思わないでもなかったが、レイが実際に経験した限りでは、そう簡単に遭遇出来る相手とも思えなかった。
完全に運だろう。
あるいは、何らかの方法で誘き寄せるといった方法もない訳ではないだろうが、生憎とレイはその方法については何も知らない。
「ああ、そう言えば……変わったことといえば、貴族街の見回りは大分落ち着いてきたわね」
「見回りが? また、随分と早いな」
少し前に貴族街で起きた事件……それには、実はレイも関わっていたりするのだが、そんなことはおくびにも出さず、そう告げる。
レイにしてみれば、貴族街の見回りが減ったというのはあまり影響がない。
もしレイが誰にも知られていないような無名の冒険者であれば、そのような者が貴族街を……それこそ、少し前に大きな事件があったばかりの場所にいるのを怪しまれるということもあるだろう。
だが、レイの場合はギルムで顔を知らない者はいない。
いや、レイがギルムにいない間にやって来た者の中には、深紅という異名を知っていても、レイの顔を知らないという者がいてもおかしくはないが。
だが、貴族街で働いている冒険者ともなれば、そのようなことはない。
つまり、幾ら貴族街の見張りが多くても、レイなら安心だという風に認識されているので、特に問題はない。
そして多くの者が見回りをしているということは、その分だけ貴族街の安全にも繋がるのだから、レイとしては寧ろ大歓迎だった。
……もっとも、当然ながら今まで以上に多くの冒険者を雇い、多くの仕事をさせようとした場合、支払うべき報酬も増えてしまうのだが。
とはいえ、レイ達が住んでいるのは貴族街だ。
他の領地から送られてきている貴族が集まっている場所である以上、その程度の金銭的な負担など大したことはない。
いや、寧ろその程度の金銭的負担すら厳しいと思われれば、それこそ周囲からの目は哀れみを抱いたようなものとなるだろう。
仮にも貴族街に住んでいるマリーナは、その手の護衛を雇っておらず、見回りも行ってはいないのだが。
そのような真似をしても侮られないのは、やはりマリーナが元ギルドマスターで、凄腕の精霊魔法使いだからだろう。
レイはヴィヘラと共に会話を続け、時にはセトを撫でながらマリーナの家に向かうのだった。