2475話
「レイ? 今日は随分早いな」
中庭にやって来たレイを見て、エレーナが驚きの声を発する。
まさかこの時間にレイが戻ってくるとは思わなかったのだろう。
……もっとも、レイが早く戻ってきたということで、レイと一緒にいる時間が長いので嬉しそうな様子も見せていたが。
「ああ。実は……」
「よっと。私も遊ぶー!」
レイが最後まで言うよりも前に、ドラゴンローブの中から飛び出してきたニールセンが、早速中庭の中で走り回っているセトとイエロに向かって突撃していく。
「……レイ殿? ニールセンは今日もこちらに?」
レイの分の紅茶を用意したアーラが、そんな疑問を口に出す。
その言葉には驚きの色が強い。
まさか、昨日に引き続き今日もニールセンがやって来るとは思ってもいなかったのだろう。
「どうやらそうらしい。まぁ、ここはマリーナの家だし、マリーナが許可すれば問題ないと思う。……マリーナがいれば、ニールセンも妙な真似はしないだろうし」
「何故かマリーナ殿には頭が上がりませんしね」
「それはマリーナが世界樹の巫女だからだろう? ……具体的に世界樹と妖精がどんな関係なのかは私には分からないが。それに今は、ニールセンがここにいるのはそう悪い話ではないと思うが」
レイとアーラの会話に、そうエレーナが告げてくる。
実際、今の状況を思えばニールセンがこの家にいるというのはそう悪い話ではないのは間違いない。
トレントの森にいる他の妖精はともかく、ニールセンは既にギルムという街を知っている。
それだけに、ニールセンがその気になればトレントの森から出てギルムまでやって来るといったことが普通に出来るのだ。
……勿論、その際には色々と危険もあるのだが。
ニールセンの存在が周囲の者達に知られる危険を冒す可能性を考えると、レイとしては自分の目の届くところにいてもらった方が、まだやりやすいと思える。
「ニールセンについては、取りあえずマリーナに任せておけばいいだろ。……それよりも、ゾルゲラ伯爵家の件を聞いたか?」
「……ああ」
レイの言葉に、エレーナが少しだけ憂鬱そうな様子で頷く。
エレーナやアーラが自分でゾルゲラ伯爵家の屋敷まで行ったのではなく、恐らくエレーナに面会に来た者がゾルゲラ伯爵家の情報を持ってきたのだろうことは、レイにも容易に予想出来た。
そもそも、貴族街でゾルゲラ伯爵家のような一件が起きるのは非常に稀だ。
勿論、貴族同士の関係が険悪であったり、もしくはお家騒動で暴力沙汰はある。
しかし、このギルムにおいてはダスカーの治めている街だ。
そのような場所でそのような騒ぎを起こした場合、それこそ自分の派閥に大きな迷惑を掛けることになるのは間違いない。
だからこそ、今回の一件は貴族街の中でも大きな話題となっていたのだろう。
貴族を貴族と思わぬ行動。
それは、貴族にとっては最悪の相手と言ってもいいだろう。
貴族が持つ権威を全く気にした様子もなく、自分達を殺しに来るのだから。
貴族を貴族と思わないで手を上げるというのであれば、それこそレイもそうだ。
それでも、レイはこのような事件を起こしたことはない。
……もっとも、ベスティア帝国との戦争では、それこそ相手が貴族だろうが何だろうが全く関係なく殺しまくったおかげで、深紅というレイの異名はベスティア帝国内で畏怖や恐怖、憎悪として広がることになってしまったが。
とはいえ、闘技大会やその後の内乱においてレイが大きく活躍したこともあり、中にはレイを尊敬するといったような者も出て来たのだが。
そのような者が多かったのが遊撃隊の面々で、レイの近くにいたい……そして何より、レイと敵対したくないと判断してギルムまでやって来たのが、ヨハンナを始めとした面々なのだが。
「ともあれ、知ってるのなら話は早い。アンテルムの目的がセトである以上、いつここに攻めて来てもおかしくはないから、注意しておけよ」
「……その場合、注意するのは私ではなくレイではないのか?」
エレーナのその言葉に、レイは言葉に詰まる。
そして言葉に詰まったレイを見たエレーナは、真剣な様子で口を開く。
「何かあったな?」
「あー……うん」
エレーナの様子を見て、とてもではないが隠し通せるとは思えなかったので、レイは素直に洗脳された子供に襲われた一件を話す。
その説明に、エレーナとアーラの二人は揃って不愉快そうな様子を見せた。
これが、まだ冒険者だったり警備兵だったり、場合によっては騎士だったりすれば、話はもう少し違ってくるだろう。
だが、アンテルムが洗脳したのは子供だったのだ。
それも、見るからに洗脳による悪影響があるように思えた以上、エレーナとアーラの二人がそれを不愉快に思うなという方が無理だった。
「問題なのは、どんな手段で洗脳しているのかが分からない以上、また同じように洗脳された相手に襲われかねないってことなんだよな。その辺の相手ならどうとでも出来るが、今回のように意表を突く相手だったりすると、対応が遅れる可能性がある」
「せめて方法が分かれば、多少は対処のしようもあるのだが……それも分からないのか?」
「残念ながらな。そもそも、俺がアンテルムと会ったのは昨日……しかも数分といった程度だ。その程度で、相手のことなんか分からないよ」
「それでそこまで恨まれるというのは、レイも厄介な奴に遭遇したな」
「全くだ」
エレーナの言葉に全面的に同意するレイ。
そもそも、レイとアンテルムが遭遇したのはあくまでも偶然だ。
それこそ、もう数分レイが貴族街に入るのが早かったり遅かったした場合は、アンテルムと遭遇することもなく……そして、恐らくはだがゾルゲラ伯爵家の一件が起きることもなかった。
色々な意味で、今回はタイミングが悪かったとしか言えないだろう。
(もっとも、俺が理由かどうかは分からないが、あれだけでゾルゲラ伯爵家の屋敷にいた連中を皆殺しにしたんだ。だとすれば、もし俺が接触していなくても結局は同じようなことになった可能性は高いけどな)
だとすれば、結局ゾルゲラ伯爵家のような一件は遅かれ早かれ起きていた可能性がある。
「アンテルムも元は貴族なんだろ? なのに、同じ貴族であっても容赦なく殺すんだな。それが少し……いや、かなり意外だった」
貴族としてのプライドや誇り――レイから見れば埃だが――を持っている以上、冒険者を相手はともかく、自分と同じ貴族であれば友好的でもおかしくはないのではないか。
そんな風に、レイには思えたのだが……
「貴族といっても色々だ。それこそ話を聞いた限りだと、アンテルムという男は自尊心が極端に高いのだろうな。……普通なら、そのような者はどこかでつまずくのだが、アンテルムはランクA冒険者になるだけの才能があったのが、誰にとっても不幸だったな」
今回の一件で殺された者達は勿論不幸だったが、途中で躓くといったようなこともないまま、ここまで来てしまったアンテルムも不幸なのは間違いなかった。
「ともあれ、そういう奴が相手ならさっさと俺が倒してしまった方がいいだろうな。……正面から来てくれれば、俺も楽なんだが。そんな様子がなさそうなのがちょっとな」
はぁ、と。
アーラの淹れてくれた紅茶を飲みながら、レイは心の底から残念そうに呟く。
今の状況を考えると、やはりアンテルムがどう動くのか分からないが、非常に厄介なのだ。
「ギルドの方から情報は貰えないんですか?」
「どうだろうな。アンテルムがギルムのギルド所属なら情報は貰えるかもしれないが、情報によると違うらしいし。寧ろ、同じ貴族ってことでエレーナやアーラが伝手を使って情報を入手出来ないか?」
「無理を言わないで下さい、無理を」
「アーラの言う通りだな。アンテルムの実家が貴族派の貴族であれば、こちらでも情報を入手出来るのだが、国王派ともなると……」
「無理か」
「うむ。今回雇われたゾルゲラ伯爵家と関係があるのは事実だが……」
そう告げるエレーナに、国王派との伝手がないのが残念とレイは落胆する。
正確には何人か国王派の貴族に知り合いはいるのだが、その者達は現在ギルムにいない以上、どうしようもない。
「ん? じゃあ、ギルムにいる国王派の貴族から情報を貰ったらどうだ? 普通なら国王派の貴族も自分の派閥についての情報は流さないだろうけど、今は事態が事態だ。その辺の情報を流してもおかしくないんじゃないか?」
普段であれば、同じ国王派ということで情報を流すといった真似をすれば、それは背信行為となる。
それこそ、裏切り者として扱われてもおかしくはない。
だが……同じ国王派に所属している者を容易に殺すといったような真似をする相手だけに、現在ギルムにいる国王派の貴族であっても、出来るだけ早くアンテルムは捕縛するなり、倒すなりして欲しい筈だ。
そうである以上、情報を流すくらいのことはしてもおかしくはないのではないか。
そうレイが思うのも当然だろう。
「ふむ、可能性があるかないかと言えば、あるだろう。だが……問題なのは、その情報の中に有益な情報があるかどうかといったところか」
「同じ国王派なら、有益な情報は何か持ってるんじゃないか? それこそ、例えば趣味とかであっても色々と役に立つかもしれないし」
例えば、レイの場合は美味い料理を食べたり、マジックアイテムを集めるのが趣味だ。
それだけに、レイに接触したいと思ったら、マジックアイテムを売っている店や、錬金術師、もしくは美味い料理を出す店に張り込めばいい。
前者二つはともかく、後者は美味い料理を出す店という、漠然とした範囲だ。
それこそギルムにおいては美味い料理を出す店となれば、数え切れない程に存在している。
そうである以上、それらの店の全てを探し回るのは非常に手間だが……それでも、何の手掛かりもないままに動き回るのを考えれば、間違いなく捜索範囲は狭くなるだろう。
だからこそ、趣味といった情報でも馬鹿に出来ないのではないかと、そうレイは思ったのだが……
「どうだろうな」
何故かエレーナは、レイの言葉に首を横に振る。
「違うのか?」
「微妙なところだろう。そもそも、アンテルムも自分の情報が流されるのは予想している筈だ。そうである以上、当然ながらそれを見越した上での行動になっていてもおかしくはない」
「それでも、無意識に今までの行動指針に沿った行動をすると思うけどな」
「ランクA冒険者であれば、そのくらいのことは考えていてもおかしくはないと思うが?」
そう言われれば、レイも納得するしか出来ない。
実際にランクA冒険者というのは、そのような迂闊な真似をする……という者は少ないように思えた為だ。
とはいえ、アンテルムの性格を思えば、自分が中心に世界が回っているといったようなことを考えている節があっただけに、行動を全く変えないといった可能性も否定は出来なかったが。
「まぁ、アンテルムがどういう場所に隠れているかは分からないが、最終的にはセトを狙ってここに来ると思う。捕まえるだけなら、それでいいんだけどな」
レイが思い浮かべるのは、ゾルゲラ伯爵家の屋敷にあった死体。
あれだけの人数を殺す……という、そのことそのものには、レイは特に驚きはしない。
レイもまた、人の命を奪っている為だ。
……とはいえ、レイが奪ったのはあくまでも盗賊だったり、敵対した相手だったりの話であって、ゾルゲラ伯爵家のような一件とは大きく違うが。
「余計な被害が広まる前に、何とかして見つける必要がある訳か」
アンテルムの性格を考えれば、それこそ自分の行動の邪魔だからという理由で、ギルムの何の罪もない住人を殺すといったような真似をしても、おかしくはない。
レイも、出来ればそんなことは避けたいと思うのは当然だった。
「ニールセンの件もあるから、今はあまり表立って動きたくはなかったんだけどな」
「それは無理だろう」
レイの言葉に、エレーナは即座にそう反応する。
それこそ、何かを考えるよりも前に、反射で言葉を発した……といったような形か。
そんなエレーナの言葉に、アーラもまた同意するように頷く。
エレーナもアーラも、揃ってレイがそのような真似を出来るとは、到底思えなかったのだ。
……レイ本人は認めないだろうが、レイと一緒に行動するようになって、この二人もそれなりに長い。
それだけに、レイが一体どのような行動をするのかというのは、容易に想像出来るのだ。
そしてレイがそのような行動をするとなると、間違いなく大きな騒動となるのは確実であり……そう説明されれば、レイも反論することは出来ないのだった。