2439話
レイはミスティリングの中から猪の肉を取り出す。
本来なら、猪の肉はそれなりに価値があるのだが……ここはギルムだ。
魔力を持つことによって、普通の動物よりも美味い肉を持つモンスターが大量に存在している。
勿論、それでも肉は肉である以上、決して粗末な扱いをされている訳ではない。
……とはいえ、やはりモンスターの肉の方が珍重されるのは間違いなかったが。
ともあれレイが取り出した猪の肉の塊……ブロック肉を目にした狼の群れは一瞬動きを止める。
一体何を目的としてこのようなことをしたのか、と。
飢えており、いきなり肉の塊が出て来ても、即座に襲い掛かるといったようなことをしなかったのは、野生で生きるものとして最低限の警戒心が残っていたのだろう。
「さて……取りあえず、食え!」
そう言い、レイは肉の塊を狼達に向かって投げる。
……その際、セトが空中を飛ぶ肉の塊を目で追っていたのは、セトもまたその肉を食べたいと思ったからか。
一応昼食として用意された焼きうどんは全部食べたのだが、セトの腹はまだまだ余裕がある。
それこそ、腹八分どころか腹三分……いや、腹二分といったくらいなのだから。
それでもレイのやることだからと、セトは肉の塊を視線で追うだけで、実際に動くような真似はしない。
「グルルルルル……」
狼の群れも、まさかいきなり肉を出すとは思っていなかったのか、レイの行動に戸惑った様子を見せる。
それでも肉がレイの側にあるのではなく、放り投げられて結構な距離もあるということで、狼の群れは空腹には勝てなかったのか、慎重に肉に近付いていく。
(あの肉に睡眠薬とか麻痺薬とか……いっそ相手を殺せるような致命的な毒薬とか仕込んでおけば、一体どうなったんだろうな。あ、でも狼だから嗅覚は鋭いだろうし、肉に毒があればそれを嗅ぎ取るような真似も出来るか)
レイにしてみれば、犬や狼といったモンスターの嗅覚が鋭いというのは、当然のことだ。
そうである以上、もし肉にその辺で容易に入手出来る毒を仕込むといったような真似をすれば、間違いなく見抜かれるだろうという思いもある。
……もっとも、毒の中には例え狼や犬といった相手にでも嗅ぎ取れないような無臭の毒も普通に存在しているのだが。
そのような毒は当然のように非常に高価で、普通の冒険者はそう簡単に入手出来る物ではない。
ギルムのような辺境で採れる希少な素材を使っている以上、高価になるのは当然の話だった。
それでも地産地消……というのとは少し違うが、ギルム以外の場所でそのような薬を購入するのと、ギルムで購入するのとでは当然ギルムで購入する方が安い。
レイも、どうせならその手の薬を用意しておくかと思いつつ、狼の群れの様子を眺める。
狼の群れの様子を眺めているのは、レイだけではない。
エレーナ、アーラ、セトといった他の面々も、狼がどのように行動するのかをじっと眺めていた。
そして……レイが放り投げた肉を警戒していた狼は、ようやく安心だと判断したのか、もしくは空腹が限界だったのか、その肉に齧りつく。
「へぇ」
レイが感心したのは、そのような状況であっても最初に肉を食べた狼だけで、レイの投げた猪の肉を食いつくすといったようなことをしなかった為か。
狼は半分程肉を食べると、近くにいた別の狼に肉を渡す。
(まぁ、それでも一匹で肉を半分食ったってのは、間違いないないんだが。ただ、それで責めるのもな)
狼達の様子を見ている限りでは、最初に肉を食べた狼がリーダー格の存在のようだった。
それを見て、もし先程考えたように毒の類が入っていたらどうするつもりだったのか、と。ふとそんな疑問を抱く。
狼のリーダーである以上、もし毒の入っている肉を食べれれば真っ先に死ぬのはその狼であり……そうなれば、群れは壊滅状態になってもまだ生き残りを率いてこの場から離脱するような真似も出来る。
(そうなると、腹が減っていてどうしようもなかったのか、それともあの群れの中で一番嗅覚が鋭いのが、あの狼だったのか。その辺はちょっと分からないけど、何となく後者の気がするな)
そんな風に思いながらも、レイはミスティリングから再度猪の肉を取り出して、放り投げる。
再びリーダーの狼がその肉の臭いを嗅ぎ……今度は自分で食べるのではなく、そのまま仲間に与える。
「で? どうするのだ?」
続けて幾つかの肉を放り投げたレイを見ていたエレーナが、そんな風に尋ねる。
レイが狼に餌を与えるのは黙って見ていたが、そうして餌付けをしてどうするのかと、そう思ったのだろう。
「どうするって言われてもな。ああやって餓え死にしそうな奴を見たから、思わず助けただけなんだよな。……自然の摂理に反してるってのは分かるけど」
狼が獲物を狩って腹を満たすことが自然の摂理なら、獲物を狩れずに飢えるのもまた自然の摂理だ。
その自然の摂理に従うのなら、本来はレイがそちらに手を出すというのは自然の摂理に反していることなのは間違いない。
そうである以上、今のレイとしては狼を餌付け……正確には餌を与えた程度で向こうが懐くとは思っていないのだが、それでもこうして餌を与えたのは、やはりドラゴニアスの一件がどこかにあったからか。
「そう」
エレーナも、レイが特に何が考えがあって今のような行動を取った訳ではなく、衝動的な行動だったと聞かされると、多少は呆れながらも納得した様子を見せる。
「その、こうしてレイ殿が餌を与えると、あの狼達は私達の近くにいれば餌を貰えると、そんな風に思ったりしませんか?」
「まさに餌付けだな。……とはいえ、アーラの言う通りのようなことになったら、色々と面倒なことになるだろうけど。それ以前に、俺達の近くにいれば食べ物を貰えるからって、俺達と友好的な関係になるかと言えば、また微妙なところなんだよな」
「グルゥ!」
レイの言葉に、襲ってきたら自分が闘う! とセトは鳴き声を上げる。
セトにしてみれば、レイから食べ物を貰ったのに、それに感謝せず……それどころか、危害を加えようとするようなことをするのなら、到底許せないのだ。
「ありがとな」
レイもセトの気持ちは嬉しいので、感謝の気持ちを込めて頭を撫でてやる。
「けど、あの狼達がどういう風に行動するのか分からない以上、こちらから積極的に攻撃をするような真似はしなくてもいい。……ここで妖精が出て来て何らかの悪戯を仕掛けてきても、タイミング的にはおかしくないけどな」
こうしている現在、レイの注意は狼に集まっている。
……実際には、周囲で何かあったらすぐに対応出来るようにしてはいるのだが、それでも傍から見た場合はそのように思える筈だった。
であれば、先程レイの手から転移して逃げた妖精がまた再度悪戯をする為に姿を現しても、おかしくはない。
そうなってくれれば、レイにとっては望むところだった。
だが、妖精もそれが分かっているのか、それとも単純に今はまだレイ達の存在にそこまで注目していないのか、姿を現すことはない。
「グルルルルル……」
やがて猪の肉を食べて群れ全体の空腹が一段落したのか、群れのリーダーが若干警戒に喉を鳴らしながらもレイの側までやってくる。
とはいえ、手を伸ばせば届く距離といった訳ではなく、五m程の距離にだが。
そんな狼を無言で見守るレイ。
エレーナとアーラ、それにセトもそんなレイ達の様子を黙って見ていた。
セトは、狼がレイに何かをしたらすぐにでもレイの下に向かえるようにと微かに身を屈めていた。
「……ワウ……」
レイの顔を見て、感謝の言葉を口にするかのように鳴き声を上げる狼。
それは明らかにある程度の知性を持つ存在のように思えた。
(野生の狼がここまで知性が高いとかあるのか? いや、ここは辺境なんだから、モンスターだけではなく動物だって辺境以外の普通の動物と一緒にするのは駄目か)
レイは驚きながらもそう考え直し、口を開く。
「お前達がこのトレントの森で生きていくのは大変かもしれないが、頑張れよ」
「ワオオオオオオン!」
レイの言葉を理解したのか、それともタイミングよく鳴き声を上げただけなのか。
それはレイにも分からなかったが、ともあれ狼はそんな鳴き声を上げると、それで挨拶はすんだとばかりの態度でレイの前から走り去る。
当然リーダーがそうやって走り出したのだから、他の狼達もその後を追う。
レイが与えた猪の肉を食べたとはいえ、それは決して腹一杯という訳ではない。
飢えた状態から空腹の状態になったといったところだろう。
当然の話だが、レイの与えた肉を食べたくらいでは骨と皮だけになった狼達の身体が元に戻った訳ではない。
そうである以上、このまま獲物を獲ることが出来なければ間違いなくまた飢えに襲われる事になるだろう。
それはレイも分かっていたが、だからといって今の状況でこれ以上狼の群れに何かをしてやることは出来ない。
いや、猪の肉の余裕はまだあるし、熊の肉もある。それ以外にもモンスターの肉が大量にミスティリングに収納されている以上、狼達を満腹にしてやることくらいは出来た。
それをやらなかったのは、レイもそこまでやる必要はないと判断したのだ。
であれば、このまま見逃してもいいだろうと。
(この狼の件が、後々何かこっちの利益になってくれればいいんだけどな)
狼達の後ろ姿を見ながら、レイはそんな風に思う。
勿論、狼達を助けたのは何らかの目論見があっての話ではない。
だが、それでも折角助けたのだから、何らかの利益があっても……と、そう考えてしまってもおかしくはないだろう。
「さて、では焼きうどんも食べ終わったことだし、そろそろ妖精探しを再開しようか。狼の件で少し時間が掛かってしまったからな」
エレーナのその言葉に、レイは頷く。
本来なら焼きうどんを食べ終わってすぐに妖精探しを再開する筈だったのだ。
だが、狼の件で予想以上に時間を使ってしまった以上、エレーナがこうして急かすのも理解出来た。
……本来なら、エレーナはもう少しゆっくりと妖精を探したいと、そう思っているのだが。
エレーナとしては、妖精が見つかるまではレイと行動を共にするつもりなのだから。
とはいえ、アーラがそれを許可するかどうかというのは、全く別の話だ。
エレーナの専属という立場がある以上、今日一日ならともかく……そして明日から何日かならともかく、十日、二十日といった具合にずっとレイと共にトレントの森ですごすといったことは、難しい。
姫将軍にして、ケレベル公爵家の令嬢。そして貴族派の代表としてギルムにやって来ている以上、そちらの仕事を蔑ろにする訳にはいかないのだ。
(出来れば今日中に見つかって欲しいのですが……そうすれば、もう数日はエレーナ様もレイ殿と一緒の時間をただ楽しむといった真似が出来るでしょうし)
アーラは周囲の様子を眺めながら、そんな風に思う。
今回の一件において重要なのは、あくまでも妖精を見つけることだ。
……正確には、妖精と接触して何故トレントの森にいるのかを考えるというのが大きい。
そちらをどうにかすれば、エレーナはレイと一緒にゆっくり出来るということを意味していた。
そんな風に周囲の様子を見ていたアーラだったが……不意に、木の枝から何かが自分達を見ているのを見つける。
何故か、自分よりも圧倒的に感覚の鋭いレイも、セトも、エレーナもそんな妖精の姿に気が付いてはいない。
一応名目としてはエレーナの専属……つまりは護衛の役目も担っているアーラだが、この一行の中では最弱だ。
それどころか、レイの仲間達の中でアーラが明確に勝てると言える相手はビューネしかいない。
……いや、イエロとも戦えば勝てるだろうが、そもそもイエロと戦うというイメージがアーラの中にはない。
ともあれ、そんなことはアーラ本人も理解している。理解しているのだが……だからこそ、何故今この状況で、自分だけが妖精を見つけることが出来たのかと、そんな疑問を抱く。
そんなアーラの様子に気が付いたのか、妖精は木の枝から生えている葉に隠れながら、手を振る。
全く悪戯をする気を見せず、暢気な妖精の様子にアーラも思わず手を振り返し……
「って、違う! エレーナ様、レイ殿! 向こうを! 妖精です!」
手を振り返したアーラはすぐに我に返ってそう叫ぶ。
そしてレイ達はアーラの叫びに対して即座に反応し、アーラが示した方に視線を向けるが……
「どこだ?」
そんな声がレイから漏れる。
「え?」
レイの声にアーラは先程妖精がいた方に視線を向けるが……そこにあるのは木の枝だけで、どこにも妖精の姿はない。
「あれ? 確かに……」
呆然とアーラはそう呟くのだった。