2472話
レイとセトが……そして狼が並んで歩くのを、その目は見ていた。
空中に浮かぶ目は、決してレイの姿を逃さない。
それでいながら、非常に鋭い感覚を持つセトにすら、違和感を抱かせなかった。
……実際には、空中に浮かぶ目が近付きすぎた為か、トレントの森に入ってすぐにセトが不思議そうに周囲の様子を見回していたが。
そうなってからは、トレントの森の中に入るようなことはせず。空中に浮かぶ眼球は待っていた。
(狼? レイはあの狼に会う為に、わざわざトレントの森に来たのか? いや、だが……何故そのような真似をする? テイムしたモンスターという訳でもないようだが)
見ている方にしてみれば、レイが何をしているのか分からない。
レイの弱点……弱みの一つでも見つけようと考えて残り少ないマジックアイテムを使ったというのに、収穫がこれではマジックアイテムを無駄にしただけだ。
「くそっ……ゾルゲラ伯爵家の件が知られるのが予想よりも早かったな。こうなると、やっぱり死体は片付けてきた方がよかったか?」
苛立ちのあまり、判断を失敗するということがアンテルムの持つ数多い欠点の中でも最大の欠点だろう。
普段は貴族らしい――あくまでもアンテルムの思っている貴族だが――態度をしており、事実貴族として生まれてきただけに礼儀作法に関しても問題ない。
ある程度なら、自分の心を押し殺して演技をすることも出来る。
他の貴族の口利きがあったとはいえ、ランクAという冒険者の中でも例外的なランクSを除いて最高の地位まで上り詰めたのは、伊達ではない。
「ふぅ。……ともあれ、セトを手に入れるにはレイを何とかする必要がある。多数のマジックアイテムも持っているようだし、奴を殺せば俺はより高みに行ける」
実際には、アンテルムがゾルゲラ伯爵家の犯人の可能性が高いという件は既にダスカーを通してギルドに伝わっており、ギルドの方でもダスカーからの情報ということで、指名手配されているのだが……幸か不幸か、現在は隠れてマジックアイテムでレイを探っているアンテルムにはその辺の事情は分からない。
「……ちっ、役立たずが」
マジックアイテムの効果が切れ、眼球が消滅したことに苛立ちの声を発するアンテルム。
ともあれ、最後の一個が消滅してしまった以上、今はレイの情報を得ることは出来ない。
とはいえ、ヒントはあった。
トレントの森で、レイは狼と遊んでいたのだから。
……実際には色々と違うのだが。
ともあれ、レイが可愛がっている狼だ。
その狼を殺せば、間違いなくレイは頭に血が上って冷静な判断が出来なくなるだろう。
そうなれば、ただでさえ自分が有利なのに、レイに対して更に有利になる。
……勿論、アンテルムもレイが強いというのは理解していた。していたが、それでも自分の方が上だという確固たる自信があった。
ただし、レイという存在の本当の強さを見たことがなく、貴族街で会った時の印象からのものだったが。
それでも、実際にアンテルムは今までそのようなやり方で上手くいっていたこともあり、今回もまた大丈夫だと、そう判断していた。
「腹が減ったな。何か食べるか」
呟き、部屋の中を漁る。
真夏の気温のせいだろう。隣の部屋からは、濃厚な鉄錆臭が漂ってくる。
それに気が付き、アンテルムは軽く眉を顰め不機嫌になった。
この家は、ギルムの中でも一般的な家と言ってもいい。
何故この家を潜伏場所に選んだのかと言えば、そうした方がいいと勘で判断した為だ。
冒険者として数々の修羅場を潜り抜けてきたアンテルムだけに、この手の勘は非常に鋭い。
その勘が、ここなら安心だと判断したので、この家を潜伏場所に選んだのだ。
だが……この家の住人としては当然のことに、そしてアンテルムにしてみれば貴族の自分に逆らうなどといった真似をした相手を強制的に……そして永遠に黙らせたのだが、そのこの暑さでは臭いも当然籠もる。
それだけに、この家の中にはかなりの悪臭が漂っていた。
アンテルムはそれを面白く思わなかったが、それでも今は外に出ない方がいいと判断して、こうして建物の中にいる。
「ふん、不味いな」
台所にあったパンを食べるが、当然ながらそのパンは前日のパンで硬くなっている。
この真夏なので悪くなっている可能性もあったのだが、アンテルムはその辺を全く気にしないで食べていた。
本来なら、硬くなったパンはスープに浸して食べたりといったような真似をするのだが、アンテルムはそれを知らなかったのか、それとも面倒だったのか、パンを噛み千切る。
豪勢な食事に慣れているアンテルムだけに、パンだけ……それも焼きたてでも何でもない、それどころか硬くなっているパンは、とてもではないが食えたものではない。
それでも無理にでも食べたのは、冒険者として食べられる時に食べておいた方がいいと思った為か。
「さて、出来ればそろそろこのような場所からも出たいのだが……今はまだ不味いか?」
呟くアンテルムだったが、その声に答える者は誰もいない。
自分に話し掛け、それに自分で答えることによって考えを纏めているのだろう。
「まず、あの狼を殺してしまえば、レイを動揺させたり怒らせたりすることは出来る筈だ。そうなれば、俺なら勝てる」
家の中には、そのような独り言の声が響くのだった。
「それで? アンテルムだったか。そいつはまだ見つからないのか?」
ダスカーのその言葉に、顔中に傷のある男は申し訳なさそうに頭を下げる。
「すいません、まだ見つけることは出来ていません。腐ってもランクA冒険者といったところですか。うちの連中も必死になって捜してるんですが」
男の名前は、エッグ。
かつては草原の狼という盗賊団を率いていたのだが、現在はレイのスカウトによってダスカーに仕えていた。
勿論、そのような経歴である以上は、表立った役職ではない。
ギルムの諜報部といったところか。
後ろ暗いことを行う者達だ。
そんなエッグ達が、ギルムに来てダスカーに仕えるようになって数年。
このギルムについても、大抵の場所は自分達の庭のように精通している。
にも関わらず、アンテルムという人物を見つけることは出来ない。
アンテルムは貴族の生まれだけあって、整った顔立ちをしているので、目立つ。
また、本人の性格的にも目立ちやすいのだが、それでも一向にアンテルムの姿を見つけることは出来なかった。
「可能性の中で一番高いのは、やはりスラム街でしょうか」
「しかし、貴族らしい気位の高さを持っていると聞いてるぞ? そんなアンテルムが、スラム街に行くか?」
貴族らしい貴族といった性格のアンテルムだけに、スラム街のような場所に行くとは、ダスカーは到底思えなかった。
いや、ダスカーだけではなく、エッグもまた同様だ。
アンテルムと直接会った訳ではないが、それでも聞いている情報から考えると、とてもではないがスラム街に行くような人物には思えないのだ。
「だとすると……どこかの建物に潜んでいるという可能性がありますね。ギルムにも人が多い。中には金を貰えば犯罪者を匿うといった者もいるでしょう」
「厄介だな」
苦々しげにダスカーが呟く。
自分の治めているギルムだったが、全員が善人である……などという妄想をダスカーは抱いていない。
エッグが言った通り、金額によっては犯罪者であっても匿う者はいるだろう。
そうである以上、それこそどこを捜せばいいのかというのは、非常に難しい。
まさか、建物全てを調べる訳にもいかないのだから。
いや、もしギルムの建物全てを捜したとしても、そのような人物を匿っている場合は、それこそ隠し部屋といったような場所に匿っている可能性もある。
そのような場所まで全て調べるのは、それこそ常識的な話ではない。
「どうします? 正直なところ、アンテルムの件もそうですが、それ以外にも仕事は多いので、そちらに割ける人手も限られるんですが」
現在はアンテルムの件が最重要ではあるのだが、ギルムには他にも何かを企んで入り込んでいる者や、他の貴族や他国から送られてきたスパイの対処もある。
アンテルムの件も重要だが、そちらもまた重要なのだ。
そうである以上、今の状況においてエッグ達の全てをアンテルムの捜索に向けるといったような真似は出来ない。
……だからといって、ランクA冒険者の犯罪者をそのままにしておくというのも難しい訳だが。
「兵士達もそっちに幾らか回してるんですよね?」
「当然だ、だが、兵士達の仕事もお前達に負けないくらいに多い」
ダスカーが大きく息を吐く。
実際、兵士達の仕事は非常に多く、兵士達だけでギルムの治安を守るといったことが出来ない為に、ヴィヘラ達のような冒険者を雇って街中の見回りはそちらに任せているのだ。
その辺の事情を思えば、兵士達に無理をさせる訳にはいかない。
「それはそうなんですがね。……いっそ、レイに頼んでは? レイならセトの嗅覚とかそういうので、何とかなるのでは?」
「そう言われてもな。レイにはレイで仕事を任せているし」
「けど、アンテルムとやらが昨日揉めたのはレイなんですよね?」
「そうだ。……とはいえ、別にレイがアンテルムに絡んだ訳ではない。アンテルムが、セトを欲して絡んだらしい」
「それは、また……」
自殺行為を。
そう言いたげなエッグ。
エッグも、セトを欲するという気持ちは理解出来る。
何しろ、セトはランクAモンスターのグリフォンなのだから。
それもただのグリフォンではなく、幾つものスキルを使いこなす希少種……つまり、ランクS相当のモンスターだ。
連れているだけで、大きな顔を出来る。
それは事実であり、それ以外も素材として大きな意味を持つ。
自然に抜けた羽根や切った爪であっても、錬金術師にしてみれば非常に大きな意味を持つ。
もしアンテルムのような存在がセトを入手すれば、一体セトがどんな扱いになるのか。
セトのことを知っているエッグとしては、そんな風に思えてしまう。
「とにかく、アンテルムのようなランクA冒険者が潜んでいるというのは、非常に危険だ」
「でしょうね」
エッグもダスカーの言いたいことは分かる。
これが、それこそランクD程度の冒険者の仕業であれば、ダスカーもここまで必死になるようなことはしなかっただろう。
だが、アンテルムはランクAなのだ。
その実力はギルム全体で見ても上位に位置する。
あくまでも上位であって、頂点ではないのは救いだが。
そして、アンテルムのようなランクA冒険者に対処出来る人物となると、それこそ本当に限られていた。
「そうだな。ギルドに連絡して、異名持ちをアンテルムの討伐に回すようにした方がいいか」
「……いいんですか? ランクA冒険者と異名持ちが戦うといったことになれば、ギルムにも大きな被害が出る可能性がありますが」
この場合の被害というのは、建物の被害だけではない。
それこそ、ギルムにいる者の命も含めての被害だ。
元々ランクAや異名持ちといった存在は、一般的な冒険者と比べても人外の域にいる。
そのような人物が街中で暴れるようなことになったら、どうなるか。それは考えるまでもないだろう。
ましてや、エッグやダスカーにとって身近な異名持ちというのは、広域破壊魔法を得意としているレイなのだから、尚更だろう。
「そうなるかもしれんが、今はアンテルムを放置しておく方が危険だ。……とはいえ、出来ればそこまで派手な戦闘をしないような者に頼みたいがな」
「そうですね。……問題なのは、異名持ちの手が空いてるかどうかですが」
異名持ちともなれば、当然だがその認知度は高い。
そうである以上、そのようなことになれば当然だが多くの指名依頼をされるということにもなりやすかった。
だからこそ、今の状況で手の空いている者がいるかどうかと、エッグは心配しているのだろうが。
「その辺はギルドに話を通す必要があるな。もし依頼を受けてもまだギルムにいるのなら、悪いがこちらを受けて貰う必要がある」
本来なら、ダスカーは権力を振りかざすようなやり方は好まない。
だが、好まないからといって、それを使わないという訳ではなかった。
それが必要であるのなら、躊躇しない。
それこそが領主としての務めであり……もしここで躊躇うようなことがあれば、ギルムの住人に多くの被害が出てしまうことは確実だった。
だからこそ、ダスカーはこの件でギルドからの印象が悪くなるというのを理解しつつも、急いでそのような行動に出るように手紙を書き、エッグ……ではなく、腹心の部下を呼び出すとギルドに向かうように告げるのだった。