2519話
朝、レイはいつも通りに早朝の訓練として模擬戦を終え、朝食を食べ終わるとマリーナの家を出る。
「じゃあ、戻ってくるのは三日後……いや、行き来の時間を考えると、もう少し掛かるのか? ともあれそのくらいだから」
セトと並んで、見送りに来たエレーナ、マリーナ、ヴィヘラ、アーラ、ビューネ、ニールセン、イエロといった面々に向かって、そう告げる。
その口調には全く悲壮感の類はない。
多少の緊張はしているが、レイにしてみれば自分が行くのは魔の森……ある意味で現在の自分が生まれた場所だ。
勿論、魔の森にはランクAモンスターが複数存在するのが確認されている。
それどころか、ランクSモンスターの目撃証言すらあった。
とはいえ、それはかなり昔の話であって、今この時も魔の森にランクSモンスターがいるのかどうかは、微妙なところだが。
(ランクSモンスターか。いたら、倒すのは命懸けになりそうだけど、それによって得られる利益はかなり大きいよな)
魔石は勿論だが、マジックアイテムに使える素材や、何よりも肉だ。
このエルジィンにおいて、モンスターの肉というのは基本的にランクの高いモンスターである程に美味くなる。
あくまでも基本的にであって、オークのようにランクはそこまで高くなくても美味い肉を持つモンスターというのも存在するのだが。
「分かった。では、気をつけて」
エレーナの声によって送り出され、レイはギルドに向かう。
早朝……という程ではない、午前九時くらいの時間。
当然の話だが、本来ならエレーナやアーラ以外の面々はもう仕事に行ってもおかしくはない時間だったのだが、今日はレイの昇格試験があるということで、少し無理を言って仕事に出る時間を遅くして貰っていた。
とはいえ、ヴィヘラとビューネ、ニールセンが向かうのはトレントの森で、時間が切羽詰まっている訳ではない。
診療所で働いているマリーナだったが、診療所が忙しくなるのは昼が近くなってからで、朝方はそこまで忙しくはない。
そういう意味では、多少遅刻したところで致命的なことになる訳ではなかった。
もっとも、それはあくまでいつものことであればの話であって、突発的な事故か何かが起きて怪我人が出たりする可能性もあったが。
とはいえ、何事にもそつないマリーナのことである以上、もしそのようなことになったとしても、ある程度はどうにかするように手を打っているだろうというのは、レイにも予想出来た。
「ともあれ、魔の森で行われる昇格試験であっても、緊張して実力を発揮出来ないってのは、最悪の出来事だ。そうである以上、気楽にいくか」
「グルゥ」
レイの言葉に、セトは同意するように喉を鳴らす。
そんなレイとセトが歩いていると、何人かが軽く声を掛けてくる。
まだ朝方なので、働いている者は仕事が始まったばかりで忙しい者が多いのだろう。いつものように、セトと遊びたいと言ってくるような者はいない。
もっとも、それはレイが今日昇格試験を受けるというのを知っている者が多いから、というのもその理由になるだろうが。
これから昇格試験を受けるのに、無理に時間を取らせるような真似をした場合、それが理由でレイが遅刻して昇格試験を受けることが出来ない……などといったようなことになった場合、その人物の未来はないだろう。
少なくても、レイの合格に賭けていた者達からはその賭けが駄目になったということで恨まれるのは確実だ。
賭けに参加していなくても、ギルムに住んでいるということでギルムの冒険者として有名なレイが、昇格試験に合格するのを楽しみにしている者もいる。
また、そんな中でも一番怖いのはセト愛好家の面々だろう。
セト愛好家は、セトの主人ということでレイに対して複雑な感情を持っている者が多い。
レイだけがセトを独り占めしているという嫉妬や、レイがテイムしてくれたのでセトと遊ぶことが出来るという感謝。それ以外にも様々な感情を持っている者がいるのだが、それでも全員に共通しているのは、セトを可愛がっているということだ。
そしてセトがレイを大好きなのは当然のように知っており、もしレイが昇格試験に不合格になった場合、セトが悲しむのも当然だろう。
セトが悲しむというには、当然だがセト愛好家にとって許容出来ることではない。
そのような面々に狙われるようなことにならない為にも、レイやセトを引き留めるといったようなことをする者はいない。
皆が軽く声を掛け、昇格試験を頑張れよといったように激励するだけだ。
中には、自分の賭けの為にも是非とも合格してくれと、願うような者もいたが。
そんなやり取りをしながらレイは進み、やがてギルドに到着する。
既に一番忙しい時間はすぎているのだが、それでもギルドの中や周辺には多くの冒険者の姿がある。
増築工事で働いている者のうち、単純作業を行うような者達はもっと働いている場所の近くに臨時のギルド出張所があるので、そこで対処しているのだが、それでもこれだけの人数がギルドに集まっているのだ。
(これ、早朝に来たらろくに身動きすら出来ないんじゃないか? まさに寿司詰め状態って感じで)
そんなことを考えながら、セトにはいつもの場所に移動して貰って、レイはギルドに入る。
当然だが、いつもレイが来る時間帯ではないこともあり、レイとセトの姿を見て驚くような者もいたが、レイはそんな風に驚かれるのは慣れているので、特に気にした様子もなくギルドに入る。
「レイさん、こちらです!」
大量に冒険者がいる中で、一体どうやってレイの存在を見つけたのか、ギルドに入った瞬間にレイはレノラに名前を呼ばれた。
そんなレノラの隣ではケニーが恨めしそうな様子でレノラに一瞬視線を向け、冒険者の相手に戻る。
レノラの前にも冒険者がいたのだが、レノラがレイの名前を呼ぶと、すぐにカウンターからギルド職員がやってきて、レノラに代わって冒険者の相手をする。
……可愛いレノラに相手をして貰っていたのが、何故か生真面目そうな男に代わったことに冒険者は不満そうな様子を見せていたが、それでも実際に不満を口にするようなことはない。
ここで騒ぐような真似をすれば、順番待ちをしている他の冒険者に恨まれてしまうというのを理解しているのだろう。
だからこそ、その冒険者はギルド職員の男に文句も言わず、大人しく依頼書を処理して貰う。
「レイさん、二階の方にどうぞ。すぐにギルドマスターも呼んできますので」
「二階? 二階でも今はギルド職員が仕事をしてるんじゃなかったのか?」
「レイさんの昇格試験の件がありますので、急いで片付けました。……大変でしたよ」
しみじみと告げるレノラの様子を見れば、それが言葉だけではなく本当に大変だったのだろうというのは、レイにも予想出来る。
だが、それに対してレイが何かを言う訳にもいかず、そうかとだけ呟く。
それを言うだけなら、わざわざカウンターから出て来る必要はなかったのでは? と思わないでもなかったが、今その辺に突っ込むと、折角ここまで出て来てくれたことに不満を言うつもりはなかった。
「分かった。なら。二階でワーカーを待たせて貰うよ」
レノラから部屋の場所を聞くと、レイは階段を上っていく。
二階にある複数の部屋からは、ギルド職員が仕事をしている声が聞こえてくる。
中には悲鳴のような声も聞こえてくるのが、微妙にレイにとっては不気味なところだ。
恐らく、二階で仕事をしている者達はそれだけ追い込まれてるのだろうというのは、レイにも予想出来る。
(そんなに忙しいのなら、臨時採用……は採用したところで仕事が出来ないだろうし、そうなると他の街や村のギルドから人を借りてくるとか、そういう風にしてもいいんじゃないか?)
そんな風に考えるレイだったが、実際にはもうそのようなことは行われており、二階にいる者の多くが他のギルドから臨時で借りてきた人員だったりする。
そうして人を集めても仕事が幾らでも存在し、全くなくなる様子がないのが現在のギルムの状況だった。
何しろ、辺境に唯一存在する街――正確には街以上都市未満といったところだったが――だ。
そのような場所の増築工事を行うのだから、仕事は幾らでもある。
また、こちらはまだそこまで大規模に動いてはいないが、緑人達による香辛料の栽培だったり、地上船の製造工場だったりといったような諸々も作る必要がある。
その辺の事情を考えれば、それこそギルド職員が忙しくなくなる日というのは一体いつになるのか。
(冬になれば、楽が出来るのは間違いないけどな)
増築工事は冬……正確には秋の終わりに終わって、春の始まりから始まる。
その間の季節は、ギルド職員にとっても忙しくはない日々ということになるだろう。
もっとも、冬の間でもレイが用意したギガント・タートルの解体であったり、それ以外にも冬越えをするだけの金を貯めることが出来なかった冒険者は仕事をする必要があるので、ギルド職員が完全に暇かと言えばそうでもない。
それでも、今こうしているデスマーチと呼ぶに相応しい日々に比べれば、天国に近いだろう。
(ギルドにとって、職員は重要だ。それを考えれば、今の状況は色々と厳しいのは事実だが……今のこの状況でギルドをどうにかするといったようなことをする訳にもいかないしな)
もしこの状況でギルドがろくに動けなくなったりした場合、ギルムの増築工事そのものが麻痺しかねない。
それを思えば、現在のギルドはかなり大変だろうが、それでも頑張って貰う必要があった。
「で、こういう時に昇格試験か。……ワーカーもダスカー様からの要望とはいえ、よく引き受けたよな」
呟きながら、レノラに指示された部屋の中に入ると、その部屋の中には一人の男がいて、レイの呟きが聞こえたのか口を開く。
「今のこの状況だからこそ、ギルドマスターもレイの昇格試験を引き受けたんだろうな。それも普通の試験じゃなくて、魔の森でやるなんて無茶な試験を」
そう言ってきた男は、レイが見ても一目で腕の立つ男だというのは理解出来た。
二十代後半から三十代前半といったような年代の男。
その男一人だけが部屋の中にいるということは、つまりこの人物が魔の森に案内するランクA冒険者なのだろうと理解出来た。
「あんたが?」
レイもギルムでそれなりに長く生活しているが、目の前の男は初めて見る顔だった。
勿論、レイもギルムにいる冒険者全員の顔を完全に知っている訳ではない。
辺境にあるギルムは、以前までの話だが到着するのが難しい場所であると同時に、ギルムに到着したからといって皆がギルムで十分に活躍出来る訳ではない。
ギルムにある依頼を受けるのが難しい以上、スラム街に落ちるといった者もいるし、ギルムに来たのだからということで無理に依頼を受け、結果としてモンスターに殺されるといったようなことになるような者もいる。
そういう意味で、ギルムに来た冒険者は次々と死んでいく者も多いのだ。
だからこそ、レイも全ての冒険者を覚えるといったような真似は出来ない。
また、冒険者の中には性格が色々と特殊な者も含まれている。
例えば、夜に出現するモンスターの討伐依頼しか引き受けない、といったような。
目の前にいる冒険者も、もしかしたらそんな特殊な性格の持ち主なのかもしれないと考えるレイに、男は頷いて口を開く。
「ああ。俺が今回レイを魔の森まで案内するザカットだ。ランクA冒険者だが、異名の類はない普通の冒険者だ」
「異名持ちの俺が言うのもなんだけど、異名を持っていない冒険者の方が多いだろ? それにランクA冒険者って時点で普通の冒険者とは言えないと思うけど」
レイの言葉は決して大袈裟なものではない。
冒険者の大半が、中堅やベテランと呼ばれるランクCやDで頭打ちとなる。
ランクBへの壁を越えることが出来るのは、冒険者全体で見ても三割……どんなに多く見積もっても四割には届かないだろう。あるいは二割という可能性すらある。
そんな中で、更に上のランクAともなれば、全体の一割にも届かないだろう。……その一割に届かないランクA冒険者が多く集まっているのが、辺境のギルムなのだが。
ともあれ、冒険者全体の一割にも満たないランクA冒険者を普通の冒険者と言うのは無理があるだろう。
「それを言うのなら、ランクB冒険者で既に異名持ちで、ランクS相当のグリフォンを従魔にして、アイテムボックスなんていう貴重なマジックアイテムを持っているレイの方が、どう考えても普通じゃないだろ。ランク詐欺もいいところだ」
場合によっては一国を相手にしても戦えるだけの実力を持つレイだけに、ランク詐欺と言われても言い返すことは出来なかった。