2505話
霧の音について頼んでから数日……レイはエレーナから礼儀作法についての教えを受けていた。
いや、正確には礼儀作法ではなく言葉遣いに対してだが。
礼儀作法そのものは、既にそれなりにレイも出来るようになっている。
礼儀作法というのは、複雑で面倒なものではあるのだが、それでも作法そのものは決まっていた。
そうである以上、それを覚えてしまえば後は難しくはない。
いや、本来ならそう簡単に覚えたりといったような真似は出来ないのだが、レイの場合は多少ではあるが下地があった為に、その辺は何とか出来た。
だが、動きの決まっている礼儀作法とは違い、言葉遣いは決まったものとはならない。
ダスカーに対するレイの言葉遣いは、ダスカーだから構わないと大目に見ているのだ。
とはいえ、それはあくまでも本物の貴族ならではの話であって、あくまでもレイは冒険者だ。
そうである以上、貴族や王族の方でもそこまで極端に乱暴な言葉遣いでなければ、許容されるのが普通だ。
つまり、本来ならレイにそこまで詳細に言葉遣いを教える必要はないのだが……エレーナにしてみれば、いつかは自分の父親とレイをそういう意味で会わせる時がくるかもしれないのだ。
その時になって慌てて敬語の練習をするよりも、今からさせておいた方がいいだろうと判断してのことだ。
「ふむ、ではそうだな。貴方の娘を私に下さいというのを言い直してみようか」
「……は?」
不意に出たエレーナの言葉に、レイは一瞬何を言ってるのかと戸惑う。
当然だろう。現在練習している敬語というのは、あくまでも仕事で使うものだ。
だというのに、何故その仕事でそのような言葉が出て来るのか。
(もしかして、ランクA冒険者って婚約者の振りでもするのか?)
レイが思いついたのは、そのようなもの。
実際貴族の間で行われているのだろう政略結婚は、必ずしも歓迎されるものではない。
特に実際に結婚する者にしてみれば、恋人が別にいるとか、相手とは絶対に合わないとか、嫁ぎ先で暗殺される可能性が高いとか、様々な理由で政略結婚を避けたいと思う者がいてもおかしくはない。
そのような相手に対する断りの理由として、冒険者に頼んで恋人の振りをして貰うといったことがあってもおかしくはなかった。
当然だが、恋人の振りをするだけなら別にランクA冒険者でなくてもいい。
しかし、そこは貴族だ。
下手をすればトラブルになる可能性もある以上、相応の強さを持つ相手を連れてくる必要があるのではないか。
そうレイは考える。
……実際には、全くの嘘なのだが。
いや、実際にその手の依頼があるのは間違いないし、高ランク冒険者に恋人の振りを頼むといったようなことがあるのも事実だ。
だが、エレーナがレイに今のような言葉を言わせようと思ったのは、あくまでも自分の欲望から来た言葉だ。
この場にはエレーナとレイ以外にアーラの姿もあったが、そのアーラはエレーナの気持ちを理解している為か、特に何を言うでもなく二人の様子を見守っていた。
「そうだな。なら……うーん、ちょっと待ってくれ。『貴方の娘を私に下さい』というのは、そのままもう言い直せないんじゃないか?」
「どうだろうな。その辺りはレイが自分で考えてどうにかするべきだろう」
「そう言われても……貴方は貴方だろ? いや、待て。娘を下さいということは義理の父親になって下さいと言ってるようなものだし、お義父様とかいった方がいいのか?」
「っ!?」
お義父さまと、そうレイが言った瞬間、エレーナはビクリと身体の動きを止める。
レイの口から出た言葉が、予想以上の破壊力だった為だろう。
……別にエレーナをお義父様と呼んだ訳ではないのだが、そう呼ばれることによって、自分とレイの関係が決定的なものになったような気がしたのだ。
「レイ、もう一度……うん?」
もう一度言って欲しい。
そうレイに向かって言おうとしたエレーナだったが、玄関の方から聞こえてきた声によって誰かが来たのを理解する。
精霊が許容したということは、害意を持つ者ではないのだろう。
それはエレーナにも分かっていたが、至福の時間を邪魔されたということで、面白く思えないのは当然のことだった。
とはいえ、ここはエレーナの家ではなく、あくまでもマリーナの家だ。
その留守を預かっている以上、訪ねてきた相手を放置する訳にもいかない。
ましてや、この家に来たということは自分を訪ねてきた相手という可能性もあるのだから。
「アーラ」
「はい」
短い一言だったが、アーラにはそれで十分に伝わる。
そうしてアーラは玄関に向かう。
『……』
居間に残るのは、沈黙。
エレーナは何故自分があのようなことをしてしまったのかと、今更ながらに照れてしまい、レイはレイで何故エレーナが急に黙り込んだのかが分からない。
そんな訳で、こうして居間の中は沈黙に満ちていたのだが……
「レイ殿、お客様です」
沈黙を破ったのは、居間に戻ってきたアーラの声だった。
「客? 俺にか?」
この家にやって来たのだから、当然客の目当ては貴族派から派遣されたということでここにいるエレーナか、もしくはこの家の持ち主のマリーナに用があってきたのではないかと、そう思ったのだ。
だが、アーラは間違いなくレイの名前を口にした。
そうであれば、やって来た客の目当ては間違いなくレイなのだろう。
「はい。ギルドからです」
「……なるほど。随分と早いな」
この状況でギルドから自分にわざわざ尋ねてきたとなると、その理由はランクAへの昇格試験に関係しているものだろうというのは、容易に予想出来る。
意外と、何らかの理由で急いでレイの力が必要になったのかもしれないが。
多くの冒険者が集まっているギルムだが、そんな中でもレイが突出しているのが、機動力と運搬能力だ。
セトとミスティリングのおかげで、その二つに関してはレイ以上の者は現在ギルムには存在しない。
以前魔熱病が起きた時も、レイはセトに乗って治療薬となる素材を運んだことがあった。
今回の一件もそのようなものかもしれないと思い、居間の中に入ってきた人物……レノラを見て、すぐに否定した。
レノラの表情には切羽詰まった色がない。
(そう言えば、魔熱病の時も俺を迎えに来たのはレノラだったな)
そう思いつつ、レイは口を開く。
「レノラがわざわざ来たってことは、昇格試験の件か?」
「はい。レイさんのランクA昇格試験について、ギルドマスターからお話があります。よろしければ、今からでもギルドに来て欲しいのですが、構いませんか?」
「ああ、構わない」
レイとしては、昇格試験の話はいつ来てもいいように待っていたのだ。
そうである以上、今からすぐに試験を受けてもいいという思いすらあった。
……とはいえ、それでも今の状況を考えれば無茶だというのは間違いなかったが。
今日呼ばれたのも、すぐに昇格試験を行うといったものではなく、その説明だろうというのは予想出来る。
だからこそ、ここでギルドに向かうという選択をしない理由がない。
「そんな訳で、ちょっとギルドに行ってくる」
「うむ、気をつけて……とはいえ、レイのことだからそこまで心配するようなことはないのだろうが」
レイの力を知ってるだけに、そう告げるエレーナ。
そんなエレーナの様子に驚きの様子を見せたのは、レノラだ。
レノラもエレーナとレイが友好的な……それどころかこうして一緒の家に住んでいるのは知っているが、それでもここまでエレーナがレイのことを心配するとは思わなかったのだ。
(ケニー……どうするのかしらね)
何だかんだと、レイと噂になっている女は多い。
だが、そんな中でも最初にレイと出会ったのはケニーなのだ。
にも関わらず、ケニーとレイの仲が進展した様子は全くない。
一瞬友人について考えるも、今はやるべきことがあると、すぐに頭を横に振ってその考えを一旦忘れる。
「では、行きましょうか。ギルドマスターもレイさんを待ってますから」
「ワーカーなら、俺を待っている時間も惜しいと考えて仕事をしてそうだけどな」
レイのそんな言葉に、レノラは無意識に頷く。
実際、ギルドではレノラがいない今も多くのギルド職員が仕事をしており、それはワーカーも同様なのだから。
レノラもこうしてレイを迎えに来てはいるが、ギルドに戻ったらまた仕事に戻る必要があった。
そんな現実を思い出し、半ば現実逃避をするような思いで窓から外に視線を向け……そこで、セトとイエロが走り回っている光景を目にする。
だが、一瞬……本当に一瞬だが、中庭にはセトとイエロ以外に何かがいたような気がした。
しかし、その何かを見たのは一瞬だった為か、改めて中庭の方を見ようとして……
「レノラ、ギルドに行くんだろう? ちょっと準備してくるから、家の前で待っててくれ」
不意に言われたレイの言葉を聞き、すぐにそちらに意識が向けられる。
「分かりました。では、外で待ってますので」
そう言い、居間から出ていくレノラ。
「ふぅ」
そんなレノラを見て、レイは大きく息を吐く。
いや、それはレイだけではない。エレーナやアーラもまた安堵した様子を見せていた。
当然だろう。レイが声を掛ける瞬間、レノラが見ていたのは中庭だ。
そして中庭では現在、セトとイエロが……そしてニールセンがいる。
今日は特にトレントの森に戻る用事もなかったので、ヴィヘラ達と一緒に行動するのではなく、中庭でセトやイエロ達と一緒に遊んでいたのだ。
レイ達にしてみれば、ニールセンがいるのは普通の光景だった。
だからこそ気にしていなかったのだが、そんな中でレノラが中庭の方に視線を向けているのを見て、それでようやくニールセンについて気が付き、慌てて話を遮ったのだ。
妖精の件は、まだ秘密にするように言われている。
そうである以上、ニールセンをレノラに知られるといったことは絶対に避ける必要があった。
本来なら真っ先にそのことに気が付かなければならなかったのだが、本当にいきなりのことだった為か、それに気が付くのが遅れてしまったのだ。
「助かった……な」
呟くレイの言葉に、エレーナとアーラは同意するように頷く。
「うむ。ニールセンがいるという光景が日常になっていただけに、すっかり忘れていた。これからは気をつけねば」
「そう言っても、普段ニールセンは日中にこの家にはいないんですから、しょうがないですよ」
アーラがエレーナを励ますようにそう言うが、エレーナはそんなアーラに対し、首を横に振る。
「いや、これは私の気が緩んでいたのが原因だろう。普段であれば気がつけた筈だ」
エレーナの言葉にアーラは何も言えなくなる。
実際、今日に限らず最近のエレーナがレイと一緒にいる時間が多いということでリラックスしていた。……言い換えれば気が抜けていたのは、アーラも否定出来なかった為だ。
「ともあれ、レイはギルドに向かった方がいい。ただし、ギルドに行く以上はニールセンは連れていかない方がいい」
「ニールセンなら行きたいって言うかもしれないけど、間違いなく面倒なことになるだろうしな」
好奇心の強いニールセンだ。
ギルドの中に行き、そんな中で多くの者が忙しく働いているのを見れば、妖精としての本能から悪戯をしたりといったような真似をしかねない。
ギルドでそのような真似をした場合、ニールセンの存在が露見する可能性は十分にあった。
何しろ、ギルドには多くの冒険者がいる。
また、ギルド職員の中には元高ランク冒険者といったような者もいるのだ。
そのような者達が、もしギルドの中でニールセンに悪戯をされた場合、間違いなく大きな騒動になるだろう。
そうなれば、妖精の一件を隠すことは不可能になる。
「では、ニールセンは私に任せてくれ。イエロもニールセンと一緒に遊びたいだろうしな」
そんなエレーナの言葉にレイは頷き、中庭に向かう。
「セト、俺はギルドからちょっと呼ばれたから行ってくるけど、セトはどうする?」
「グルゥ!」
レイの言葉に、勿論自分も行く! とセトは鳴き声を上げる。
「ねぇ、レイ。私はどうすればいいの?」
そう言いながらも、ニールセンは自分も行きたいと態度で示していたが、レイはそれに対して首を横に振る。
「悪いがそれは駄目だ。これから行くのはギルド。冒険者が多くいる場所だからな。今は腕の立たない奴も多いが、それでも中には腕の立つ奴もいる。そんな場所にニールセンを連れていけば……間違いなくマリーナは怒るだろうな」
ニールセンが駄々をこねそうだったので、その機先を制するように世界樹の巫女たるマリーナの名前を出す。
そしてマリーナの名前を出されれば、ニールセンもそれ以上は何も言えなくなるのだった。