2494話
「ふーん、やっぱり引き受けたんだ」
ダスカーからランクAへの昇格試験について聞かされた日の夜、マリーナの家の中庭で夕食を食べながらその話をしたところ、マリーナはそんな反応だった。
元々マリーナはダスカーと昇格試験について話していたので、その辺りについては知っていたのだろう。
だが……他の者達は、多くが驚いている。
唯一、妖精のニールセンだけは驚いているようには思えなかったが。
元々、ニールセンはレイがダスカーと昇格試験について話している時も、その場にいた。
それだけに、昇格試験については知っていたのだが……妖精だけに、ランクA冒険者がどのような意味を持つのか知らないらしく、そういうものなのかといったような印象しか受けていない。
「おめでとうございます、レイ殿」
最初にレイに祝福の言葉を口にしたのは、アーラ。
本人が冒険者ではないということもあり、ヴィヘラやビューネよりも驚きが少なく、それでいて冒険者ともそれなりに付き合いがあるので、ランクA冒険者というのがどれだけ凄いのかというのを理解しているのだろう。
そうしてアーラが言うと、他の者達もそれぞれに祝福の言葉を口にする。
「それにしても、レイがランクAね。……考えてみれば実力だけなら十分にランクAに相応しいんだから、そこまで驚くようなことでもないのかもしれないけど」
実力『だけ』と口にした辺り、ヴィヘラもレイが昇格する際に礼儀作法が問題になると理解しているのだろう。
とはいえ、レイもその辺りについては理解しているので特に不満に思ったりはしないが。
「具体的にいつ昇格試験が行われるのかは分からないが、ある程度の礼儀作法は覚えておいた方がいいんだろうな。それが試験の項目の一つに入ってる可能性は否定出来ないし」
「そうね。代理人を用立てるとはいえ、いざという時の為に礼儀作法は覚えておいた方がいいわ。いつ王族と会ったりするのかも分からないし。そうなった時、不敬罪とかにはなりたくないでしょう?」
「もしそうなったら、ベスティア帝国にでも行くか」
「私は歓迎するわ。……でも、そうなると色々と面倒なことになりそうだけど」
レイとマリーナの会話に、ヴィヘラがそう割り込んでくる。
ベスティア帝国の元皇女たるヴィヘラにしてみれば、レイがベスティア帝国に来ることは賛成出来る。
だが……賛成は出来るものの、もしレイが実際にベスティア帝国に行った場合、ヴィヘラが言うように面倒になることだけは間違いない。
何しろ、レイはミレアーナ王国とベスティア帝国との戦争でミレアーナ王国に一方的な勝利に導いた存在であり、ベスティア帝国で行われた闘技大会では準優勝し、その直後に行われたベスティア帝国の内乱においては遊撃隊として活躍した。
ベスティア帝国の国民にとって、レイは戦争で家族友人恋人を殺した憎むべき敵であり、ベスティア帝国の大規模イベントの闘技大会で準優勝した賞賛すべき相手であり、内乱ではヴィヘラの弟メルクリオを勝利に導いた立役者の一人でもある。
色々と……本当に色々と、レイはベスティア帝国では特別な存在なのだ。
寧ろミレアーナ王国よりもベスティア帝国の方が、レイの名前を知っている者が多いのではないかというくらい、レイはベスティア帝国で有名だった。
そんなレイがベスティア帝国に来るとなれば、色々と……本当に色々と大きな騒動となるのは間違いのない事実だ。
レイとしては、出来ればそんな面倒な真似をしたくはない。
だからこそ、出来ればミレアーナ王国で今まで通りに暮らしたいという思いがある。
「それにしても、レイもランクAか。……冒険者になってからランクAまで駆け上がるのは最速ではないか?」
感心した様子で、エレーナはマリーナに尋ねる。
元ギルドマスターだけに、マリーナがその辺の情報を知ってるのではないかと、そう思って尋ねたのだが、マリーナは首を傾げる。
「どうかしらね。ランクBまで上がったのは間違いなく最速だと思うけど、ランクAとなると……レイはランクBで満足していたから、もしかしたらレイよりも早くランクAに昇格した冒険者がいる可能性は否定出来ないわ。レイがもう少し上昇志向が強ければ、最速ランクA冒険者になってしまったのかもしれないけど」
そう言い、レイを見るマリーナ。
だが、レイとしてはもっと早くランクA冒険者になっていれば、貴族の相手も自分で行う必要があるのだ。
であれば、ランクBのままの方がよかったというのはレイにとっては明らかだった。
「そう言われてもな。俺としてはランクBでそこまで困っていた訳じゃないし。基本的にはランク制限のある依頼も、ランクBなら大抵受けられたし」
結局のところ、それがレイがランクBのままでいた最大の理由だった。
これでランクAでなければ受けられない依頼……特に討伐依頼の類が多数あるのなら、レイももっと早くランクAになったのだろうが。
「まぁ、それでこそレイらしいけどね」
笑みを浮かべつつ、ヴィヘラが告げる。
皇族という身分が嫌になって出奔したヴィヘラにしてみれば、貴族との付き合いが嫌だというレイの気持ちも十分に理解出来るのだろう。
「ねー、レイの話はいいけど、このパンはもうないの? もっと食べたいんだけど」
ニールセンはドライフルーツが練り込まれたパンをもっと食べたいといった様子でレイに向かってそう尋ねる。
冒険者のランクというのは、ニールセンにとってあまり興味のないものなのだろう。
……いや、寧ろ妖精の住処を燃やそうとして、妖精達と一緒に暮らしていた狼達を殺したアンテルムがランクA冒険者であったというのを知っているだけに、ランクA冒険者という存在に忌避感を持っていてもおかしくはない。
「ほら、これでも食べて大人しくしてろ」
レイは自分の皿の上にあったパンをニールセンに渡す。
レイも干した果実が練り込まれたこのパンは嫌いではないのだが、このパンは妙に甘かった。
パンに砂糖を入れたといった訳ではなく、干した果実の持つ甘みが非常に強かったのだ。
お菓子として食べるのならまだしも、夕食のパンとして食べるのはレイとしてはあまり好みではないパンだった。
だからこそ、自分の分をあっさりとニールセンに渡すことが出来たのだろう。
レイから受け取ったパンを嬉しそうに食べるニールセンをビューネは羨ましそうに見る。
ビューネもまた、自分の分のパンを食べ終えて足りないと思ったのだろう。
そんな中でレイがニールセンにパンを渡しているのを見て、羨ましく思ったのだ。
……あるいは、自分の身体くらいの大きさがあるパンを食べるのが珍しいと思ったのかもしれないが。
だが、不意にそんなビューネの皿の上にパンが置かれる。
そのパンを置いたのは、レイと話しているヴィヘラ。
ヴィヘラにしてみれば、自分のパンをビューネに渡すくらいの事は特に問題がないことなのだろう。
「ん」
そんなヴィヘラに軽く感謝の言葉を口にしてから、ビューネはパンを食べる。
ニールセンと一緒にパンを食べているその様子は、一見すると非常に仲がよさそうに思えた。
実際にこの二人の相性は悪くないのだが。
そんな二人の様子とは裏腹に、レイ達は昇格試験について話す。
「それで、レイは昇格試験までは普通にすごすのよね? 特に何かこれといったようなことをしたりはせずに」
マリーナのその言葉に、レイは当然だといったように頷く。
「そうだな。昇格試験も問題だが、ギルムの増築工事や……トレントの森の諸々も放ってはおけないだろうし」
特に問題なのは、トレントの森の方だろう。
増築工事の方は、最悪レイがいなくても何とかなる。
実際にレイが異世界に行っていた間は、それなりに何とかなっていたのだから。
……伐採された木の運搬がかなり厳しかったようだが、そちらに関しても一度経験している以上は何とか出来るだろう。
(問題なのは、トレントの森に入ることが出来る冒険者が限られてるってことだが……最悪、トレントの森で伐採した木をトレントの森の外まで運んで、そこで運搬用の冒険者に渡すといった手段もあるしな)
限られた冒険者しかトレントの森に入れないのなら、入れない者はその外で待っていればいい。
勿論、伐採された木の運搬ともなればかなり厳しい作業なのは間違いない。
特に今は、夏真っ盛りで日中には強烈な直射日光が空から降り注ぐ。
そんな中で伐採された木を運ぶというのは、まさに重労働だろう。
……そういう意味では、それこそトレントの森の中で作業をしている者の方が木陰がある分、動きやすいのは間違いなかった。
レイが思いついたことを口にすると、聞いていた者達も頷く。
「人件費が余計に必要になるだろうが、トレントの森の中に入らないということであれば、誰でもその依頼を受けられる、というのは大きいだろうな」
「エレーナ、忘れているみたいだけど、ここは辺境よ? 街道近くにはモンスターが出て来ないように冒険者や兵士、騎士達がモンスターを積極的に狩っているけど、いつどんなモンスターが現れるかは分からないわ。そうなった時のことを考えると、誰でもって訳にはいかないわ」
元ギルドマスターだからこそ、マリーナはその点について真っ先に思いついたのだろう。
今でこそ多くの者が増築工事で仕事を求めてギルムにやって来ているが、本来ならギルムという場所は辺境であり、未知のモンスターが姿を現してもおかしくはないのだ。
それでもギルムに移動するだけで、その後の仕事は街中で行うのであれば、危険性は比較的低い。
しかし、そんな中でギルムの外に出て……それも街道から離れた場所に存在するトレントの森の近くまで行くというのは、相応の技量を持った者であればまだしも、それを持っていない者にしてみれば致命的だ。
勿論、そのような場所に行ったからといってすぐにモンスターが姿を現す訳ではない。
それどころか、冒険者や騎士達によってモンスターが狩られている以上、そう簡単にモンスターに接触することはないだろう。
だが……それは、接触すれば致命的であるということも示していた。
「そうかもしれないが、現在のギルムには多数の者がいる。その中には、辺境のモンスターであろうとも対処出来る人物がいてもおかしくはないのではないか?」
「そうね。でも、辺境だからこそ、どんなモンスターが現れるのか分からないというのも事実よ。ゴブリンとかその辺なら何とでも出来るでしょうけど、それがサイクロプスやオーガといったモンスターだと……とてもじゃないけど、その辺の冒険者には対処出来ないでしょうね。勿論、全員といった訳じゃないけど」
増設工事が始まるまで、ギルムで活動していた冒険者が強いというのは間違いのない事実だ。
だが、ギルム以外の冒険者は全てが弱いかいうと、その答えは当然否となる。
別に強者全てがギルムにやって来る訳ではないのだから。
中には何らかの理由で自分の住んでいる場所から離れたくないと思っている者がいてもおかしくはない。
そのような者が短期間の出稼ぎとしてギルムに来たというのであれば、サイクロプスやオーガといったモンスターと遭遇してもどうにか対処出来る可能性は十分にあった。
それはマリーナも当然理解していたが、同時にそのような者は決して多くはないのだということもまた、理解していた。
だからこそ、トレントの森の外で伐採された木を受け取ってギルムまで運ぶといったような真似をするのは、安全性を考えればそう簡単に出来ることではないのだ。
「取りあえず、俺が出来るのは昇格試験がいつあってもいいように、準備をしておくだけか。……伐採した木の運搬についても、その間に決めればいいだろう。問題なのは、その昇格試験がいつ行われるのか決まるまでは海に行けないってことか」
レイとしては、折角の夏なのだから今年も海に行きたいと思っていた。
それは泳いで遊びたいという思いもあったが、それ以上に海産物の類を一年分……あるいはもっと確保しておきたかったというのが正直なところだ。
「それは……残念ね」
ヴィヘラも海に行ってみたいとは思っていたのだろう。
レイの言葉に残念そうな反応を示す。
同時に、食事という行為にレイと同じくらい執着しているビューネも、パンを食べながら残念そうにする。
それに気が付いた者はそう多くはなかったが。
「え? 海? 海ってあれでしょ? 大きな水溜まり」
と、そんな中で大きな反応を示したのは、ニールセン。
内陸ばかりを移動してきて海を見たことがないニールセンの言葉に、レイ達は海がどのような場所なのかを教えるのだった。