2478話
時は少し戻り、アンテルムがトレントの森を燃やすと妖精達を脅していた頃……
「……ん?」
夜、ベッドで眠っていたレイは、不意に目を覚ます。
それは殺気を感じたといった理由からではない。
だが、それとは違った理由で部屋の中に突っ込んできた存在がいたのだ。
「レイ! あ、起きてる。ちょっと、大変、大変、大変! 大変なのよ!」
「……何があった?」
騒いでいるのが、自分の掌程の大きさの存在であるというのを理解する。
つまり、妖精のニールセンであると。
最初は、それこそ何らかの理由……酒に関して自分が飲ませて貰えなかったといった理由で、レイに泣きついてきたのかとも思った。
だが、時間はもう夜だ。
いや、日付が変わったかどうかといった時間である以上、もしこれが日本であれば、まだ宵の口といったように主張する者もいるだろう。
だが、このエルジィンにおいて、日付が変わる時間というのは完全に真夜中といった認識なのだ。
……とはいえ、そんな時間でも酒を飲んで騒いでいるような者はいるのだが、ここはマリーナの家だ。
そうである以上、こんな時間に酒を飲むといったような者はまずいない。
また、何よりもレイの部屋に入ってきたニールセンの顔が月明かりで照らされているのだが、その顔は真剣そのものだ。……妖精は真剣に悪戯をしたりするので、今の様子を見て必ずしも信用出来るといった訳ではないのだが。
それでもこうして真剣な様子を見せている以上、まさか悪戯ではないだろうと判断する。
……もし悪戯なら、ニールセンが苦手としているマリーナに叱って貰おうと思いながら。
「大変なのよ! トレントの森から連絡があって、誰かが私達の住んでる場所を探してるらしいわ!」
「待て」
ニールセンが動揺している理由は、レイにも分かった。
ただし、ある意味でそれは予想の範囲内だ。
妖精という存在を知った者がいれば、そして強欲な者がその情報を得れば、当然だが妖精を捕らえようとするだろう。
もっとも、現状では妖精のことを知っているのは本当に限られている以上、誰が情報を漏らしたのかと、そう疑問を抱いたのだが。
現状で妖精のことを知っているのは、レイ達一行がまず挙げられる。
だが、レイ達は全員がこの家にいるし、日中にでも情報を漏らすとは到底考えられない。
次にダスカーがいるが、こちらもまた妖精という存在の意味をきちんと理解している以上、それを口に出すような真似はしないだろう。
将来的にはギルムにとって大きな利益をもたらしてくれる存在が妖精なのだ。
そんな相手を簡単に売るといったような真似をする筈もない。
そうなると、残るのはアナスタシア。
非常に強い好奇心を持っている為に、自分で妖精について調べたいと思いもするだろうし、その好奇心故に誰かからより好奇心を刺激する情報と交換するという形であれば、妖精の情報を流すといった可能性も十分にあった。
その辺の事情を考えると、やはり今回の一件で一番怪しいのはアナスタシアとなってしまうだろう。
(やっぱりアナスタシアか? なら……いや、待て。連絡? 今、連絡って言ったよな?)
連絡と、間違いなくニールセンは言ったのだ。
だが、そうなるとどうやって? という疑問が残る。
そもそも、他の妖精と連絡が出来るのであればわざわざニールセンが交渉の全権を得て……というのはおかしい。
(いや、違うのか? 仲間と連絡が取れるから、交渉の全権を任せても問題ないという判断だったのか? だとすれば、それなりに理屈は通るが……ただ、ダスカー様と交渉している時は、仲間と連絡を取ってるようには思えなかった)
分からないことは、取りあえず本人に聞いてみればいいだろうと、レイは焦っている様子のニールセンに尋ねる。
「連絡を取るって、どうやってだ?」
「っ!?」
そんなレイの言葉で、ようやくニールセンも自分が不味いことを言ったと、そう理解したのだろう。
反射的に息を呑む。
本来なら、その理由を何とか隠す必要がある。
だが、今のこの状況で自分達が事情を隠した場合、レイは自分の言葉を信じるとは思えない。
だとすれば、現在のニールセンがやることは決まっていた。
「マジックアイテムよ」
「やっぱりな」
ニールセンの口から出た言葉は、レイにとっても十分に納得出来るものだった。
妖精は元々マジックアイテムを作るのを得意としているのだから。
それ以外には、妖精特有の……それこそ、妖精の輪を使った転移能力のような能力ではないかと、そんな風にも思っていたのだが、そちらは違ったらしい。
「……この件については後で説明するわ。だから、今は一刻も早くトレントの森に行って欲しいの! こっちに来た連絡だと、あの人間は本気で私達をどうにかする気なのよ!」
必死にそう言ってくるニールセンに、レイは頷く。
「分かった。すぐに助けに行く……と言いたいところだけど、問題なのは今が夜ってことなんだよな。これが日中なら、まだこっちもやりようがあったんだが」
当然の話だが、夜になればギルムの門は閉まる。
特別な事情……それこそ、領主の命令といったものがない限り、閉められた門は朝まで空くことはない。
今回の一件は妖精の件である以上、事情を話せばダスカーも即座に許可を出すだろう。
だが……問題なのは、ここから領主の館まで行き、ダスカーを起こして事情を説明することが出来るか、ということだ。
普通に考えて、それが懐刀と言われているレイであってもこの時間に会いに行って素直にダスカーと会えるとは思えない。
いや、最終的には会えるだろうが、それに時間が掛かりすぎてしまうだろう。
(どうする? いっそ城壁を飛び越えるか? 結界の類がない今なら、セトがいれば問題なく外に出られる。……間違いなく後で問題になるだろうが……)
当然の話だが、増築工事中に無断で壁を越えてギルムの外に出るというのは、大きな問題となる。
それこそ、一体どれだけの罰が与えられるか分からない程に。
「行きなさい。セトなら、問題なく壁を越えることは出来るでしょ? ダスカーには私の方から話を通しておくわ」
不意に響くその声が誰の声なのかは、レイにもすぐに分かった。
そもそも、ダスカーを呼び捨てに出来る者はこの家には一人しかいない。
「マリーナ……いいのか?」
「いいわよ。今はニールセンの仲間を助けるのが先でしょ? 私も、立場上妖精達を見捨てる訳にはいかないし」
「……立場上?」
「いいから、とっとと行ってきなさい。今は少しでも急ぐ必要があるでしょう?」
マリーナにそう言われれば、レイもその言葉に否と言う訳にはいかない。
「分かった。じゃあ、すぐに行く。ダスカー様に報告するのは任せたぞ」
「ええ」
「ニールセン!」
「分かったわ」
レイの言葉に、ニールセンは心の底からほっとした様子で返事をする。
そんなニールセンと共に、レイは最低限の身支度を調えると、居間から中庭に出るのも面倒だと、窓から直接外に出た。
「セト!」
「グルゥ?」
レイの言葉に、中庭で眠っていたセトは即座に反応。
レイの様子から、何かあったと判断したのだろう。
真っ直ぐレイに向かって近付いてくる。
「これからトレントの森に行く。ここから直接飛んでくれ」
「グルゥ?」
いいの? とセトはレイの言葉に喉を鳴らす。
セトもまた、ギルムで暮らしてそれなりに長い。
レイの言ってることが、本来ならやってはいけないことであるというのが、セトにも容易に理解出来たのだろう。
しかし、レイはそんなセトに問題ないと頷き、頭を撫でる。
「マリーナがこれから事情を説明しに領主の館に行く。その辺を考えれば、取りあえず心配はないと思ってもいい」
「グルルルルゥ」
そんなレイの言葉に納得したのか、セトは急ごうとレイが背中に乗りやすいように屈む。
レイもまた、即座にそんなセトの背中に跨がり……ニールセンは、レイのドラゴンローブの中に入る。
これから飛んで移動する以上、そのようにした方が安全だと判断したのだろう。
(ニールセンが小さいのは、俺にとってもセトにとっても幸運だったな。……このくらいの大きさなら、セトも問題なく飛べるだろうし)
魔獣術で生み出された為か、セトには幾つか普通のグリフォンにはないのだろう欠点がある。
その一つが、レイ以外の者が背中に乗ると飛ぶという行為がかなり制限されるということだ。
子供くらいなら乗せて飛べるのだが、それが大人となると背中に乗せて飛ぶのは非常に難しい。
……その割に、巨大な熊を足で捕まえて飛ぶといったことは容易に出来るのだから、これは恐らく魔獣術が影響しているのだろう。
また、飛んでいるセトの足に掴まって飛ぶといったことも、容易に出来る。
そのような理由から、もしニールセンが大人であればレイと一緒にセトに乗るといった真似は不可能だったかもしれないが……妖精として掌サイズである以上、その辺を心配することもなかった。
「よし、セト。トレントの森まで頼む」
「グルルルルゥ!」
レイの言葉にセトは鋭く鳴き、中庭を走る。
マリーナの家の中庭はそれなりの広さがあり、セトが助走として使う分には何の問題もない。
実際、すぐに翼を羽ばたかせて、セトは上空に向かって飛んでいく。
中庭から一定の高度になった頃、マリーナの家を覆っている精霊の空間から抜け出したのがレイにも分かった。
それでも、すぐにそのようなことは忘れる。
真っ直ぐに空まで上がると、やがてセトはトレントの森に向かって飛び始める。
もし今、セトの様子を見た者がいれば、一体何なのかと混乱するだろう。
……もっとも、この時間にわざわざ夜空を見ているような者がいればの話だが。
「さて、問題なのは……ニールセン、俺達は具体的にどこに行けばいいんだ? トレントの森と一口で言っても、広いんだが」
そう、トレントの森というのは、かなりの広さを持つ。
ニールセンに急かされてトレントの森に向かっているレイ達だったが、具体的にはどこに行けばいいのかというのは全く分からない。
そうである以上、マジックアイテムで妖精とやり取りをしているニールセンに、自分達の行くべき場所を聞く必要があった。
「ちょっと待って。……うーん、どう説明したらいいのかしら。上空からだと、私も初めて見るから説明しにくいわね」
「妖精は空を飛べるだろ? なのに、ここまで……とは言わないが、ある程度の高度まで飛んだりは出来ないのか?」
「無茶を言わないでよ。高度が高くなれば、それだけ風も強くなるのよ。そうなれば、私達なんか簡単に吹き飛んでしまうじゃない」
レイの言葉に、不満そうに言うニールセン。
ニールセンにしてみれば、レイの言ってる内容はとてもではないが受け入れられるものではなかった。
「なら、どうする?」
「ちょっと待って。……あそこよ。ほら、向こうの方」
ドラゴンローブから少しだけ顔を出し、数秒意識を集中した後で特定の方向を指さす。
そこにいるのが、恐らくニールセンに連絡をしてきた妖精なのだろう。
そう判断し、レイはセトにそちらの方向を示す。
「セト、向こうだ。何があるのかは分からないが。気をつけろよ。……ニールセン、何が起きているのか、分からないのか?」
セトに指示を出してから尋ねるレイだったが、ニールセンは首を横に振る。
「そこまでは分からないわ」
首を横に振るニールセンを見て、連絡そのものは出来ても詳細な意思のやり取りは出来ないのだろうと理解する。
(まぁ、今までのニールセンの言動を考えても、その可能性が高いのは理解していたが)
ニールセンとの付き合いはそれなりに長い。
そんな中で、レイが感じたその感想は決して間違いといった訳でもないだろう。
(その件は後で考えれば問題ないか。……今はまず、何かが襲っているだろう妖精達を助けることだな)
妖精の存在というのは、レイにとってもマジックアイテム的に非常に大きい。
それだけに、ここで妖精が危険な状態を見逃すという選択肢はレイにはなかった。
「グルルゥ?」
行くよ? とそう自分の背中に乗っているレイに尋ねるセト。
レイはその言葉に頷く。
「頼む」
「グルルルルルルゥ!」
レイの言葉を聞き、セトは鋭く鳴き声を上げて翼を羽ばたかせ、地上に向かって降下していく。
レイは地上で何が起きているのかも分からなかったが、それでもニールセンの様子から考えれば厄介な出来事が起きるのは間違いない。
そうである以上、いつ何が起きてもいいようにとでミスティリングからデスサイズと黄昏の槍を取り出す。
急速に地上が近付いてきたところで、濃厚な血の臭いが漂ってきた。
そして、セトが木の枝を折りながら地上に着地した瞬間、レイの目に入ってきたのは……地面に倒れている無数の狼の死体だった。