2515話
「……戻ったか」
はぁ、と。
深く息を吐きながら、ダスカーはレイに向かってそう告げる。
読んでいた書類を机の上に置き、呆れの視線をレイに向けた。
とはいえ、ダスカーのこの対応も当然だろう。
もう昇格試験は明日なのだ。
だというのに、出掛けたきり全く戻ってくる様子がなかったのだから。
そんなレイがいきなりこうして戻ってきたのだから、驚くなという方が無理だろう。
「すいません。ポーションを買うのは一日で終わったんですけど、それが終わったところで色々と問題に巻き込まれてしまって」
「レイのことだと考えれば、納得出来るがな」
「ははは。ヴィヘラにもそれ、言われました」
領主の館に、ヴィヘラの姿はない。
本来ならヴィヘラもここにいてもよかったのだが、まずはマリーナの家に行ってエレーナに自分が帰ってきたというのを知らせた方がいいだろうという判断からだ。
レイもその意見に異を唱えるつもりはなかったので、ヴィヘラには先に帰って貰った。
自分のことでヴィヘラにもダスカーからの愚痴を聞かせるのはどうかと思ったというのもあったのだが。
もっとも、自分のこととはいえ、レイはあくまでもトラブルに巻き込まれた側だ。
レイが自分から行動を起こしたのではないのだから、それで愚痴を言われてもという思いがない訳でもない。
ただし、トラブルに巻き込まれてもそれを無視してギルムに帰ることが出来たのに、それをしないでトラブルに首を突っ込んだのは、間違いなくレイだ。
もっとも、もしレイがトラブルを無視していれば、その結果として多くの罪のない者が死ぬことになっただろう。
そのようなことになった場合、レイは後味の悪い思いをすることになる。
レイとしてはそのような思いをするのは絶対にごめんだった。
そういう訳で、レイはギルムに戻ってくるのが遅くなって申し訳なく思ってはいるが、それでも自分の行動を後悔はしていない。
レイの様子を見て、ダスカーもこれ以上は何を言っても意味はないと判断したのだろう。
気分を切り替えるよう息を吐いてから、ダスカーは口を開く。
「その件はもういい。それで、昇格試験を受けるのは問題ないんだな?」
「はい、ポーションも用意してきましたし」
「ポーションか……」
レイの言葉に、ダスカーは難しい表情を浮かべる。
ギルムの領主である以上、当然ながらダスカーも現在のポーション不足という現状を理解しているのだろう。
今日明日にすぐポーションが全てなくなるといったようなことがある訳ではないが、それでもポーションが少なくなってきているのは間違いのない事実なのだ。
ポーション不足が深刻な状況になる前に手を打っておく必要があると、そう考えるのは領主として当然だろう。
問題なのは、どうやってそのポーションを用意するかといったことなのだろうが。
簡単なのは商人から買い付けることだろう。
足りなくなっているポーションは、基本的にギルムの内部で働いている者達が使う分だ。
冒険者達がモンスターと戦い、怪我をした時に使うような……高品質なポーションは、まだかなりの在庫がある。
そしてギルム以外の場所で購入出来るポーションというのは、大抵がそこそこの品質の物だ。
勿論、他の村や街で高品質なポーションが作られていないという訳ではないのだが。
「ポーションの件はこちらでも対応している。腕の立つ薬師や錬金術師にギルムに来るように打診したりな」
「樵と同じですね」
「基本的にはそうだが、少し違うな」
トレントの森の木を伐採する為に、ギルムでは多くの村や街から樵を募集した。
違うのは、樵はあくまでも出稼ぎに来ているだけであって、冬になる前に自分の故郷に戻る者が多いということだろう。
中にはギルムが気に入って、そのままギルムで冬を越したり、あるいは移住してしまうような者もいるのだろうが。
そのような樵達とは違い、ダスカーは薬師や錬金術師をギルムに取り込むつもりだった。
ギルムの増築工事が終われば、多くの者達が集まってくるだろう。
その中には当然のように薬師や錬金術師が含まれてはいるのだろうが、それでもどのくらいの数が来るかは分からないし、技術的に未熟な者だけが来る可能性もある。
それを考えれば、最初からギルム側で相応の技量を持つ薬師や錬金術師を確保しておいた方がいいというのは、当然のことだった。
薬師や錬金術師にしても、辺境のギルムには他の場所だとそう簡単に使ったりできないような素材を入手出来る可能性も高く、本人の技術や経験を上げるという意味でも価値がある。
そうダスカーに説明されたレイは、なるほどと納得した様子を見せる。
「その辺まで考えてるのなら、俺が特に心配する必要はないみたいですね」
「だといいんだがな。こういう時は何が起きるのか分からん。それが誰の仕業なのかはともかくとして」
領主として、大変なことが多数あるのだろうというのは、レイにも理解出来た。
もっとも、理解出来たからといって、この件でレイが何か手伝えるのかと言われれば……それこそ、昇格試験に合格して早くランクA冒険者になって欲しいということだけだろうが。
その後、レイはこの三日間に自分がどのような経験をしてきたのかを話すと、ダスカーはたった三日でそこまでの面倒に巻き込まれるのかと、驚く。
いや、寧ろたった三日でその面倒を全て解決したということの方に驚かれた。
レイにとってもかなり忙しい三日間だったので、それを思えばダスカーがこうして驚くのも当然だろうと、そう思えたが。
そうして話をして三十分程で、レイとの話は終わる。
実際にはもっとレイから話を聞きたいと思っていたダスカーだったが、仕事がある以上はそちらを片付ける必要があった為だ。
「グルゥ!」
領主の館から出ると、早速セトがやって来る。
いつものように料理人から何らかの食べ物を貰っていたのか、上機嫌だ。
「じゃあ、マリーナの家に向かうか。途中で何か美味そうな料理があったら、買っていこうな」
「グルルゥ!」
レイの言葉に、セトは嬉しそうに喉を鳴らす。
料理人から食べ物を貰ったが、それも腹一杯になる程ではない。
途中で何か美味しい店があったら、そこで買い食いしていきたいと考えるのは当然だった。
「随分と警戒が厳重だな」
串に刺した川魚の塩焼きを食べながら、レイは貴族街の中を進む。
警戒が厳重だとしたのは、貴族街の中で見回りをしている冒険者の数が多い為だ。
アンテルムの一件があったのは、そんなに前という訳ではない。
そうである以上、貴族街に住んでいる貴族達の警戒心が強くなるのは当然のことだった。
アンテルムの一件はもう過去のものとしているレイにしてみれば、そこまで警戒する必要はないだろうと、そう思えるのだが。
とはいえ、それはあくまでもアンテルムと直接戦ったレイだからこそ言えることなのだろう。
(もしアンテルム以外に何かを企んでる奴がいても、マリーナの家だと精霊のおかげでセキュリティがしっかりとしているから、そこまで気にする必要もないんだろうけど)
マリーナの家の快適さに強い安心感を抱きながら、レイは貴族街を進む。
多くの冒険者とすれ違うが、ほぼ全ての者達がレイを知っているので、軽く言葉を交わす程度で止められることなく、進むことが出来た。
アンテルムのように、レイのことを知らない者は……こうして歩いている限りでは、遭遇するようなことはなかった。
レイにしてみれば、そのような相手がいないに越したことはない。
また妙な相手に絡まれるといったような真似は、絶対に避けたかった。
そうして到着したマリーナの家の前では、何故かエレーナ、マリーナ、ヴィヘラ、アーラ、ビューネ、ニールセン、イエロ……といったように全員が集合している。
(他の面々はともかく、マリーナまで?)
診療所で働いているマリーナは、当然ながらそう簡単に仕事を抜けられるようなことはない。
診療所の近くにある店に行くくらいならともかく、ここは貴族街で診療所からもかなりの距離がある。
だというのに、ここにマリーナがいるのだ。
レイがそれに驚くなという方が無理だろう。
「どうしたんだ、そんなに全員で揃って」
「あら、昇格試験が明日なのに、今日この時に戻ってきて……随分と余裕ね」
満面の笑みを浮かべつつ、そう告げるマリーナ。
ただし、レイに向けられる視線は全く笑っていない。
確実に怒っているのが、見れば分かるだろう。
少なくても、レイが何を言ってもその言葉を聞くようには思えない。
「えっと、一応エレーナには対のオーブで連絡をしていたと思うんだが……」
対のオーブで話をした時、当然ながら話したのはエレーナだけではなくマリーナを始めとして他の面々とも話している。
そうである以上、マリーナがここまで怒っているというのはレイにとって予想外だった。
「ふふっ、そうね。でもあの時は対のオーブだったでしょう? それに比べると、今日はこうしてしっかりとお互いに生身のままで話すことが出来るじゃない」
「あー、うん。そうだな。こうしてしっかりと会うことが出来たのは間違いないな。……怒ってるのか?」
恐る恐るといった様子で尋ねるレイに、マリーナはじっと視線を向け……やがて、深い溜息を吐く。
「怒っていないかどうかと言われれば、怒ってるわ。けど、この三日間で起きたことは対のオーブで聞いていたし、ヴィヘラからも改めて聞いたもの。怒るに怒れないわよ」
マリーナのその言葉に、レイはようやく安堵する。
もしかしたら本当に怒っていたのではないかと、そう思った為だ。
いや、実際に怒っていたのは本人が言ってる通り事実なのだろうが。
「けど、いい? もしもう一日ずれて昇格試験を受けられなくなっていたら、間違いなくレイが今回巻き込まれた以上の面倒に巻き込まれていたのよ?」
真剣な表情でそう言ってくるマリーナに、レイもまた真剣な表情で頷く。
勿論、レイは試験に遅刻するといったようなつもりはなかったし、実際にこうして無事に間に合っている。
だが、もしレイが昇格試験に遅れるようなことがあった場合、それは大きな騒動の原因となったのは間違いない。
ランクA冒険者というのは、ランクS冒険者という特別な存在を除けば最高の冒険者と呼ぶべき存在だ。
このギルムにすら、ランクA冒険者となればそこまで多くはない。
そんな試験だけに、ランクAへの昇格試験はギルドでも特別なものだ。
ましてや、今回はダスカーの要望によって魔の森で昇格試験が行われるという意味でも、より特別だろう。
「ああ、悪かった。……けど、同じようなことがあったら、多分俺はまた今回と同じようなことをすると思うぞ」
「……でしょうね」
マリーナも、レイの付き合いは長く濃い。
それだけに、レイの性格は当然のように分かっている。
もしレイの前に何らかの理由で助けを求めている相手がいたら、レイは何だかんだと理由をつけて助けるのは間違いないだろう。
「取りあえず、レイはギルドに行ってワーカーに会ってきなさい。彼も心配してるから」
「ワーカーが?」
レイにとって、ワーカーは常に冷静というイメージだ。
それこそ、心配や動揺しているといったことを、想像することは出来ない。
「当然でしょ。ワーカーも今回の昇格試験の件で、かなり無理をしていたわ。なのに、その昇格試験を受けるレイが試験前日になるまで戻ってこないんだから。それで心配するなという方が無理でしょ」
そう言われれば、そうなのか?
そうレイは考え、取りあえずはマリーナの言葉に納得した様子を見せる。
「分かった。なら、ちょっと顔を出してくるよ。ワーカーにそこまで心配を掛けるつもりはなかったしな」
「自分の行動を考えて、口を開いてくれないかしら? まぁ、ポーションは購入してきたみたいだし、問題はないけど」
「そうだな。幾つかの街や村でも無事ポーションを購入することは出来たし」
勿論、そのポーションは決して効果の高い……以前からギルムにいた冒険者が使うようなポーションではない。
それでもポーション不足になりつつあるギルムで集めるよりは、他の場所で購入した方がよかった
「ポーション不足、ね。その件はもう少ししたら多少は解決すると思うわよ?」
「本当か?」
マリーナの口から出て来た言葉に驚き、聞き返す。
エレーナと対のオーブで話していた時も、それなりにマリーナとも会話をしている。
だが、その時にはマリーナからそのような話を聞いた覚えはなかった。
だからこそ疑問に思ったのだが、マリーナがそう言うのであれば恐らくそうなんだろうというのは、やはり元ギルドマスターという前歴のお陰なのだろう。