2455話
「……は?」
ダスカーは、レイの言葉を聞いてそんな間の抜けた声を出す。
当然だろう。午前中の仕事をしているところにレイがやって来て、突然妖精をマリーナの家に連れていきたいと言ったのだから。
不幸中の幸いなのは、今日ダスカーに会いにやって来たのがレイだけだったことだろう。
昨日はエレーナやアーラがいたし、一昨日はヴィヘラがいた。
しかし、今日ここにいるのはレイだけだ。
だからこそダスカーも安心していたのだが……そんなところで出たのが、妖精の件だったのだ。
「本気か?」
「それ、俺も昨日マリーナに言いましたよ。その後に正気か? とも付け加えましたが」
「そんなことを言えるのは、お前だけだよ」
レイの言葉に、しみじみとダスカーが言う。
もしダスカーがマリーナにそのようなことを言えば、間違いなく面倒なことになるだろう。
それこそ、ダスカーの黒歴史でからかわれるといったように。
他の者にしてみれば、それこそマリーナの実績を知っている分、容易にそんなことを言うような真似は出来ない。
「そうですか? ……それはともかくとして、どうです? ちなみに、ここでダスカー様が断ったら、次にマリーナが説得に来ると思いますが」
「それは脅迫にしか思えないぞ? ……マリーナが言うんだ。ただの我が儘って訳じゃないんだろう?」
「はい。勿論妖精と会ってみたいという思いがあるのは間違いないでしょうが、それ以外にも自分が妖精と接すれば交渉が上手くいくかもしれないと」
「……マリーナが? いやまぁ、マリーナが言うなら事実なんだろうが」
レイの言葉をあっさりと信じるダスカー。
小さい頃からの知り合いで、自分の黒歴史を知っている苦手な相手ではあるが、それでもいざという時は信頼出来る相手なのは間違いない。
そうである以上、マリーナがそう言うのであれば素直に信じるといったようなことも出来た。
この辺は長年の知り合いだからこその対応だろう。
「はい。正直、マリーナがどんな風に妖精と接するのかは分からないんですけどね」
「マリーナだしな」
その言葉で納得されるマリーナ。
そんな様子に、レイはふと自分もまた時々『レイだからな』といった感じに納得されることを思い出す。
「いっそ、マリーナをトレントの森に連れて行きますか? ……診療所の件があるから、難しいかもしれませんが」
「だろうな。マリーナ程の精霊魔法の使い手がいなくなると、診療所の方が手に負えなくなる。ただでさえ、今は夏の暑さでつまらないミスをする者も多いし、苛ついて喧嘩をしたりする奴もいるしな」
ダスカーもギルムの領主である以上、当然のようにギルムの状況は理解していた。
あるいは、領主になる前は王都で騎士をしていたのだから、その時の経験からかもしれないが。
とにかく夏の今は怪我をする者が多くなるし、熱中症で倒れる者も出て来る。
そのような理由から、マリーナを日中に診療所から動かすような真似は出来なかった。
マリーナもそれを知っていたからこそ、自分が妖精に会いに行くのではなく、妖精を自分の家に連れて来て貰うといった提案をしたのだろう。
「それで、どうします?」
「どうしますと言われてもな。俺に拒否出来ると思うか? いや、拒否しようと思えば出来るんだろうが、そんな真似をするよりも素直に従った方が最良の結果になるのは間違いない。ただし、ニールセンが承諾したらだぞ」
「分かってますよ。……というか、ニールセンを含めた妖精達は妖精の輪を使った転移能力があるので、強引に連れていくといったようなことは出来ないですし」
そういう意味では、妖精を捕らえて売り払おうなどと考えるよう者がいても、ある程度安全であるということを意味していた。
……だからといって、妖精の情報解禁をそう簡単に行うつもりはなかったが。
「だろうな。……ともあれ、妖精の件は分かった。今日はお前一人でニールセンを迎えに行くのか?」
「そうなりますね。エレーナも今日は面会を希望する相手と会うって言ってましたし。……本人は残念そうにしてましたが」
エレーナは、本当ならもう数日は妖精探しをしたかった。
正確にはそういう名目でレイと一緒にトレントの森で一緒にデートをしたかった。……デートではあっても、アーラが一緒にいたのだが。
アーラとしては、一日二日ならともかく、それ以上になると色々と困ったことになると思っていただけに、昨日の時点で妖精を見つけたというのは、嬉しいような、残念なような……そんな微妙な感じだったのだが。
「エレーナ殿か。レイが向こうの世界に行っていた間、忙しかったようだからな」
エレーナのことは妙なことをしないだろうと信用しているダスカーだったが、それでもギルムの領主という立場である以上、ある程度の情報を集める必要はあった。
エレーナが何か妙なことを企むといったことではなく、エレーナに対して何か妙なことを考える者がいるのではないか、と。
今の状況を思えば、そんなことをするような者がいるとは考えにくい。
だが……考えにくいからといって、警戒しないという選択肢はダスカーにはないのだ。
そんな訳でエレーナが誰と会ったのかといったような情報は入ってくるダスカーだったが、そんなダスカーから見てもエレーナはそれなりに忙しい日々を送っていた。
それだけに、久しぶりに帰ってきたレイと一緒にゆっくりすごしたい……と、そんな気持ちは分からないでもなかったのだ。
「そうなんですか? ……まぁ、エレーナならある程度はどうとでもしてしまいそうな気がしますけど」
その言葉に、ダスカーは何も言えなくなる。
実際、エレーナなら本当にそのくらいはどうとでもしてしまいそうだと、そのような思いがあったからだろう。
「まぁ、取りあえずエレーナについてはアーラがいるので心配しなくてもいいかと」
実際には、アーラもまたエレーナのこととなれば暴走してもおかしくはないのだが……それでも今の状況を考えると、エレーナの抑え役としては十分に働いてくれるだろうと期待は出来た。
ダスカーもレイと同じ結論にいたったのか、それとも現在の状況では何を言っても意味がないと判断したのか、それ以上は特に何も言わなかった。
「じゃあ、俺はそろそろトレントの森に行きますね。ニールセンを連れてくる必要がありますし。……交渉の方は、どんな反応になるのか分かりませんけど」
「そうだな。トレントの森に棲み着くのはいいが、マジックアイテムのようにこちらにも利益は必要だ。それと、悪戯に関しても……」
「あ」
ダスカーの口から出た悪戯という言葉に、レイは昨日の件を思い出す。
だが、その『あ』という一言がダスカーにしてみれば嫌な予感を感じたのだろう。
……レイの口から出た言葉だけに、どうしてもその辺に注意してしまうのはおかしくない。
それは、ダスカーの今までの経験からの予想だ。
そして、予想はそこまで間違っている訳ではないというのが、レイの次の言葉で証明されてしまった。
「実は昨日、トレントの森にニールセンを送っていった後でアナスタシアの様子を見に地下空間に行ったんですが……」
実際には、ドラゴニアスの死体を向こう側の世界に置いておけば素材として使えるようになるのではないかといった実験の結果を聞きに行ったのと、グリムが妖精について何か知っているのかも? という考えから地下空間に行ったのだが。
しかし、グリムについてダスカーには説明していない以上、そうやって誤魔化す必要があった。
レイもギルムを拠点にしている以上、いずれ本当のことを言わなければならないと、そう思ってはいたのだが。
「ふむ、それで?」
「その帰りに、妖精が道に迷わせるといったような結界を張っていました」
「それは……よく無事に脱出出来たな」
「はい。幸い、結界そのものはそこまで強固なものではなかったので、セトが空を飛んだらあっさりと。ただし、樵の何人かがその結界に囚われて迷子になっていたみたいです」
樵が迷子になっていたという言葉に、ダスカーが不機嫌そうな表情になる。
ギルムの増築工事において、トレントの森で伐採された木は建築資材として非常に重要な代物だ。
レイがいない時にそれらを運ぶのに時間が掛かって資材不足になった件について、レイが戻ってきたことによってようやく解決の目処が立ったというのに、そこでまた樵が迷子になってしまえば、対処するのが非常に難しくなる。
何よりもレイが異世界に行っていた時は、運ぶ冒険者が足りなくて苦労としていたのに対して、今回の一件は木を伐採する樵が迷子になる……つまり、仕事が出来ないということだ。
それはレイが異世界にいた時よりも、増築工事に遅れが出ることになる。
(迷子になった樵を他の樵や冒険者達が捜していたのも、この場合は大きいだろうしな)
樵であれば心配はいらないかもしれないが、もしかしたら伐採した木が倒れた場所に迷子になっている樵がいる……という可能性も、否定は出来ないのだ。
その辺の事情を考えれば、やはり樵が迷子になるというのは大きい。
「取りあえず、今日ニールセンに会ったらその辺を言ってみてくれ。それで駄目なようなら……マリーナに期待だな」
「え? あ、はい」
マリーナに期待。
そう言った瞬間のダスカーの顔を見たレイが言葉に出来たのは、そうして頷くだけだった。
黒い……あまりに黒いダスカーの笑顔を見れば、そのくらいの反応しか出来なくなってしまう。
「えっと、じゃあ俺はそろそろトレントの森に行きますね」
マリーナが一体ニールセンにどのような真似をするのか。
それが聞きたかったが、同時に怖くもなり……レイはそう言ってテーブルの上に用意されたサンドイッチを口に放り込んでから、執務室を出るのだった。
「さて、ニールセンを迎えに行く訳だけど、昨日の場所は覚えてるか?」
「グルゥ!」
トレントの森の中で、レイの言葉にセトは任せて! と鳴き声を上げる。
レイとセトだけという、少し前であればいつもの姿ではあったのだが……今となってはそれなりに久しぶりの組み合わせだった。
いつもなら、レイとセト以外にもそれなりに誰かがいることが多かったのだから。
「分かった。じゃあ、頼むぞ。……行くか」
そんなレイの言葉に頷き、セトはトレントの森を進む。
セトの背中の上で、レイは周囲の様子を警戒する。
モンスターの襲撃を警戒している……のではなく、妖精の悪戯を警戒しているのだ。
昨日話したニールセンの様子を見る限りでは、とてもではないが自分の要望に従うとは思えない。
いや、悪戯をするのが妖精の本能である以上、止めようと思っても止められない……というのが正しいのだろう。
「今のところは、特に妖精は……ん?」
妖精はいない。
そう言おうとしたレイだったが、少し離れた場所にある茂みが不自然に揺れたのを見て、もしかしたらまた妖精が何かちょっかいをだしてくるのではないか。
そんな風に思ったのだが……
「ワウ……」
茂みの中から姿を現したのは、狼。
それも恐らくは昨日レイが遭遇した狼にように思えた。正確には群れを率いていた狼で、狼にしては妙に頭がよく、それこそ人間に近い知性を持つのではないか。
そのようにすら思えた狼が、レイとセトの前に姿を現した。
「……今日はお前だけなのか?」
周囲の様子を見回すが、いるのは目の前にいる一匹だけだ。
率いていた群れはどうしたのか。
昨日の一件で味を占めて、また何か食料を欲してきたのか。
そんな風に思うが、レイの視線の先に存在する狼は明らかに昨日と違う。
骨と皮だけだったのが、一日でしっかりと身体に肉がついているのだ。
どんなに食べても、一日でそこまで急激に身体に肉を付けることが出来るのか? と疑問を抱くレイだったが実際に視線の先にいる狼は間違いなく昨日と比べると同じ狼か? と思える程に肉がついていた。
あるいは、本当に昨日とは違う狼なのではないかとすら思ったのだが、レイとセトを前にして怯えたり畏怖したりしていないのを見ると、そんな狼が複数いるとは思えない。
「何をしに来たんだ?」
「ワン!」
レイの言葉に狼は犬のように鳴き声を上げ、そのままセトの前を歩く。
レイとセトが狼の様子を眺めていると……やがて狼は足を止め、再び『ワン』と、狼ではなく犬なのではないかと思えるような鳴き声を発する。
だが、そんな狼の様子を眺め、何となく何をしたいのか理解したセトは、道案内をしてくれる狼を追って歩き出す。
レイはそんな狼の様子に色々と思うところはあったが、案内してくれるのなら助かると、それ以上は何も言うことはなかった。