2437話
「レイ、妖精は……逃がしたのか?」
エレーナは自分達の方に近付いてくるレイを見て、若干の驚きと共にそう尋ねる。
まさか、レイが妖精を逃がすといったようなことをするとは思っていなかったからだ。
「ああ。確かにこの手で捕らえたと思ったんだけどな。まるで幻のように、掌の中から消えていった」
「それは、実際に幻だったのでは? 妖精は魔法が得意と聞いています。レイ殿も魔法を使われたと思っても、おかしくなはないかと」
アーラのその言葉に、レイは首を横に振る。
「いや、幻じゃない。確実に掌で妖精の羽根に少しではあるけど触った感触があったし。……まぁ、妖精の使う魔法が触感まで相手に誤解させるようなものだったら、お手上げだけど」
「……どうでしょうね。可能性としては十分にあるかと思いますが。エレーナ様はどう思います?」
「そのような魔法があると聞いたことはある。だが、普通の妖精がそのような魔法を使えるかと言われると……微妙なところだな。妖精が魔法を得意としているのは知っているが」
悩む様子を見せるエレーナだったが、レイは少ないながらもその可能性はあると思う。
何しろ、妖精は悪戯を行うことを最優先にしている。
そんな妖精にとって、幻を生み出す魔法……それもただの幻ではなく触感すら持つ幻となれば、悪戯に使うのにこれ程便利な魔法もないだろう。
とはいえ、レイとしては自分が掴んだ感触は幻でも何でもなく、本物だという思いがある。
何よりも今はもうなくなっているが、掌には実際に光の鱗粉までもがあったのだ。
それを考えれば、やはり妖精は本物としか思えない。
そして本物の妖精であった以上、妖精が掌の中で消えたとなると……
「幻じゃなくて、妖精が転移能力を持ってるという話を聞いたことはないか?」
「……転移能力? 妖精の輪、いわゆるフェアリーサークルというのを使って妖精が転移するといった話はあるが、それはあくまでもお伽噺だぞ?」
転移能力という言葉に反応してエレーナがそう言ってくるが、レイはその言葉に寧ろ納得の表情を浮かべる。
あそこまで……それこそ、本当にあと一瞬でも時間があれば妖精を捕らえることが出来ていた状況で逃げられたのだ。
やはり転移能力があると聞かされれば、納得出来るところがあった。
(フェアリーサークル……何かで聞いた覚えがある言葉だな)
エレーナの口から出たフェアリーサークルといった言葉に聞き覚えがあり、少し考え……やがて思い出す。
(そうか。日本にいた時だな。たしかキノコや粘菌がどうとか、そういう話だったような気がする。……キノコや粘菌といったのが、何でフェアリーサークルなんて呼ばれるようになったのかは、俺にも分からないが)
実際にはフェアリーサークルというのは菌輪とも言われ、キノコが地面に円状になって生えている現象のことを言う。
それがフェアリーサークルと呼ばれるようになったのは、伝承やお伽噺でそのようになっていったのだろう。
レイがフェアリーサークルという言葉に聞き覚えがあったのは、TVでそのような特集を見たからだった。
「けど……妖精が転移能力を持ってるってのは、ちょっと意外だったな、これで妖精と接触する重要性が増えた」
転移能力というのは、大きな意味を持つ。
それは、レイが異世界で戦った七色の鱗のドラゴニアスを見れば明らかだろう。
短距離の転移であっても、厄介な相手だったのだ。
それが見える範囲から消えるくらいの長距離の転移が出来るとなれば、妖精の重要さは一段……いや、二段や三段は上がったと考えてもおかしくはない。
何よりも、その転移能力を解明してレイ達も転移出来るようになれば、その意味は大きい。
……実際にはベスティア帝国はマジックアイテムとして転移用の物の開発に成功しているが、そちらは転移こそ出来るものの、制約も多い。
(マジックアイテムの開発が不可能でも、せめて妖精と友好関係になれれば、その転移能力で協力してくれるかも。……妖精の性格を考えれば、色々と難しそうだけど)
転移能力を持っていても、妖精の悪戯好きという性格は変わらない。
人が死ぬような悪戯であっても平気でやる以上、寧ろそのような妖精に転移を頼むのは非常に危険だろう。
それこそ下手をすれば、レイのように空中を足場にすることも出来ないのに、いきなり上空百mの場所に放り出される可能性もあった。
普通に考えれば、それは相手を殺すということと同じであって、悪戯の範疇には含まれないものだろう。
だが……妖精の場合は、それでも普通に悪戯としてそのような真似をするのだ。
セレムース平原の一件から、レイはそれをこの場にいる誰よりも理解していた。
「ともあれ、妖精がいるのは私も確認出来た。アーラもそうだな?」
エレーナがアーラに視線を向けると、勿論ですと頷きを返す。
「妖精がいるというのはレイの話を聞いて信じていたが、こうして実際に自分の目で見ることによって、その姿を確実に確認出来たのは大きい。……そうだろう?」
「それは、まぁ」
エレーナの言葉に、レイは不満を抱きながらもそう返す。
エレーナ達は妖精を見たことはなかったが、レイは妖精の存在をしっかりと確認していたのだ。
そうである以上、エレーナが見たのが収穫だったと言われても、素直に納得出来るかと言えば、それは否だろう。
「妖精は悪戯を好むと聞く。レイに対して悪戯……と言ってもいいのかどうかは微妙だが、ともあれその悪戯が失敗したとなると、妖精は次にどう出ると思う? 私は、一度失敗したからこそ再びレイにちょっかいを掛けてくると思う」
「その可能性はあるな。……問題なのは、次に向こうが仕掛けてくる時に一匹だけか、他にも仲間を連れてくるか。どっちだと思う?」
「妖精については私もそこまで詳しくないから、どちらとは言えない。だが……レイと少し話した時の様子を見る限りでは、自分だけでまたやって来そうな気がしたな」
ばーか、ばーか。
そうレイに言って逃げ出した妖精のことを思い出しながら告げるエレーナに、レイはそういうものか? と疑問に思う。
それこそ自分に捕まりそうになった以上、戦力を揃える為にもっと多数の妖精で来てもおかしくないと思うのだが。
(とはいえ、妖精が多くやって来るのなら捕まえるチャンスは増えるということになる。……ただし、転移能力があるとなると、捕まえるといったことは無意味なのか。だとすれば、捕まえるよりも前に話をする必要があるんだが……こっちの言葉を聞く気があるかどうかだよな)
妖精の性格を考えると、少なくてもレイが話をしたいと呼び掛けても、それを素直に聞くとは思えない。
かといって捕らえても転移で逃げるとなると、それこそ手の打ちようがないというのが正直なところだ。
「妖精が転移能力を持ってるとなると、非常に厄介だな」
「うむ。レイが捕らえようとしても捕らえることが出来なかった辺り、転移しようと思えばすぐに転移出来るのだろう」
この点でも、ベスティア帝国が開発したマジックアイテムとは大きく違う。
好きな時に好きな場所に転移出来るのなら、捕らえるのは実質的に無理だ。
「そうなると、やっぱり悪戯をされても怒らないで話し掛ける必要がありますね」
「……それしかないか」
アーラからの提案は、当然のものだった。
だが、あのような悪戯をされて怒るなという方がレイにとっては難しい。
……とはいえ、それしか手段がないのなら、その方法を取るしかないのだが。
「そうなると、また妖精を探すか。……っと、その前に」
かなり高い位置から落ちたらしいダーラウルフの死体は、かなり酷いことになっていた。
レイには付着しなかったものの、地面や周囲に生えている木々には血や脳みその破片が付着しており、頭部は殆ど形をなしていない。
とはいえ、まだ魔石を取り出していないし、死体をそのままにしておくことも出来ない以上、死体は持っていく必要があった。
気の進まなさそうな表情を浮かべつつ、そっと死体に触れてミスティリングに収納する。
破損したのは頭部だけとはいえ、かなりの高度から落とされた以上、内臓は破裂しているし骨も砕かれているだろう。
そのような死体を解体するのは、レイにとってもあまり面白いものではない。
それでも誰かに頼む訳にはいかない以上、自分でやるしかなかった。
(あ、でも俺が欲しいのは魔石だけなんだし……ギルムにいるランクの低い冒険者に頼むのはありか? このダーラウルフの討伐証明部位がどこなのかは分からないけど、肉とかは普通に食べることが出来るだろうし、それ以外の素材も売れない事はないだろうから)
魔獣術に必要なのは魔石だけなのだから、ダーラウルフの素材の類はレイには必要ない。
ダーラウルフがランクDモンスターと低ランク――あくまでもギルムの基準でだが――モンスターである以上、その素材も希少な物ではないだろう。
これが何らかの希少な素材を持っているのなら、レイも頑張って素材の剥ぎ取りを頑張る気になったのだが。
「ダーラウルフの死体はこれでいいとして、そうなると問題なのはどうやってもう一度妖精を見つけるかだな」
「やはり、今までのようにトレントの森を歩き回って妖精が悪戯を仕掛けてくるのを待つしかないのではないか? ……先程のように、セトが妖精の位置を察知出来るかもしれないし」
「そうだな。……セト、妖精を見つけるにはお前の五感が頼りだ。頼むぞ」
「グルゥ!」
レイの言葉に、任せて! と鳴き声を上げるセト。
セトにしても、妖精という存在を見つけるのは絶対にやりたいことだった。
……何しろ、セトの大好きなレイに向かってダーラウルフの死体を落下させてぶつけようとしたのだ。
そんな相手は、セトにとって到底許せるものではない。
そんなセトの様子を理解したのか、レイは落ち着かせるようにセトの頭を撫でる。
「落ち着け。俺はあの妖精を殺したいわけじゃなくて、あくまでも捕らえたいんだ。……もっと言えば、向こうの事情を知りたい。その上で、協力体制を取りたいんだ。そうである以上、殺すといったことは……俺達が危険なことにならない限り、出来るだけ避けて欲しい」
「……グルゥ……」
レイの言葉に、セトは喉を鳴らす。
不満ではあったが、レイが言うのであれば仕方がないと、そのように思ってのことだろう。
ストレスをどこかで発散させてやらないとな。
そう思いながら、レイはエレーナ達と共に再びセトの背に乗ってトレントの森を進み始める。
「おーい、妖精。出て来てくれ。話がしたい」
やらないよりはいいだろうと思いながら、レイは周囲に向かって声を掛けるが……当然ながら、妖精が姿を現す様子はない。
今の状況で自分が何を言っても、妖精がそれに応じる筈はないと、そう理解してはいるのだ。
だが……今の状況でこれ以外に特にやるべきことがない以上、そうしておく必要があった。
「そう言えば……レイ。ダスカー殿は妖精を見つけたら、どうするつもりなのだ?」
「友好的な関係を築くつもりだろうな」
「ふむ、やはりそうか。だが……もしその話が周囲に広まれば、ただではすまないぞ?」
「今更だろ」
エレーナの言葉にそう返すレイだったが、実際その程度のことは今更の話だった。
トレントの森はともかく、そこに転移してきたリザードマンや緑人。それに生誕の塔や湖。
また、トレントの森の地下空間ではウィスプによってケンタウロスやドラゴニアスのいる異世界に繋がっている。
これらの一つであっても、ダスカー以外の者が知れば間違いなく大きな騒動になる。
……それこそ、これらの一件をダスカーがいつまで隠しておけるか分からないと悩むくらいには。
だからこそ、今更そこに妖精の一件が加わったところで、そこまで気にするようなことではない。
(とはいえ、こうして考えるとそれらの件は全部このトレントの森を中心にして起きてるんだよな。……転移関係はウィスプがやってるんだから、トレントの森を中心にして起きてもおかしくはないんだが、妖精の一件はどう考えてもおかしい)
トレントの森のどこに惹かれて妖精が集まってきたのか。
レイが先程見た妖精は、昨日見た妖精とは全く別の妖精だった。
つまり、妖精はこのトレントの森に最低でも二匹……いや、レイの予想通りならもっと大量にいる可能性が高い。
このトレントの森は色々と特殊なだけに、その特殊性に惹かれたのか?
そう思うも……結局のところその辺は自分でも納得出来ず、エレーナ、アーラ、セトと共に妖精を探すのだった。