2468話
「そう、結局昨日は来なかったのね」
マリーナは模擬戦を終えたレイとヴィヘラに精霊魔法で冷やした水を渡しながら、昨日の一件を聞いていた。
「ああ。とはいえ、セトが反応したということは……」
「そうね。この家の近くまで来たのは間違いないんでしょうね。アンテルムが一体何を考えて家の前まで来たのかは分からないけど」
「狙いはセトでしょう?」
昨日の話から、それ以外にはないだろうと告げるヴィヘラに、マリーナは同意するように頷く。
「そうね。でも、レイや……それに私達もいる以上、そう簡単にセトをどうにか出来る筈はないわ。実際、向こうもそれを理解したからこそ家の敷地内には入らずに立ち去ったんでしょうし」
「……残念ね。ランクA冒険者が来たのなら、私もちょっと戦ってみたかったんだけど」
戦闘を好むヴィヘラにしてみれば、アンテルムとは是非戦ってみたかったのだろう。
その性格はともかく、戦闘能力という点では間違いなく一級品なのだから。
それだけに、本当に心の底から残念そうな様子を見せていた。
「あのな、俺と模擬戦をやった上で、まだ足りないのか?」
「模擬戦はあくまで模擬戦でしょ? セトを狙っているレイの敵なら、それこそ手加減をする必要もないままで戦えるんだもの。そんな絶好の相手を私が見逃すとでも? ……いえ、実際に昨夜は見逃したんだけど」
少しだけ不本意そうなヴィヘラ。
ヴィヘラは戦闘力に関しては非常に高いが、探索能力といった点においてはそこまででもない。
いや、それでも一般人に比べればかなり鋭い五感を持っているのだが。
今回は相手がランクA冒険者のアンテルムだったこともあり、家の中からその存在を察知することは出来なかったのだろう。
外にいたレイも、アンテルムの存在を察知することは出来なかった。
出来たのは、レイと一緒にいたセトだったのだから。
(そういう意味だと、アンテルムはやっぱり隠密行動する能力も高いって事か。……そういうのを好むようには思えなかったんだけどな)
レイが知っているアンテルムの性格からすると、そのようなことは決して好まない筈だった。
自分には相応しくないと言って。
……普通に考えれば、そのような拘りがあるような冒険者は長生き出来ない。
だが、アンテルムは実際にそのような性格であっても、ランクAまで昇格してきた。
それはつまり、そのような性格であってもどうにか出来るだけの実力を持っていたということなのだろう。
「とにかく、今夜からはその辺を気にする必要もなくなるから、楽になるけどな。……だよな?」
「んー……うるさい……もう少し静かに……」
レイの言葉に頭を押さえながらテーブルの上で寝転がっているのは、ニールセンだ。
レイの声が頭に響いたのだろう。
先程までレイとヴィヘラが行っていた模擬戦においても、響く物音に頭を押さえていたのだが……その理由は、レイが昨日忠告した二日酔いだった。
ニールセンにしてみれば、まさか自分がこんな目に遭うとは思ってもいなかったのだろう。
レイは、一体ニールセンがどのくらいの酒を飲んだのかが若干気になったが、それを聞くのは何となく不味いような気がして、止めておく。
「だから二日酔いになるくらいに呑むなって言ったのにな」
それでも、こうしてからかうように言うのは止めなかったが。
「だーまーれー」
呻き声に近い声でそう言うニールセン。
ニールセンにしてみれば、今の自分の状況は決して面白くはないのだろう。
だが、それでも何も言えないのは……やはり二日酔いの苦しみに耐えている為か。
「その苦しみは自分で招いた結果だろ。それで、マジックアイテムの件は問題ないんだな?」
「問題ないわよ、だからもう少しお願いー」
「……マリーナ、こいつは家の中に置いてきた方がよかったんじゃないか? ここに連れて来ても、それこそうるさいだけで二日酔いには厳しいだろうし」
「私もそう思ったんだけど、本人が一緒に行くって言うんだもの。しょうがないじゃない」
何でだ?
そんな疑問がレイの中にはあり、ニールセンに視線を向ける。
だが、ニールセンはそんなレイの視線に気が付かないまま、未だに二日酔いに苦しんでいた。
(これは聞いても意味はないか。ともあれ、このままだと午前中にトレントの森に行っても色々と不味いだろうし、ある程度二日酔いが収まるまでは待っている必要があるな。……伐採した木を持ってくる必要があるから、そうなるとニールセンはここに残して行くか、ドラゴンローブの中か)
そう考え、すぐに首を横に振る。
二日酔いになったニールセンをドラゴンローブの中に入れて移動していれば、下手をしたらニールセンが二日酔いの気持ち悪さから吐く可能性もある。
レイとしては、絶対にそのようなことはされたくない。
「マリーナ、一応聞くけど……回復魔法で二日酔いをどうにか出来ないか?」
「無理ね」
レイの言葉にあっさりとそう告げるマリーナ。
そんなマリーナの言葉を聞いたレイだったが、そこまでがっかりした様子はない。
以前何かで、魔法やポーションの類でも二日酔いを治すことは出来ないと、そう聞いた覚えがあったからだろう。
勿論、本当の意味で貴重な……それこそ世界に一つしか存在しないようなポーションとかであれば、二日酔いも治療出来るのかもしれない。
だが、そのような物は当然レイも持っていないし、もし持っていたとしてもそんな物を二日酔いの治療に使うのかと言われれば、当然だがその答えは否だった。
そんな訳で、レイはこうしてニールセンが二日酔いに苦しめられるのを眺めているしかなかった。
「じゃあ、行ってくるわね」
そう言い、マリーナは診療所に向かう。
既にヴィヘラとビューネも見回りの為にここを出ていた。
ヴィヘラはここに残ればアンテルムと戦えるかもしれないと、そう思っていたのだが……それでも仕事がある以上はここに残ることも出来ず、素直にギルドに向かったのだ。
「さて、結局残ったのは昨日と同じ面子か」
レイ、エレーナ、アーラ、ニールセン、セト、イエロ。
昨日レイが帰ってきた時と全く同じ面子だ。
もっとも、昨日は元気にイエロやセトと遊んでいたニールセンは、未だに二日酔いに苦しめられていたが。
「私はこの後、何人かと会う予定があるが……レイはどうするのだ?」
何らかの書類を読みながら尋ねるエレーナに、レイは中庭で遊んでいるセトとイエロを眺めつつ、口を開く。
「取りあえずニールセンの二日酔いがもう少しよくなったら、トレントの森に行く予定だ。マジックアイテムを持ってくる必要があるしな」
「ふむ、アンテルム……か。こう言ってはなんだが、私がここにいるのは知られている。にも関わらず、アンテルムが来ると思うか?」
エレーナは姫将軍の異名を持ち、貴族派を率いるケレベル公爵の一人娘だ。
そんな人物がいる家に侵入しようとした場合、それはアンテルムにとっても……そしてアンテルムを雇っているゾルゲラ伯爵家、そして国王派にとっても大きなダメージとなるだろう。
その辺の事情を普通に考えれば、まず来ることはないと思ってもいい。
ただし……問題なのは、それはあくまでもアンテルムが一般的な常識を持っていればの話だった。
ランクAまで昇格するだけの強さを持ち、それでいながら精神的には典型的な貴族のそれ。
普通に考えれば、そのような相手が派閥についてといったことをしっかり考えるとは思えない。
「普通なら来ないだろうけど、俺が会ったアンテルムなら、来る可能性が高いな。……厄介なことに」
そうして話していると、やがて多少は落ち着いてきたのだろう。ニールセンがテーブルの上で上半身を起こして、口を開く。
「レイ、そろそろ行こう」
「もういいのか?」
「いいのかどうかと言われれば、とてもいいとは言えないんだけど……それでも、今の状況を聞いてる限りだと、ゆっくりしていることは出来ないみたいだし」
「悪いな」
「いいわよ。森の中で休めば、今の状況も少しはよくなるでしょうし」
本気でそのように言ってるのか、それとも無理をしているのか。
それはレイも分からなかったが、とにかくニールセンがそう言うのであればと、納得する。
「分かった。じゃあ、そうするよ。……エレーナ、そういう訳で俺はトレントの森に行ってくる」
「うむ。……レイのことだから大丈夫だとは思うが、アンテルムには気をつけてくれ」
「任せろ。向こうが一体何をしてくるかは分からないが、もしそうなったらこっちも相応の対処をする」
アンテルムがセトを奪おうと考え、襲ってくる可能性は……低いが、皆無とは言えない。
実際、昨夜も何者かマリーナの家の側まで来たのを、セトが感じ取っていたのだから。
そうである以上、もし襲ってきたとしても……レイはそれの対処に容赦をするつもりはない。
向こうがランクA冒険者である以上、手加減をする余裕がないのだから。
「ふふっ、その辺りについては、私も心配していないよ。レイならきっとアンテルムが襲ってきても対処出来ると信じている。……そうなると、可哀想なのは向こうだが」
「いや、襲ってくる相手を可哀想というのは……正直、どうなんだ?」
レイにしてみれば、相手が襲ってくる以上は当然撃退された時のことは当然考えているだろうと思えるし、今の状況でそのような真似をする相手である以上、間違いなく倒すべき相手という認識だ。
「エレーナ様も、こう見えてレイ殿のことをしっかりと心配してるのですよ」
そう告げるアーラの言葉に、若干本当か? という思いも抱きつつも、レイはトレントの森に向かう準備を進めるのだった。
「グルルゥ」
貴族街を進んでいる最中……レイは、どこかいつもとは違う空気を感じていた。
それはレイだけではなくセトも同様だったらしく、周囲を警戒するように喉を鳴らしている。
「ねぇ、どうしたの? 何か様子が変だけど」
ドラゴンローブの中で二日酔いに苦しんでいたニールセンだったが、そんなニールセンであっても周囲の雰囲気がおかしいことには気が付いたのだろう。
あるいは、妖精特有の第六感といったもので察したのかもしれないが。
「分からない。ただ、多分何かあったのは間違いないだろうな。そんな訳で、これからちょっと他の冒険者から情報収集をする。ニールセンは絶対に喋ったりはするなよ」
そんなレイの言葉に不満そうな様子を見せたニールセンだったが、それでもすぐに不満を消す。
元々二日酔いで体調が悪いのだ。
何も言わずにじっとしていればいいと言うのであれば、それは寧ろニールセンにとって望むべきことだったのだから。
「分かったわ。じゃあ、何か分かったら教えてね。私はここで眠ってるから」
そう言い、二日酔いを忘れる為に眠りにつく。
まだ朝だというのに、夏らしく既に気温は三十度を超えている。
レイやニールセンはドラゴンローブの持つ簡易エアコンのおかげで、その辺を気にしなくてもよかったが。
(この雰囲気は、この暑さも関係してる……いや、暑いは今までも同じだったしな。だとすれば、このくらいの気温でこんな雰囲気になるとは思えない。だとすれば、何だ?)
そんな疑問を抱いていると、見覚えのある冒険者が道の向こうからやって来る。
直接話したことはなかったが、ギルドで何度か見た顔だ。
「ちょっといいか?」
「あ、ああ。この雰囲気だろ?」
向こうの冒険者も、貴族街で働くことを許されているだけに勘はいい。
レイの様子から、何を聞きたいのかを理解し、そう先回りするように言う。
「そうだ。一体何があった? この雰囲気からすると、よっぽどのことだろ?」
「そうだな、よっぽどのことだ。……貴族街にあるゾルゲラ伯爵家の屋敷で、そこで雇われていた冒険者も、住んでいた貴族も、メイドや執事といった者達も、全員が殺されていた」
「……何?」
レイが驚いたのは、事件そのものに関してもだったが、ゾルゲラ伯爵家という名前に聞き覚えがあった為だ。
「ゾルゲラ伯爵家?」
「ああ。……誰がやったのかは分からないが、惨いことをする」
「全滅って……じゃあ、何でそれが分かったんだ?」
「その館に住んでいた人物と約束のあった者が訪ねていって、発覚したらしい。かなり酷い有様だったらしい」
「なるほど。情報助かった」
「いや、気にするな。それより、これはかなり大きな騒動になるぞ。レイも気をつけておいた方がいい。場合によっては、貴族街から出られなくなるかもしれないし」
そう言い、男は去っていく。
(ゾルゲラ伯爵家の全員が殺された? アンテルムがやったのか? それとも全員ってことはアンテルムも殺されたのか……何にしろ、情報が足りないな。しょうがない、ちょっと様子を見に行くか)
そう判断し、レイはセトと共にゾルゲラ伯爵家に向かうのだった。