2477話
暗い森の中……そんな場所を、アンテルムは歩いていた。
トレントの森に生えている木々は多く、その密集具合もそれなりに高い。
その為、月から降り注ぐ柔らかな光は木々の枝に殆どが遮られてしまう。
また、夜空には月以外に雲もかなり出ており、時々月を覆い隠す。
それだけに、今の状況ではトレントの森の中にまで明かりは届かない。
しかし、そんな中でもアンテルムは暗闇を苦にするようなこともなく、進む。
「この俺が夜中に森の中に入るようなまねをしなければならないとはな。……レイめ」
吐き捨てる様子からは、暗闇より自分をこのような状況に追いやった原因に対しての苛立ちが強い。
実際、この暗闇は夜目の利くアンテルムにとって厄介なものではない。
ソロで行動してランクAまで昇格したアンテルムにとって、この程度の暗闇で活動するのは初めてではない。
……もっとも、貴族の血を引く自分が何故夜に外に出て働く必要があるのかといった苛立ちはあったが。
そんな状況の中、何故アンテルムがわざわざこのような場所にいるのか。
その理由は幾つかあるが、最大の理由はやはり昼間にレイと親しそうにしていた狼の存在だろう。
今のアンテルムには、既にグリフォンのセトをどうこうするという目的よりも、自分をこのような苦境に追いやったレイに復讐するということしか考えてはいない。
実際にはレイが連れていたセトを奪おうとした身勝手な行為から始まった話であり、このような状況になったのも自業自得以外のなにものでもないのだが……それでも、アンテルムにとって現在自分がこのような状況になっている理由は、レイによるものという認識だった。
そんなレイが可愛がっていた狼がいるのが、現在アンテルムがトレントの森にいる理由だ。
現在は生誕の塔や湖、そして異世界に繋がっている地下空間や妖精の件もあり、ギルドやダスカーの許可なくトレントの森に入ることは禁止されている。
それを防ぐ為に、騎士や兵士達が見張りを行ってもいるのだが……トレントの森の広さを考えれば、当然だがその警備は厳重ではない。
それでもトレントの森に侵入しようとするのが素人であれば、騎士や兵士がそれを見つけることも出来るだろう。
実際、今まで百人を超える人数がトレントの森に無断で侵入しようとして、捕まっている。
だが……アンテルムは性格はともかく、実力はランクA冒険者である以上、素人とは比べものにならない。
他にも、そのアンテルムを捜す為にかなりの人数がギルムに戻されており、現在も必死に活動しているということもあって、アンテルムは容易にトレントの森の中に侵入出来た。
「それにしても、こんな森が短期間で出来上がるとはな。さすが辺境といったところか」
レイに対する苛立ちはまだ残っていたが、それでも今はこの森の探索に力を入れた方がいいだろうと、レイに対する苛立ちを一時忘れ、森の中を見ながら呟く。
辺境のギルムにおいて、夜に外に出るというのはかなり危険なのだが、騎士や兵士に出来ることがアンテルムに出来ない訳がない。
こうして夜の森を進んでいれば、当然のようにそんなアンテルムを狙ってモンスターも姿を現すが……
「邪魔をするな」
その短い一言と共に、襲ってきたフクロウに似たモンスターはあっさりと長剣の刃で切断される。
放たれた一撃は鋭く、敵の命を奪うのは非常に容易だった。
そんな戦闘とも呼べない戦闘が何度か繰り返され、それでもアンテルムは一切の怪我を負うこともなく進み……
「またか。俺を煩わせるな……ん?」
また敵が現れたのかと思ってアンテルムは長剣を振るおうとするが、不意にその動きを止める。
何故なら、姿を現したのは半透明の丸い何かだったからだ。
最初はゴーストか何かかとも思ったのだが、アンテルムの冒険者としての勘がそれをモンスターではないと判断した。
自分に対する敵意や害意といったものが足りないのだ。
いや、足りないどころではなく、存在すらしていないというのが正しい。
「何だこれは……敵? いや、だが……」
今まで色々な依頼をこなしてきたアンテルムも、このような存在を見たことはない。
これで自分に向かって攻撃をしてくるのであれば、反撃をするといったような真似もしただろう。
だが、敵意がないのを見れば分かる通り、目の前の物体は敵ではない。
敵ではないのだが……それでも、どのような存在なのかは全く分からなかった。
「おい、一体お前は何だ? 俺の敵か? 敵じゃなければ消えろ。今はお前に構っているような余裕はない」
そう告げるが、アンテルムの目の前に浮かぶ物体は、全く気にした様子もなく空中を漂っている。
最初こそ、自分に敵意がない……それこそ辺境であるが故の何か特別な現象か何かだと思っていたのだが、目の前で動いている物体はどこかアンテルムをからかっているようにすら思えた。
そして何故自分がこのような存在にからかわれなければならないかと、苛立った瞬間……アンテルムの持つ長剣は、一瞬にしてその物体を切断する。
「俺を誰だと思っている!」
苛立ち混じりの一閃ではあったが、それでも狙いを外さない辺りアンテルムの技量が確かな証だろう。
切断された物質は、幻か何かだったかのように夜の闇に消えていく。
しかし、それが幻でも何でもなかったのは、それこそ切断したアンテルム本人が一番よく理解している。
「ふんっ、何だか知らないが……俺の前に出て来たのが不幸だったな。……それより、狼はどこだ? この森にいる狼に用があるってのに、全く出て来ないな。……ん?」
苛立ち混じりに森の中を進んでいたアンテルムだったが、やがて周囲の異常に気が付く。
つい先程見たのと同じ木が生えているように思えたのだ。
「まさかな」
呟きながらも、長剣で木の幹を軽く斬って目印を付ける。
そして森の中を進み……やがて十分も経たないうちに見覚えのある傷が刻まれている木の幹の前に出る。
「ちっ、誰の仕業だ?」
すぐに自分が結界か何かに巻き込まれたのだと悟ったアンテルムは、苛立ち混じりに吐き捨てる。
このような結界が自然に存在する筈がない。
つまり、誰かが意図的に自分をこの結界に巻き込んだのだ。
それはつまり、自分に敵意のある存在がいたということになる。
「誰だ……出て来い! 俺の前に出て来てみろ!」
叫ぶアンテルムだったが、このような結界を張った存在がわざわざ姿を現す筈がない。
そんな苛立ちを感じつつ、アンテルムは懐から一本の短剣を取り出す。
「くそっ、これを使わせるような真似をしやがって、絶対に殺してやる」
苛立ち混じりに叫びつつ、短剣に魔力を通して鋭く振るう。
瞬間、空間その物が斬れた。
……いや、正確にはアンテルムが取り込まれていた結界が切断された、といった方が正しいだろう。
短剣は役目を果たすと、刀身半ばで折れる。
結界を破壊する為のマジックアイテムではあるのだが、使い捨てなのだ。
当然マジックアイテムだけに非常に高価であり、それをこのような場所で使わされたことがアンテルムの怒りに油を注ぐ。
元々アンテルムは貴族の出ということもあって、実家には幾つものマジックアイテムがあった。
冒険者になる時、それを持ち出し……結果として、複数のマジックアイテムを使いこなすことでランクA冒険者にまで上り詰めたのだ。
それだけに、マジックアイテムを消費するというのはアンテルムにとって非常に痛い。
今回の一件だけで、既に幾つかの消費型のマジックアイテムを使っている。
(レイめ……俺に大人しくグリフォンを渡していればいいものを)
ランクAモンスターのグリフォン。
その素材が、一体どれだけのマジックアイテムになるのかは、容易に想像出来る。
だからこそ、現在の自分の状況が非常に気にくわない。
そんな苛立ちを込めて、アンテルムは気配を感じた方に向けて刀身がなくなった短剣を投擲する。
短剣は刃がなくなったとはいえ、柄は残っている。
その柄も金属で出来ている以上、ランクA冒険者の力で投擲すれば、当然のように強い殺傷能力を持つ。
アンテルムは、その気配の持ち主こそが自分を結界に閉じ込めた相手だと判断し、それこそ死んでも構わないという思いで短剣を投擲したのだが……
「きゃあっ!」
「なっ!?」
茂みから聞こえた声……ではなく、その茂みから一瞬見えた姿に驚きの声を上げる。
当然だろう。何故なら、その微かに見えた姿は妖精だったのだから。
夜目の利くアンテルムだからこそ、見逃すようなことはなかった
そんな、幻の存在。
その存在は、アンテルムの様子から自分の姿を見られたことに気が付いたのだろう。
慌てた様子で、その場から転移する。
残ったのは、空中に浮かぶ光の輪……妖精の輪だけ。
「今のは、間違いなく妖精だった」
自分の見た光景が嘘ではなかったと、そう確信する為にアンテルムは呟く。
そして、その言葉が真実であったと確認する。
「妖精だと? 偶然ここにいたのか? ……いや、違うな」
自分の意見をすぐに否定する。
何の脈絡もなくできたトレントの森。人が入らないように警備されており、レイのように一部の者しか入ることは許されていない。
そんな事情を考えれば、ここには妖精の生息地があるのだろうというのは容易に予想出来た。
……実際は偶然に偶然が重なった結果そうなっただけでしかないのだが。
アンテルムにしてみれば、最初からここには妖精がいて、ギルムの面々はそれを隠していたというようにしか思えない。
レイ……正確にはダスカーも、トレントの森については色々と秘密にしている以上、そのように思われてもおかしくはなかったので仕方がないのだが。
「妖精……妖精か」
アンテルムにとって、妖精というのは普通の人が見たよりも大きな意味を持つ。
基本的にマジックアイテムを多用した戦い方をするアンテルムにとって、強力なマジックアイテムを作れる妖精という存在は、何よりも欲している存在だ。
それこそ、妖精のマジックアイテムが手に入るのならセトのことを諦めてもいいと思える程には。
「問題なのは、妖精がどこに棲み着いてるかだろうな。あの連中にしてみれば、人に見つかるような場所には絶対に隠れたりはしない筈だ」
だとすれば、やはりトレントの森のどこか……それも、まだ伐採がされていないような奥深くとなる。
「ふんっ、最悪の結果ではあったが……それでも、俺にとっては悪い話ばかりって訳じゃなかったようだな」
半ば自分に言い聞かせるようにしながら……次の瞬間には額から流れた汗に苛立ちを見せる。
昼よりも涼しいのは間違いないが、それでも夏の夜は熱帯夜と呼ぶのに相応しい暑さだ。
レイのドラゴンローブのように、簡易エアコンのような機能を持つ訳でもなく、アンテルムはこの暑さに苛立つ。
「出て来い、妖精! 俺はお前達に話がある!」
妖精の姿がどこにもなく、それに対する苛立ちから叫ぶアンテルムだったが、聞こえてくるのは虫の音くらいだ。
それに余計に苛立つアンテルムの声が周囲に響く。
「出て来ないのなら……燃やすぞ」
アンテルムの口から出た言葉は、とても脅しとは思えない程に真剣なものだ。
もし何も言わなければ、本当にトレントの森を燃やそうと考えているのではないかと、そう思ってしまう程に。
勿論、アンテルムも今の状況では本気で燃やそうなどとは思っていない。
いないが、それでもどうしても妖精が出て来ないのであれば、燻して妖精を住処から追い出すといったような真似をするつもりでもあった。
そのような真似をすれば、当然だがギルムの領主たるダスカーから恨まれるだろう。
……実際には、それだけでなく他にも幾つもの相手を敵に回すことになるのだが、アンテルムはそこまで理解していない。
そんな中……燃やすと口にしたことにより、間違いなく動揺の気配を感じ取る。
普通ならそんな動揺を感じるといった真似は難しいのだが、アンテルムはランクA冒険者だ。
微かな動揺を感じるといったような真似も、アンテルムであれば可能だった。
「どうする? お前達が大人しく降伏するのなら、火を点けるといった真似はしないが」
そう告げるアンテルムは、不意に長剣を振るう。
瞬間、どこからともなく飛んできた風の矢を斬り裂いた。
これもまた普通なら出来る訳ではないのだが、アンテルムが持っているのは魔剣だ。
それも安物の魔剣ではなく、相応に高価な……つまり、効果の高い魔剣。
自分に向かって飛んで来る魔法を斬り裂くといった程度のことは容易に出来た。
……勿論、それはアンテルムの技量があってこその話なのだが。
「分かった。つまりこれがお前達の返答だな?」
「グルルルルル」
その言葉に反応するように、森の闇の奥から狼の群れが姿を現す。
明らかに自分に敵対的な相手に……そして何より、レイと一緒にいた個体を目に、アンテルムの口には狂笑と呼ぶべき笑みが浮かぶのだった。