2466話
マリーナとの交渉を終えたニールセンは、再びテーブルの上に倒れ込んでいた。
そこまで激しい交渉をした訳ではなかったのだが、最初にマリーナと会った時の件がまだ糸を引いているのか、マリーナに対して苦手意識のようなものがあるのだろう。
それ以外にも、マリーナが世界樹の巫女であるというのも関係しているのかもしれないが。
「マリーナ……怖い……」
ニールセンはテーブルの上で寝転がりながら、そう呟く。
特に誰かに聞かせる為に言ったものではなく、あくまでも自然と口から出た言葉だったのだが……
「あら、心外ね」
「っ!?」
不意に返ってきた言葉に、ニールセンの身体が固まる。
当然だろう、怖いと言った相手にその言葉が聞かれたのだから。
ギギギ、とそんな音が聞こえるような様子で顔を上げるニールセン。
顔を上げた先に存在したのは、やはりと言うべきか当然と言うべきか、マリーナの姿。
「あ……その……」
そんなマリーナに対し、何かを言おうとするニールセン。
それでも何も言えないのは、今の言葉で説教をされると思ったからか。
だが……そんな様子に構わず、マリーナはニールセンの前に皿を置く。
瞬間、周囲に漂う奥深い香り。
それは、パンの上に肉や野菜、そしてチーズを載せて釜で焼いた料理。
ピザではなくピザパンと言うべき料理だ。……トマトの類は使われてないので、正確にはそれをピザパンと呼んでもいいのかどうか、傍で見ているレイには分からなかったが。
「食べていいわよ。これはニールセンとの交渉が纏まったお礼の料理だし。ただ、焼きたてで熱いから気をつけてね」
「え? その……いいの……?」
「ええ。マジックアイテムの件もあるし。勿論、これとは別にきちんと約束した報酬は支払うから安心してね」
ニールセン曰く、そこまで高性能な物ではないとのことだったが、それでも妖精の作ったマジックアイテムだ。
もし買うとすれば、それこそ一体どのくらいの値段がするか。
だが……ニールセンはマリーナという強敵を相手にして、かなりの安値で売ることになってしまう。
勿論、それでもかなりの金額ではあったのだが。
普段であれば、マリーナもここまで強引な真似は行わない。
だが、今回は家の安全が……つまり、この家に泊まっている全ての者の安全が関係してくる以上、迂闊な真似はとてもではないが出来ない。
……妖精の悪戯の件に思うところがあったのは間違いないが。
「うわっ、うわっ、凄い。伸びる伸びる伸びる!」
数秒前までの、マリーナを前にした時の恐怖は既にニールセンからは完全に消えていた。
ニールセンの頭の中に今あるのは、目の前にあるピザトーストのみだ。……レイがそれをピザトーストと認めるかどうかは、また別として。
ニールセンはチーズの伸びる様子に驚きつつも、ピザトーストに齧りつく。
焼きたてのピザトーストである以上、その熱さはかなりのものの筈だ。
だが、ニールセンはそんな熱さなどものともしないかのように、ピザトーストを食べていた。
(見事なまでの飴と鞭だな。警察とかではそういうのがあるって漫画とかで見たことがあったけど……それも鞭役、飴役の二人がいるのが普通だった筈だ。それを一人でやる辺り、さすがマリーナといったところか)
目の前の光景を見て、しみじみと感心するレイ。
そんなレイの視線を感じたのか、マリーナはニールセンを見ていた視線をレイに移し、艶然と微笑む。
ただし、同じ笑みでもそれはニールセンに向けていた、無言のプレッシャーを放つような笑みではなく、強烈な女の艶を感じさせる笑みだ。
慣れていない者であれば、一瞬にして何も考えられなくなり、ふらふらとマリーナに近寄ってもおかしくないような、そんな女の艶を感じさせる笑み。
レイも一瞬そんなマリーナの笑みに目を奪われたが、幸い――ある意味不幸なことでもあるが――マリーナの笑みに対する耐性が出来ていた。
「どうしたの?」
「いや、何でもない。取りあえず明日にはトレントの森に行ってマジックアイテムを受け取るから、今日だけ注意しておけばいいと思ってな」
だからこそ、マリーナの言葉にそう返すことが出来たのだろう。
「そうね。今日一日くらいなら、何とかなるでしょうし。……ただ、もし来るとしたら、実は今日の可能性が高いのよね」
「そうなのか?」
「ええ。今日揉めたでしょ? その苛立ちというか、熱が残っているままに行動する可能性が高いでしょうし。出来れば何かでその熱を発散させてくれれば、今日は来ないかもしれないけど」
そう告げるマリーナだったが、まさかアンテルムを雇っているゾルゲラ伯爵家において虐殺が起きたとは、想像もしていなかった。
通いで働いている者がいれば、帰ってくるのが遅いということでこの一件に気が付く者もいたのかもしれないが、ゾルゲラ伯爵家では基本的に住み込みで働いているので、そこで気になる者はいない。
「なら、そうだな。今日俺はセトと一緒に中庭で眠るよ。そうすれば、何かあってもすぐに反応出来るだろうし」
せっかく家にいるのに、ベッドで寝るのではなく中庭で眠るというレイ。
とはいえ、レイが着ているドラゴンローブは簡易エアコンの機能がついているし、それがなくてもマリーナの家の敷地内は精霊の力によって快適にすごせる。
夏だというのに、小さな虫もいないのはレイにとっては非常に嬉しかった。
……日本にいた時、レイの家は山のすぐ近くにあったこともあり、夏になればどこからともなく虫が入ってくるのだ。
網戸にしていても、どこからか入ってくる虫は非常に厄介な存在だった。
また、蚊の類がいないのもレイにとっては助かる。
そういう意味で、かなり快適な空間なだけに中庭で眠っても全く何の問題もなかった。
「そう? まぁ、そうしてくれると私も助かるけど。……エレーナ達はそれでも問題ない?」
レイの提案に他の面々にも尋ねるマリーナだったが、その言葉に反対する者はいない。
今の状況を思えば、そうしてくれた方が安心出来ると、そう判断したのだろう。
「じゃあ、誰も問題ないみたいだからお願いね」
「ああ」
「ちょっと待って! 何? 一体何があったの!?」
夢中になってピザトーストを食べていたニールセンだったが、レイ達の会話が多少なりとも聞こえたのか、慌てたようにそう言う。
ニールセンにしてみれば、この家に泊まりに来てみれば実は世界樹の巫女のマリーナがいて、そのマリーナと色々とあり……それが終わったと安心して食事をしていれば、聞こえてきたのが厄介そうな話だ。
当然のように、その話が気になってしまう。
(ああ、そう言えばアンテルムと揉めた時、ニールセンは眠ってたしな)
そもそも、セトを寄越せと言われた場合、普通ならレイはその場でアンテルムを潰している。
それこそ、相手がランクAであっても何の躊躇することもなく。
今日に限ってそのようなことをしなかったのは、ドラゴンローブの中でニールセンが眠っていたからだ。
だが、そのニールセンは眠っていたのだから、そのことに気が付く筈もなかった。
その後、ここで色々と事情を説明した時も、ニールセンはテーブルの上で倒れ込んでいた為に、話が聞こえていなかったのだろう。
その辺の事情を考えれば、話が聞こえていなくてもおかしくはなかった。
「そうだな。その辺も話しておくか。ニールセンにとっても他人事じゃないだろうし」
「え? ちょっと、私にとっても他人事じゃないって、何それ? 何でそんなことになってるの?」
「何でって言ってもな。アンテルムとの一件が起きた時、お前は寝てたからだろ?」
「寝てた? ……あ、あの時!?」
自分がレイのドラゴンローブの中で眠っていた時のことだと理解したのか、ニールセンは大きな声を出す。
ニールセンにしてみれば、この一件は完全に予想外だったのだろう。
……とはいえ、レイとしてはだからどうしたといった思いの方が強いのだが。
「そうなるな。そんな訳で一応事情を話しておくと……」
そう告げ、レイはアンテルムの一件を話す。
その狙いが自分ではなくセトだと知り、少しだけ安心した様子を見せるニールセンだったが、それでもすぐに真剣な表情になった。
(にしても、マジックアイテムがあるって言った時にアンテルムの話を聞いていたかと思ってたけど……アンテルムについては聞いてなくて、マジックアイテムの話だけを聞いてたのか?)
そんな疑問を抱くレイだったが、ともあれ妖精のニールセンにとってアンテルムが危険な存在なのは間違いない。
セトを欲している以上、ニールセンのことを見つければ、当然そちらにも興味を抱くだろう。
あるいは、グリフォンを欲しているが妖精はどうでもいいといったようなことを考える可能性もあるが……どちらに賭けるかと言われれば、レイは即座に妖精に興味を持つといった方に賭けるだろう。
「ちょっと、そんな危険な相手……大丈夫でしょうね? 一応トレントの森で私達が住んでいる場所にはその辺の対応がしっかりされてるけど……だからって、安全って訳じゃないのよ?」
「そうなると……ダスカー様が交渉している中で俺が言うのもなんだけど、いっそトレントの森から出ていったらどうだ? トレントの森にいるから、ギルムの冒険者……アンテルムのような奴に目を付けられるかもしれない訳で、それなら別にトレントの森に拘る必要はないだろ?」
「それはそうなんだけど……無理を言わないでよね」
「無理?」
今の自分の言葉のどこに無理があったのか。
そんな疑問を抱くレイだったが、恐らくそれが妖精に関わる何かだろうというのは容易に予想出来たので、もしここで自分が聞いても恐らく向こうは話さないだろうと判断する。
(考えられる可能性としては、何らかの理由で妖精の長がトレントの森から動けないとか? 交渉で自分が全く出て来ないで、全てをニールセンに任せているって時点でおかしいし)
ニールセンは、確かに妖精の中でも落ち着いた性格をしているのだろう。
それだけではなく、妖精にしては高い知性も持っている。……実際に今までレイが遭遇した妖精の多くは、知恵はあっても知性はないといったような者が多かったから、余計にそう思うのかもしれないが。
特に大きかったのは、やはりセレムース平原であった妖精達だろう。
あの一件で、レイの中にある妖精のイメージが半ば固まってしまったのは間違いのない事実なのだから。
「ともあれ、アンテルムの件については……ギルドの方に訴えればどうにかなるか?」
「難しいでしょうね。ギルドを通しての依頼なら、ギルドに話を通すといったことも出来るでしょうけど、今回はギルドを通していない指名依頼でしょう? そうなると、余程のことがない限り難しいと思うわ」
実際には、既にその余程のことが起こっているのだが、当然マリーナはその件について何も知らない。
「そうなると……ダスカー様は無理か?」
「そっちはもっと無理でしょうね。ギルムを拠点にしている冒険者なら、まだそれなりに何とかなるかもしれないけど。……ましてや、レイから聞いた話によると極端なまでに貴族重視の人なんでしょう?」
「そうだな。貴族じゃなきゃ人間じゃないって雰囲気があった」
「そういうのって、国王派よりも貴族派に多そうだけど……」
レイとマリーナの会話を聞いていたヴィヘラがそう告げると、エレーナとアーラが気まずそうな様子を見せる。
本来なら、貴族派にそのような人物はいないと言いたいところだが、実際にはその手の者はかなりの人数貴族派にいるのは事実だ。
……そもそも、エレーナがギルムにいるのもそのような貴族が増築工事の妨害をするからという理由なのだから、ヴィヘラの言葉に反論出来ない。
「まぁ、貴族派の件はその辺にしておくとして、とにかくそういう性格である以上、中立派のダスカーに対しては、敵意を抱いても尊敬を抱いたりといったことはないと思うわ」
マリーナの言葉は、強い説得力を持っていた。
実際に今の状況を思えば、アンテルムがダスカーと話した場合、最悪のパターンとしてダスカーを殺すといったような真似をしても不思議ではない。
少なくても、レイはアンテルムという男を見た時、そのような危険性を感じていた。
「そうなると、やっぱりこっちで何とかするしかないか」
そう言いながらもレイの言葉に悲壮感がないのは、アンテルムという男を見て、自分の実力であれば勝てるという確信があったからだろう。
それ以外にも、エレーナ、マリーナ、ヴィヘラといった仲間もランクA冒険者とやり合うには十分な実力を持つ。
アーラとビューネは、そこまでにはまだ及んでいなかったが。
そんな風に思いながら、レイは会話を続け……食事の準備が整うと、マリーナの料理を楽しむのだった。