2539話
巨狼を倒した後、その血の臭いに惹かれて他のモンスターがやって来ないとも限らないので、レイとセトは取りあえずその場所から離れた。
そうして巨狼と戦った場所から十分程移動すると、これからどうするべきかを考える。
「まだ午後も半ば……三時少し前ってところか」
懐中時計を出すのではなく、魔の森に生えている木々の隙間から空を見上げ、そこにある太陽の位置で大体の時間を確認する。
勿論それは大体なので、もっと詳しい時間を知りたいのならミスティリングの中からマジックアイテムの懐中時計を出して確認すればいいのだが。
今はそこまでする必要はないと判断しての行動だった。
「グルルゥ?」
どうするの? とセトがレイに向かって視線を向ける。
そうしていながら、セトは周囲の警戒を止めてはいない。
勿論、レイも休憩をしつつ周囲の様子から目を離すといったようなことはしていない。
今の状況で何が起きるか分からない以上、当然だろう。
レイ達がいるのは、魔の森。
それこそいつ何が起きてもおかしくはないのだから。
「よし、もう少しモンスターを狩ろう。ランクAモンスターが出て来るとちょっと困るが……まぁ、それでも戦って勝てないことはないと思うし」
巨狼との戦いでも、レイとセトは無傷に近い勝利だった。
とはいえ、それはあくまでも巨狼が本当の実力を発揮するよりも前に強力なスキルを使い、それを連発することによって、その実力を発揮させなかったというのが正しい。
あれだけの強力なモンスターだったことを考えると、正面から戦った場合はそれなりの怪我をしていた可能性は否定出来ない。……いや、かなりの高確率でそうなっていた筈だ。
とはいえ、ランクAモンスターの全てが巨狼のような存在かと言えば、また違う。
戦いには当然相性があり、例えば防御力に特化したようなランクAモンスターがいた場合、それは極めて強力な攻撃力を持っているレイやセトにしてみれば、いい獲物といった扱いになる可能性が高かった。
「ランクAモンスターじゃなくても、ランクBやCでも十分にスキルが習得出来るしな。そういう意味では、この魔の森って俺達にしてみればボーナスステージ的な場所か。……凶悪なボーナスステージだけど」
レイとセトという、高い能力を持っている一人と一匹だからこそ、魔の森をボーナスステージ扱い出来るのだ。
もしその辺の冒険者……例えそれがギルムで活躍している冒険者であっても、ランクB冒険者程度では、魔の森で長時間生き抜くことは難しい。
それどころか、ランクA冒険者であっても能力次第では魔の森で生き残るのは難しいだろう。
事実、レイ達を魔の森まで案内したザカットはランクA冒険者だったが、レイ達を魔の森まで連れてくると、一刻も早くここから離れたいと立ち去っている。
「グルルルゥ……グルルルルゥ!」
レイの言葉に納得したようなセトだったが、不意に鋭い鳴き声を上げる。
その鳴き声が警戒心を含んでいるのを感じたレイは、すぐに戦闘準備を整えた。
「さて、次はどんな敵だ? ……嫌な予感がするな」
やる気を見せたレイが次の瞬間にはどこか嫌そうな様子を見せたのは、森の奥から聞こえてきたブーンという音を認識したからだろう。
その音は、レイにとって決していい思い出のあるものではない。
日本にいた時によく聞いた音。
夏の夜に眠ろうとしていると、不意に耳元で聞こえてくるその音。
特にレイの家があったのは山の側だったので、その音を発する存在……蚊が家の中に入ってくるのを止めることは出来ない。
蚊取り線香を使っても、効果があるのかないのか。
また、外に出掛ければどこからともなくやって来ては、刺していく。
蚊を見つけて手で叩いて殺すことに成功した時、掌に蚊の吸った血が大量に付着した時は、かなり嫌な気分になる。
レイとしては、血を吸うのはいい――本来ならよくはない――が、痒くしないで欲しいというのが正直なところだった。
それならまだ何とか我慢出来たのだが。
「殺す」
日本にいた時の、蚊に対する様々な――悪い意味での――思い出が蘇ってきたのか、レイはこの音の持ち主が姿を見せたら、即座に殺してやろうとデスサイズと黄昏の槍を構える。
「グルゥ!?」
いきなり殺意の高まったレイに、セトは驚きの声を上げる。
ある程度はレイの記憶を知っているセトだったが、それでもレイがここまでこの音の主……蚊に対して、強烈な殺意を抱いているというのは、予想外だったのだろう。
セトはそんなレイの殺意を感じたのだが、音の主……蚊は、レイの殺意を全く気にした様子はなく、姿を現す。
「うわ……」
さすが魔の森と言うべきだろう。
姿を現した蚊は、全長一m近い大きさを持っている。
巨狼と同じく、普通の蚊がただ巨大化しただけといった様子だったが、そんな蚊に対してレイが抱いたのは、巨狼に対する驚きや畏怖に近い感情とは違う、嫌悪感。
「飛斬!」
デスサイズや黄昏の槍で蚊に触れるのも嫌だと言わんばかりに放たれた飛ぶ斬撃は、あっさりと蚊の身体を切断する。
「……弱いな」
レイは嫌悪感を消して少しだけ驚きの表情を浮かべる。
相手は魔の森に存在するモンスターだ。
そうである以上、まさか飛斬の一撃で死ぬとは思わなかったのだろう。
だが、これはレイが魔の森での戦闘に慣れていたからこその、錯覚に近い。
魔の森のモンスターであろうとも、全てが高ランクモンスターという訳ではないのだから。
そのことに気が付いたレイは、取りあえず魔石は確保しておこうと、そう考えて蚊のモンスターの死体に近付いたのだが、急に漂ってきた鉄錆臭と地面に広がっている大量の血の赤を見て、半ば反射的に口を開く。
「うわぁ……」
恐らく、この蚊はレイに殺されるよりも前に何らかの動物かモンスターから血を吸っていたのだろう。
魔の森の蚊の大きさを考えると、レイが知っている蚊よりも圧倒的に大きい。
だとすれば、これだけの血を吸われた獲物はどうなったのか。
それこそ、血を全て吸われ、干からびて死んでいてもおかしくはない。
そんな血の中には、魔石が転がっている。
レイの一撃で蚊の心臓も切断されたのだろう。
(あ、そう考えると結構危なかったのか? デスサイズで切断したのならまだしも、飛斬だと魔石を切断しても魔獣術の条件を満たさなかっただろうし)
そのことに安堵しつつも、蚊の魔石をどうするかとなると、レイの選択肢としては一択だ。
「セト、この魔石はちょっとお前に飲み込ませたくない。デスサイズの方で使っても構わないか?」
「グルゥ」
セトも何の血か分からない血によって塗れた魔石を飲み込むのは遠慮したかったのか、レイの言葉に素直に頷く。
「さて、そうなると問題はこの魔石でスキルを習得するか、強化出来るかだけど……」
そう言い、取りあえず流水の短剣で血に濡れた魔石を洗い、空中に放り投げてデスサイズで切断する。
だが、魔石を切断しても脳裏にアナウンスメッセージが流れてくることはない。
魔の森に来てから倒したモンスターは、全て――巨狼はまだ試していないが――スキルを習得するか強化出来たので、どこか拍子抜けしてしまう。
「いやまぁ、あれだけ弱かったしな。それもしょうがないか」
飛斬はレベル五で、レベル四までとは比べてかなり強化されている。
そうである以上、飛斬の一撃で死んでもおかしなところはない。
……ましてや、蚊は血を腹一杯に吸っており、動きは鈍かった筈だ。
実際にレイが日本にいた時も、血を吸った蚊は動きが鈍かった記憶がある。
血を吸っていない蚊は、叩き潰そうと思っても飛んでいる途中で不意に方向を変えたりして、それによって逃がしたといったことは珍しくはない。
その割には、レイから逃げても再びレイの周囲に戻ってきてプーンという嫌な羽音を立てたりしていたのだが。
「素材は……別にいいか」
飛斬で真っ二つになった蚊の死体からは、どのような素材が取れるのか分からない。
本来なら死体をミスティリングに収納しておけば、後日何らかの素材として使えるのかもしれないが、レイは何となく蚊の死体に触れるのを嫌い、そのままにしてその場からセトと共に移動する。
「それにしても、血の臭いの問題で移動してばかりだな」
「グルゥ? ……グルルルゥ」
レイの言葉に、セトはそう? と喉を鳴らし、魔の森に来てからのことを思い出すと、納得するように喉を鳴らす。
それこそ、血の臭いがすれば先程の蚊が多数集まってくるのではないかと、そんな風に考えながら、魔の森の中を移動する。
そんな中、ふとレイの目に入ってくるものがあった。
それは、少し離れた場所にある木の枝になっている、紫色の果実。
何故それを果実なのか分かったのかといえば、以前ギルムや他の街でも何度か食べたことがあった為だ。
勿論、見た目だけがそっくりな果実といった可能性も否定出来ない。
何しろここは魔の森だ。
普通の果実もあるかもしれないが、それに偽装した毒を持つ果実……といった可能性も否定は出来ない。
とはいえ、以前レイが食べたその果実はかなり濃厚な甘みを持ち、それでいながら食べ終わった後には微かな清涼感が口の中に残るといったような、かなり珍しく、そして美味い果実だった。
もし本物だった場合、是非採っておきたい。
そう思って果実に近付いてく。
すると、不意にレイが採ろうとした果実に伸ばした手に、何かが襲ってきた相手がいた。
「っと!」
咄嗟にレイは伸ばした手を引っ込める。
すると次の瞬間、レイの手があった部分を鋭い何かが斬り裂いていった。
鋭い……というが、それでも巨狼との戦いを終えてからまだそれ程立っていないレイは、その鋭い何かというのをしっかりと目で捉えることが出来ていた。
「リス? いや、違うな……カーバンクル!?」
レイの手を鋭い爪で攻撃しようとした相手は、少し離れた枝に着地すると、素早く睨み付けてくる。
その状況になって、ようやくその姿を確認したレイは、リスに近い形のモンスターの額に宝石と思しき物が埋め込まれているのを発見し、その名前を口にする。
レイがカーバンクルを見るのは、これが初めてという訳ではない。
以前他の冒険者が従魔として連れてるカーバンクル……それもただのカーバンクルではなく、九尾のカーバンクルを見たことがあった。
勿論、その時に見たカーバンクルと比べると、目の前にいるのは尻尾が一本しかない、普通のカーバンクルだ。
現在、そのカーバンクルはレイに向かって牙を剥き出しにして唸り声を上げていた。
レイにしてみれば、いきなりの展開に驚きつつも対処する為に動かないという選択肢はない。
このカーバンクルは、明確に自分に向かって攻撃してきたのだ。
正直なところ、レイにとってカーバンクルというのは厄介な相手ではある。
特に厄介なのは、魔法を反射するという能力を持っていることか。
勿論、具体的にどのくらいの魔法であれば反射出来るかというのは、レイにも分からない。
さすがに自分が全力で放った魔法も、問答無用で反射されるといったことはないと思うが。
そのような厄介な相手である以上、レイとしては出来れば戦いたくない相手ではあったのだが……それでも、こうして襲ってきた状況で戦わないという選択肢はない。
(果実を守る為に攻撃してきたとか? いや、この様子を見ると、少し違うっぽいな)
レイが採ろうとした果実が、実はカーバンクルという種族にとって何か重要な意味を持ち、だからこそ果実を奪おうとしたレイに攻撃してきたのか。
一瞬そう思ったレイだったが、改めて考えるとカーバンクルの様子からいって違うような気がする。
「グルルルゥ?」
カーバンクルと睨み合いになっているレイに対し、セトはどうするの? と喉を鳴らして尋ねる。
このまま攻撃するのか、それとも見逃すのか。
「倒す」
そんなセトの質問に対し、レイの口から出たのは短いがはっきりとした言葉。
レイにしてみれば、何らかの理由があるのかもしれないが、こうして自分と敵対している相手だ。
このまま逃げるのならまだしも、明確に自分に向かって敵意を向けている。
そうである以上、レイもカーバンクルと戦わないといった選択肢は存在しない。
「キシャアアアアアア!」
レイの様子から、戦うつもりだと理解したのだろう。
威嚇的な鳴き声を上げながら、カーバンクルは小さな牙を剥き出しにして威嚇の声を出す。
(あれ? カーバンクルってこういう鳴き声だったか? まぁ、俺が知ってるカーバンクルは九尾のカーバンクルなんだから、普通とは違うのかもしれないけど)
そんな風に思いつつ、レイは相手の行動に対応するべく準備をするのだった。