2456話
狼に案内されたレイが到着したのは、予想通りの場所だった。
見覚えのあるその場所は、昨日レイがエレーナ達と共に来た場所……つまり、妖精の住処の近く。
正確にはここから妖精の住処まで実際にどれだけ離れているのかは分からないが、それでも昨日ここに荷物を置いた時のことを思えば、恐らくそう遠くないだろうというのは予想出来る。
「ガウ」
ここに来るまでの鳴き声とは違い、犬よりは狼っぽくなった鳴き声を聞きながら、レイはミスティリングの中から昨日と同じく猪の肉の塊を取り出す。
狼数匹分の腹を満たしてくれるだろうその肉の塊を、案内料代わりに狼に放り投げる。
肉が欲しくて道案内をしたのかどうかは分からなかったが、狼と一緒に行動している間は妖精に悪戯されるようなこともなかったというのは、レイにとって非常に幸運だった。
それが狼のお陰なのか、それとも偶然そのような形になっただけだったのかは分からないが、レイにとって助かったのは間違いなかった以上、狼に感謝の気持ちとして肉を与えるくらいは問題なかった。
「ワン!」
狼は感謝の鳴き声を上げてから、肉を咥えて去っていく。
このまま自分だけで猪の肉を食べるのか、それとも仲間と一緒に食べるのか、それはレイにも分からない。
だがそれでも、またここに来た時に道案内をしてくれて、そして妖精の悪戯から守ってくれるのなら、また肉を報酬代わりに渡してもいいかと、そう納得する。
「ニールセン、いるか? ニールセン!」
セトの背から降りてそう叫ぶレイだったが、ニールセンが姿を現す様子はない。
数分程呼び続けてみるのだが、それでも一行に姿を現すことはない。
レイとしては、出来れば早いところ出て来て欲しかったのだが。
「もしかして、声が聞こえてないのか?」
「グルゥ……グルルルルルルゥ?」
レイの言葉を聞いたセトは、このまま奥に進む? と喉を鳴らして尋ねる。
そんなセトの様子に、レイはどうするべきか少し迷う。
ニールセンが出て来ない以上、森の奥に進みたいと思うのは当然だろう。
だが、現在妖精達とは交渉中なのだ。
悪戯の件もそうだが、このトレントの森に住み続けるか否かというのをしっかり決める為の。
そんな状況の中で、昨日ニールセンがここまでしか連れてこなかった場所を勝手に奥に行ってもいいものか。
(それに……気配は多分あるんだよな)
ニールセンは出て来ないが、周囲に妖精の気配があるような……そしてないような。そんな奇妙な感覚がレイにはあった。
普段ならもっと明確に相手の気配を察することが出来るレイなのだが、それがこのような状況にあるのは……恐らく、妖精が何らかの魔法かスキルでその辺りを誤魔化しているのだろうというのは容易に予想出来る。
(いや、結界で気配を分かりにくくしているとかか?)
昨日の結界を思えば、そのような真似が出来てもおかしくはない。
何故そのような結界が張られているのかと言えば、当然だがそれは昨日レイがここまで来たことと無関係ではないだろう。
「ニールセン、出て来ないとそっちに乗り込むぞ! それでもいいのか!」
「待って待って待って待って!」
再度のレイの叫びに、不意にトレントの森の奥からそんな声が聞こえ、ニールセンが姿を現す。
そんなニールセンに向かって、遅いじゃないかと不満を口にしようとしたレイだったが……
「大丈夫か?」
不満の代わりに口から出たのは、そんな心配の言葉だった。
当然だろう。こうして見る限りでは、ニールセンは疲れ切っている。
今はまだ午前中なのに、徹夜で仕事をした翌日……といったような印象すら受けてしまう。
「大丈夫なんだけど……その、ちょっと疲れた」
「やっぱり疲れたのか。それで、何だってそんなことになったんだ?」
疲れ切っている今のニールセンを見て、レイも不満を言うような真似は出来ない。
ただし、何故こうもニールセンが疲れているのかといったことに疑問を抱くのは事実だが。
「昨日、色々と買い物をしてきたでしょ? あれが皆に人気でね。奪い合いになったのよ。……私の拳を回避して、反撃を食らうとは思わなかったわ」
「……そうか」
レイとしては、そう答えることしか出来ない。
妖精というのは、魔法を得意とする種族というのがレイの認識だったが。
だが、こうして話を聞く限りではニールセンは格闘もこなすといったようにすら見える。
……その様子は全く想像出来なかったが。
妖精のような小さな者達が生身で戦っている光景を想像し……すぐに首を横に振る。
そんな状況を想像しても、実際の光景とは全く見当外れの想像を思い浮かべそうだったからだ。
「そうよ。でも、焼き菓子はしっかりと確保したから問題ないわ。今日も色々と買ってこようと思うんだけど……」
昨日買ってきた荷物の多くを奪われた為か、ニールセンの買い物に対する情熱は熱い。
そんなニールセンに対し、レイは少しだけ押されるものを感じる。
女の買い物が長いというのは、レイもよく知っている。
正確には日本にいた時のアニメや漫画、小説といった諸々でそのようなネタが多かったから、知っているつもりになっているといった一面が強いだろう。
現在一緒にいるエレーナ達は、基本的に買い物をするといったようなことはない。
あっても、レイが思うように長時間買い物をするといったことは、基本的にない。
また、昨日のニールセンの買い物に関してもエレーナが一緒にいて半ばデート気分だったことも関係しているのか、そこまで気にするようなことはなかった。
そういう意味では、今日は他に誰も――セトはいるが――おらず、自分だけでニールセンの買い物に付き合わなければならないというのが、レイにとっては若干気が進まなかったのだろう。
「買い物もいいけど、その前に少し頼み……というか、提案があるんだが」
「頼み? 何? 昨日は色々と世話になったから、大抵のことは聞いてあげるわよ」
そんなニールセンの言葉に、レイは少しだけ驚く。
まさかニールセンに世話になったといったような認識があったとは、と。
「いいのか?」
「ええ。勿論、無理なら無理って言うけど。……無理なことなの?」
「そうでもない。単純に、今日ダスカー様との話が終わったら、俺の住んでいるところに来て欲しいんだよ」
「え? レイの? 何それ面白そう」
これが普通であれば、見ず知らずの男の家に来て欲しいと言われて警戒をしてもおかしくはない。
だが、今回は相手が妖精のニールセンだった為か、そこまで気にするようなことはなかったらしい。
……もっとも、ニールセンの大きさを考えれば、妙なことを考えたりといったようなことは普通ないのだろうが。
「いいのか? ああ、ちなみに俺の住んでいる場所は仲間の家だから、俺以外にも何人もいるぞ」
もしかしたら自分だけが住んでいる場所だと考えているのではないか。
そんな疑問を抱いてレイがそう言うと、案の定ニールセンは少し迷った様子を見せる。
だが……次の瞬間にニールセンの口から出たのは、レイが予想していたのとはまた別の言葉だった。
「え? レイ以外の人もいるの? そうなると、私はまたレイのその……ドラゴンローブだっけ? その中にいないといけないの? まぁ、快適だからそんなに悪くはないんだけど」
ニールセンの言葉に、レイは少しだけ何と答えればいいのか迷い……やがて、問題はないと首を横に振る。
「俺の仲間達は全員が妖精のことを知ってるから、わざわざ隠れる必要はないぞ。それに、家……というか敷地内は精霊魔法で快適になるように調整されているから、別にドラゴンローブの中に入る必要もないし」
「え? そうなの? 精霊魔法使いなんて珍しいわね。……まぁ、それなら私には何も問題ないわ。それにわざわざ招待してくれるんだから、ご馳走を期待してもいいのよね?」
「家主のマリーナが連れて来いって言ってたんだし、その辺は心配しなくてもいいと思うけど。俺も色々な料理を持ってるし」
ミスティリングに収納されている料理は、異世界の一件でかなり目減りしている。
だが、それでもまだかなりの余裕があるのは間違いなく、ニールセンを満足させるような料理のストックは結構な数があった。
レイの言葉を聞いて、嬉しそうに笑うニールセン。
そんなニールセンを見ていたレイは……何故か不意に麻婆豆腐を思い浮かべる。
(あれ? 何でニールセンを見て麻婆豆腐を思い浮かべるんだ?)
ニールセンは別に麻婆豆腐を思い起こさせるような白や赤といった色をしている訳ではない。
なのに、何故ニールセンを見て麻婆豆腐を思い浮かべたのか……そう考え、多分美味い料理という言葉で不意に麻婆豆腐を思い出したのだろうと納得する。
(麻婆豆腐は好きか嫌いかで言えば好きな料理だけど……心の底から好きって訳でもないんだけど)
そう思ったレイだったが、思い出すと食べたくなる。
……とはいえ、レイは麻婆豆腐の作り方は知らない。
精々が、日本にいる時に夏休みか何かの昼食で麻婆豆腐のソースと豆腐を買ってきて作った程度だ。
それでさえ、買ってきた豆腐が何故か木綿豆腐ではなく絹ごし豆腐で、しかも料理をする時に乱暴にかき混ぜたりしたので、麻婆豆腐というよりは麻婆スープとでも呼ぶべきものになってしまったのだが。
それでもソースは市販のものだったので、美味かったのだが。
もしレイに最初から……それこそ豆腐や麻婆豆腐に使う各種調味料から作れと言われても、とてもではないが作ることが出来ない。
そもそも、豆腐の作り方も知らないのだから。
日本にいた時に、TVで見た時に大豆を潰して豆乳にしていたのを何らかの手段で固めていたといったような、非常にうろ覚えのものだ。
それ以外に調味料の方をどうにかしろと言われれば、こちらは完全にお手上げだ。
精々が麻婆豆腐は辛いので唐辛子を使っているのでは? といった認識でしかない。
「レイ? どうしたのよ?」
「何でもない。……ちなみに、ニールセンは麻婆豆腐って料理を知ってるか?」
「え? 何それ? 知らないけど。美味しいの?」
「美味いんだけど、辛いな」
「何だ、ならいらないや」
辛いと聞いた瞬間、あっさりと言葉を翻すニールセン。
しかし、ニールセンの性格を考えればそれくらいは特におかしなことではないかと判断し、レイはそれ以上突っ込むような真似はしない。
「取りあえず、そっちはもう準備はいいんだよな? 今日はギルムに泊まることになると思うから、トレントの森には戻って来られないと思うけど」
「……ちょっと待ってて。すぐに戻ってくるから。本当にすぐに戻ってくるから」
そう告げ、急いで森の奥に向かうニールセン。
何かを言おうとしたレイだったが、その時は既にその場から見えなくなっていた。
「……速いな」
ニールセンの飛ぶ速度は、レイが予想していたよりもずっと速い。
それはニールセンが交渉役に選ばれるような能力を持っているからこそ今のような速度を出せるのか、それとも急がなければギルムに泊まるといったことが出来なくなると思ったからそうしたのか。
その辺り理由はレイには分からなかったが、レイはセトと共にその場で待つ。
「セト、ニールセン……速かったな」
「グルゥ? グルルルゥ!」
自分の方が速く飛べると、そう主張するセト。
実際、それは決して間違っている訳ではなく、セトはニールセンよりも速い。
「分かってるって。セトならもっと速く飛ぶことも出来る」
レイが断言したことで満足したのか、セトは嬉しそうに喉を鳴らす。
そんなセトを撫でながらニールセンを待ち……
「お待たせ!」
十分もしないうちに、ニールセンが戻ってくる。
「随分と早かったな。もう少し時間が掛かると思ってたんだが」
「交渉の件は私に一任されてるって言ったでしょ。……長には報告しないといけないんだけど」
最後の言葉は、ニールセンもレイに聞こえないようにというつもりだったのだろうが、ゼパイルによって生み出されてレイの身体は、セト程ではないにしろ鋭い五感を持つ。
その聴力により、レイはしっかりとニールセンの言葉を聞いていた。
(長か。セレムース平原の時に出て来て妖精達を叱ったのも、長だったな。まぁ、一つの集団として暮らしている以上、長がいるのは当然か。……気ままな妖精達がその指示に大人しく従うとなると、かなり有能じゃなきゃ長にはなれないんだろうけど)
妖精の性格を知っているからこそ、レイはそんな風に納得してしまう。
……とはいえ、あくまでもレイの知っている妖精の長は一人だけなので、どうしてもそちらが基準になってしまうのだが。
「そうか。なら、さっさとギルムに行くか」
そう告げ、レイはニールセンと共にその場から立ち去るのだった。