2501話
ランクAへの昇格試験を受けると告げた翌日から、レイの生活は微妙に変わった。
勿論、トレントの森に行って樵が伐採した木をギルムまで運んだり、妖精の住処まで行ったり、トレントの森の地下空間で研究をしているアナスタシアの様子を見たりと、やるべき事はそう変わっていない。
特に、妖精の住処の件は基本的にニールセンはマリーナの家で寝泊まりしている為に、実際にはニールセンを迎えに行くのではなく、ニールセンが色々と長に報告をする為に戻る為の行動となっていた。
また、樵が伐採した木も大半はレイが運ぶのだが、レイが昇格試験を受ける時に混乱しないようにと、一日に何度か試しに人力で運ぶといったような真似もしている。
以前までは、トレントの森で働いていた冒険者達が伐採された木をギルムまで運んでいたのだが、今はトレントの森の外までをそのような冒険者達が運び、そこからは別途に他の冒険者が木を運ぶといったような真似をしている。
増築工事を行っている工事現場に資材を運ぶといった仕事もレイはしていたのだが、こちらは幸か不幸かレイがいない間にそれなりにどうにかする手段が確立されている。
何しろ、建築資材を運ぶだけなのだ。
辺境であるギルムの外に出るような必要もないし、難しく考えるといったようなことも必要ない。
それこそ、相応の力が必要になるが誰でも出来る仕事だ。
その分、報酬は他の仕事に比べると低めなのだが。
しかし、やはりギルムで仕事をする上で安全に仕事が出来るというのは、人気がある理由だった。
その仕事には結構な数の者達が受注をしていた。
結果として、余程忙しい場合や緊急の何かがない限り、レイはそちらの仕事からは解放されることになる。
恐らく昇格試験が終わったら建築資材を運ぶといったような仕事は、レイがやらなくてもよくなるだろう。
レイが今までやっていた仕事を他の者達に任せるということになれば、当然のように時間は空く。
そんな空いた時間でレイが何をしているのかといえば……
「違う。宰相が頭を上げてもいいと言ってから頭を上げるのだ」
エレーナの叱責する声が部屋の中に響く。
ここはマリーナの家の居間。
いつもは中庭で食事をしているので、レイが居間を使うといったことは滅多にないのだが、エレーナは面会に来た相手と居間で話をしている為に、それなりに使い慣れている。
そんな居間で、現在レイはエレーナから礼儀作法を教わっていた。
「宰相が頭を上げてもいいと言ったらだな。分かった」
片膝を突く形で頭を下げていたレイは、エレーナの言葉に頷く。
この片膝を突くといったような姿勢にも、レイにとっては理解出来ないくらいに色々と細かい身体の動かし方があり、レイにしてみれば何故そこまで細かく? と疑問に思う程だ。
だが、ミレアーナ王国は大国だ。
それも急激に膨張して出来た国といった訳ではなく、長い時間を掛けて大きくなってきた国なのだ。
それだけに、王族と会う際の礼儀作法は非常に細かいものがある。
レイにとって、やはり昇格試験を受けるのは止めようかと、そのように思わせる程に面倒臭いやり取り。
とはいえ、一度やると決めた以上はレイとしてもそれをすぐに止めるといったような真似はしない。
かなり面倒だと思い、ストレスを溜めつつもエレーナの指示に従って礼儀作法を習っていく。
そうして一時間程が経過し……
「ふむ、取りあえず今日はこのくらいでいいだろう」
エレーナの口からそんな言葉が漏れると、レイは近くにあったソファに倒れ込む。
「疲れた……」
勿論、それは肉体的な疲れではなく精神的な疲れだ。
レイにしてみれば、このような礼儀作法の練習をするよりは、モンスターと戦っていた方が余程楽に思える。
それこそ、ドラゴニアスと戦っている方が、数百倍は楽だった。
「ふふっ、やはりレイはこの手の行為は苦手か」
「そりゃそうだろ。俺からしてみれば、よく貴族はこんな面倒な真似を普通に出来てるよなと思うし」
「貴族だからこそ、だろうな。それこそ普通の……戦闘に参加しないような貴族にしてみれば、レイのようにモンスターと戦う方がごめんだと思う者も多いのは間違いないぞ?」
「そうなのか? 俺の中の貴族のイメージとなると、戦いに自分から出向いてでも戦うって感じなんだが」
「それは……かなり偏っているな。勿論そのような貴族も多いが、戦いには一切参加しないといったような貴族も珍しくはないぞ?」
「理屈では分かってるんだけど、俺が会った貴族の大半がそういう貴族だし」
勿論、戦いは絶対にごめんだといったような貴族とも、レイは会ったことがある。
だが、比率では戦いに自分から参加する――後方から指揮を執るだけでも――貴族の方が、レイは多数会っていた。
それだけに、レイにしてみればやはり貴族というのは戦ってこそといったようなイメージがある。
「エレーナ様、レイ殿が会うような貴族となれば、戦場で会う事が多いのでしょうから自然とそのような貴族と会う機会の方が多くなるのでは?」
そう言ったのは、礼儀作法の訓練が終わったということで、レイとエレーナに休憩の為の紅茶を用意したアーラ。
普通なら夏……それも夏真っ盛りといったような時に、温かい紅茶というのはあまり好まれない。
全員がそうだとは言わないが、少なくてもレイの場合は夏になれば冷たい飲み物を飲んでいた。
暑い時こそ温かい飲み物を飲むのが健康にはいいというのは、レイにも何かで見たか聞いたかしたことはあった。
だがそれでも、汗を掻く程に暑い時は冷たい飲み物を飲みたいと思うのは当然だろう。
……だが、レイは簡易エアコン機能のあるドラゴンローブを着ているし、何よりこの家はマリーナの精霊魔法によって快適にすごせるようになっている。
こんな真夏であっても、温かい紅茶を飲むのを嫌になったりしないような……そんな場所。
それだけに、レイはアーラの用意してくれた紅茶を躊躇することなく飲む。
「うん、美味い」
これで紅茶に詳しいのなら、どのような茶葉を使っているのか……それどころか、いつ作られた茶葉であるのかといったようなことも当てることが出来るのだろうが、レイの場合は紅茶は好きだがそこまで詳しい訳でない。
日本にいた頃は、缶の紅茶でも美味いと思って飲んでいた程度の紅茶好きでしかない。
そんなレイでも美味いと感じることが出来るくらいの紅茶を淹れられるアーラは、やはりその点での技量は非常に高いのだろう。
それも、アーラは尊敬するエレーナに少しでも美味い紅茶を飲ませたいと、そう思っての行為だ。 そしてエレーナは、アーラの淹れてくれた紅茶に満足しながら口を開く。
「そのような貴族は、レイと相性のいい貴族が多いだろうな。それに比べると、戦いを好まない貴族はそのような貴族よりも礼儀作法には細かいことが多い」
「そうでもないと思うが。今までそういう貴族と揉めた時も結構あったし」
そのような経験があるので、レイにとって貴族というのは自分と合わない相手という認識が強いのだ。
もしレイの会った貴族の多くがエレーナやダスカーのような者であれば、レイももっと貴族に対して友好的な関係になっていただろう。
「レイと合うと言っても、そこには限度というのがある。ダスカー殿のような意味で完全にレイと合うというのは、当然多くはないさ」
「そうなると、やっぱりランクAに昇格した後は貴族との交渉役が大事になるって事だな。一体誰になるんだろ。正式に決まる前に俺と顔合わせはするって話だったけど」
レイにしてみれば、自分の性格が一般的なものから大きく離れているというのは理解している。
それだけに、自分の交渉役として働いて貰う相手というのを厳選して欲しいというのが正直なところだった
交渉役となると、貴族との交渉を主に行うことになる。
つまり、どのような条件で仕事をするのか、そして報酬についてといったように、レイから全権を預けられることになる。
であれば、交渉役が無能だった場合、報酬がレイにとっては話にならないといったようなことにもなりかねない。
あるいは、報酬を多めに貴族に要求し、レイ達には少なめに報酬を渡して金を抜く……といったような真似をする可能性もある。
ダスカーが紹介する人物ということなので、その辺の心配はあまりいらないのかもしれない。
しかし、それでもレイの交渉役となるには色々と難しい点もある。
「交渉役は、俺達と一緒に行動したりするんだよな? そうなると、取りあえずセト籠に乗って移動するのは必須になりそうだ」
「そういう意味で考えると、パーティメンバーが一人増えることになるようなものか」
そう告げるエレーナの口調には、羨ましそうな色がある。
エレーナもレイの仲間であると自覚はしているし、実際にレイ達からも受け入れられているとは思う。
だが、それでも結局のところエレーナは貴族派から派遣されているといった形である以上、レイの仲間ではあってもパーティメンバーではないのだ。
ランクBパーティ、紅蓮の翼。
その一員に自分は入ることが出来ないのに、誰か分からない相手がそのレイのパーティに入るというのは、エレーナにしてみれば非常に複雑な思いを抱くなという方が無理だった。
(私が交渉役になれば……無理だな)
一瞬そんなことを考えるエレーナだったが、すぐにそれを却下する。
どう考えたところで、貴族派の人間がギルムの増設工事において妙な真似をしないかといったことを監視する為に派遣されているエレーナに、そのような真似が出来る筈もない。
自分が出来ないことを普通にやれる者がいる。
それが、エレーナにとっては非常に羨ましいのだ。
「エレーナ? どうかしたのか?」
と、そんな風に自分の状況を残念に思っていたエレーナは、レイの言葉で我に返る。
慌てて何でもないと首を振ったエレーナだったが、レイがそんなエレーナの様子に納得したのかと言えば、また別の話だろう。
それでもそれ以上深く聞かなかったのは、エレーナの様子を見た為だ。
そしてエレーナもそんなレイの気持ちが分かったのか、話題を変える。
「今日の様子を見た限りでは、レイの礼儀作法はそこまで問題はないだろう。……勿論、色々と細かい場所を直すとなれば、直すべき場所はあるのだが。しかし、それは貴族だった場合だ。冒険者であれば、全く問題はないだろう」
「そう言って貰えると、俺としては嬉しいけどな」
何だかんだと、レイも日本では高校に通っていた。
その時に完璧な礼儀作法という訳ではないが、それでも入学式や卒業式、始業式、終業式といったように学校で行われるイベントに参加していた以上、多少は……本当に多少ではあるが、何も知らない冒険者よりは礼儀作法を知る下地があった。
それ以外にも、漫画やアニメといったサブカルチャーでそのような勉強をしたといった点もあるが。
「ふふっ、この調子なら私が教える礼儀作法も、そう多くはないな。……もっとも、こうして急いで覚えたものは、すぐに忘れやすい。出来ればレイが礼儀作法について忘れるよりも前に、昇格試験があってくれればいいのだが」
「そうだな。出来るだけ早く試験があって欲しいとは思う。だが、その辺を決めるのはギルドマスターのワーカーだから、俺からは特に何も言えないんだよな」
ダスカーから、ワーカーに対して昇格試験は出来るだけ早くするように言われてはいるだろう。
だが、ワーカーもギルドマスターとしてレイのことばかりを考えているような真似は出来ない。
それどころか、ワーカーは直接冒険者の采配をするギルドを率いるギルドマスターである以上、場合によってはダスカーよりも忙しくなってもおかしくはない。
「だとすれば、私達に出来るのは出来るだけ早く昇格試験の連絡が来るように祈るのみか」
「礼儀作法の件を考えると、あまりゆっくりするようなことが出来ないのも事実だが」
「……いっそマリーナ殿から急かして貰っては?」
アーラの提案に、レイは首を横に振る。
最初、レイもそれを考えなかった訳ではない。
マリーナはギルドマスターを辞めて冒険者に戻った今でも、ギルドにおいて大きな影響力を持つ。
当然だろう。長年ギルドマスターを務めてきただけあって、マリーナの世話になった者は多いのだから。
そんなマリーナだが、ギルドマスターを辞めた以上は自分から積極的にワーカーに働きかけたりはしない。
どうしてもそうしなければならない理由があるのなら別だが、今回はそんなことをするまでもない。
……もっとも、秋になっても昇格試験が行われないようなら、話は別かもしれないが。




