2423話
妖精。
それは、レイにとっても馴染み深い存在の一つだ。
正確にはエルジィンに転移してくる前、日本にいた時に楽しんでいた漫画やアニメ、小説、ゲームといったものにおいて、ファンタジーを題材にしたものでは頻繁に出て来る存在だ。
とはいえ、レイも別にこのエルジィンにおいて妖精と出会ったのが初めてという訳ではない。
以前ヴィヘラの一件で闘技大会やその後の内乱の為にベスティア帝国へと向かっている時、道中で通ったセレムース平原……今まで幾度となくミレアーナ王国とベスティア帝国軍がぶつかったその場所で、レイは妖精を見たことがある。
いや、妖精を見たところではなく、妖精の悪戯――というには大袈裟だったが――によって、スケルトンの骨によって出来たテーブルやら何やらを見る……といったようなことがあり、それにテオレームやエルクと共に巻き込まれたことがあった。
その時の一件から、レイとしてはあまり妖精に対していい印象というのは持っていなかったのだが……それでも、ウィスプのいた地下空間から出て来たところで、いきなりそこに妖精が現れたとなれば、それに目を奪われるなという方が無理だった。
「え? 妖精?」
「ちょっ、何で!?」
そんなレイの呟きが聞こえたのか、妖精はレイ達の姿を見ると驚いたように動きを止め……そして即座にその場から逃げ出す。
レイとしてもあまりにいきなりの展開だった為か、妖精が逃げるのを追うといったようなことはなく、ただ見送ることしか出来ないでいた。
そんなレイを我に返らせたのは、後ろから聞こえてきたアナスタシアの言葉。
「ちょっと、レイ! あれは妖精でしょ!? なんでここにいるのよ!」
驚きの声を発するアナスタシアだったが、既にその時にはもう妖精の姿は見えなくなっていた。
「レイ、このトレントの森には妖精がいるの!?」
慌てたようにレイに尋ねてくるアナスタシアだったが、レイはそんな興奮を落ち着かせるように、あえてゆっくりと口を開く。
「ほら、落ち着けって。俺もこのトレントの森に妖精がいるというのは、今日初めて知ったんだ。……以前から妖精がいたのに俺達が気が付かなかったのか、俺達が向こうの世界に行ってる間に妖精がこのトレントの森にやって来たのか……その辺は俺にも分からないけど」
それはアナスタシアを落ち着かせる為に言った訳ではなく、実際にレイはこのトレントの森に妖精がいるというのは分からなかった。
……とはいえ、妖精をその目で見て喜んでいるアナスタシアと違い、レイはそこまで喜ぶ様子はない、
レイが以前いた日本でも、妖精については色々な言い伝えがあるし、レイが漫画や小説、アニメ、ゲームといった諸々で妖精に接することは多かった。
そんな妖精の特徴の一つに、悪戯好きというのがある。
実際、レイがセレムース平原で遭遇した妖精は、悪戯という表現では少し過小表現なのではないかと、そう思える程のものだった。
そして妖精がこのトレントの森にいる以上、樵や冒険者、そして湖の周辺にいるリザードマンといった者達が悪戯の餌食になりかねない。
その悪戯が本当に可愛らしいものであれば、レイもそこまで気にするようなことはない。……それはあくまでも、可愛いらしいものであれば、だが。
「改めて聞くけど、レイは妖精を初めて見たのよね?」
「ああ。……いや、違うな。このトレントの森では初めて見たけど、以前セレムース平原では遭遇したことがある」
「セレムース平原?」
その名前に、アナスタシアは微かに眉を顰める。
今まで幾度となくミレアーナ王国とベスティア帝国がぶつかりあった場所だと。
それだけに、アナスタシアにとってセレムース平原という場所に対してはいい思いがないのだろう。
「ああ。以前ベスティア帝国に向かっている時な」
そう告げ、以前セレムース平原で体験した内容を、喋ることが出来る場所だけを話す。
その言葉で、ヴィヘラも納得した様子を浮かべる。
あの時、ヴィヘラもセレムース平原にいたのだが、実際に妖精と遭遇したのはレイ、テオレーム、エルクの三人だけだ。
ヴィヘラもその話は聞いていたので、妖精の存在については知っていたのだろうが、やはり実際に会ったことがあるかどうかというのは、この場合大きな差がある。
「それは……そうなると、もしかして妖精はアンデッドに興味がある、とか? もしくは血の臭いや腐臭……少し妖精のイメージとは違うけど」
アンデッドという言葉がアナスタシアの口から出た時、レイとヴィヘラは一瞬だけ反応する。
グリムのことが知られるとは思わなかったが、それでももしかしたら……本当にもしかしたら、何らかの小さな手掛かりからグリムに辿り着いたのではないかと、そう思った為だ。
実際にはそのようなことはなく、アナスタシアはただ自分の中にあった疑問を口にしただけだったが。
(とはいえ、このままだと妙な方向に行きかねない。早くこの場所から……)
そう思った時、どこからともなくセトと二頭の鹿が姿を現した。
誰がそれを行ったのかは、レイにも理解出来る。……というか、そんなことを出来るのはこの辺りだとグリムだけだというのが、レイの予想だった。
「ほら、セトと鹿が出て来たぞ」
ともあれ、グリムのことから少しでも注意を逸らそうと、レイはそう告げる。
そんなレイの言葉で、アナスタシアとファナの二人も自分の可愛がっていた鹿の存在に気が付いたのだろう。考えを一時中断し、鹿を撫でる。
(そう言えば、今の今まで全く気にしてなかったけど、結局鹿は全く何の問題もなくこっちの世界に来ることが出来たんだな)
妖精のことや、ドラゴニアスの死体を向こうの世界で剥ぎ取って素材として使うといったようなことを考えていたので、二頭の鹿についてレイは全く気が付いていなかった。
とはいえ、自分がそのことに気が付かなかったのはともかく、グリムがそのことに気が付かなかったというのは、レイにとっては少し疑問だったが。
あるいは、気が付いても多少角が立派でも、鹿だから何の問題もないと判断したのか。
(グリムのことだから、俺が知らないうちに実は鹿を調べていたとか、そういうことがあっても不思議じゃないんだよな)
レイにとって、グリムはこの世界における祖父に近い存在……という認識ではあるが、同時に凄腕の魔法使い兼研究者という認識もしている。
そんなグリムだからこそ、レイが気が付かないうちに何らかの手段で鹿を調べていたとしても、おかしくはない。
(もっとも、この鹿が普通の鹿とは到底思えないんだけどな)
アナスタシアとファナがそれぞれ撫でている鹿は、角が大きいという意味でも普通の鹿とは思えない。
いや、実際にはここの鹿達と同じような大きさの角を持つ鹿がいてもおかしくはないのだが。
だが、外見的な問題はともかく、知能の高さという点では明らかに普通の……レイが知っている鹿とは違う。
とはいえ、レイが知っている鹿というのは、あくまでも日本にいた時に見た鹿なのだが。
山のすぐ側にレイの家があったり、その山がレイの遊び場だったこともあり、遠目にではあるが鹿を見るのは珍しくはなかった。
それどころか、山の中を散策していると熊のような肉食獣に喰い殺されたのか、もしくは何らかの事故や病気で死んだのか、白骨化した鹿を見掛けたこともあった。
「さて、取りあえずこの世界に戻ってきたんだし、ギルムに向かうか」
取りあえず鹿のことは忘れ、レイはヴィヘラやアナスタシア、ファナに向かってそう告げる。
実際、アナスタシアとファナのことを心配しているだろうダスカーのことを思えば、少しでも早くギルムに行った方がいいのは間違いない。
妖精の件についても知らせておく必要がある。
「そう? ……そう、ね。出来ればもう少しこの辺を調べてみたかったんだけど」
「この周辺を調べるのなら、それこそ機会は幾らでもあるだろ。元々アナスタシアはウィスプの研究をしてたんだし。それに、今はそいつらもいるし」
そう言い、レイが視線を向けたのは二頭の鹿だ。
アナスタシアとファナに懐く……というよりは、忠誠を誓っているかのような、そんな鹿。
ドラゴニアスのいる場所でもアナスタシアとファナを背中に乗せて走っていたのだから、このような森の中を走るのも難しい話ではない筈だった。
……その立派な角が木に引っ掛からないように移動するのは、若干難しそうではあったが。
(とはいえ、ケンタウロスの世界の件もあるから、ダスカー様がウィスプの研究をアナスタシアに続けさせるかは微妙だけど)
ダスカーにとって、アナスタシアは恩人だ。
それこそ、宝石がたっぷりと入った袋をレイに渡して、向こうの世界でアナスタシア達を探す資金にして、それであまった宝石はレイの物にしてもいいという条件つきで。
……結局、その宝石は殆ど使わなかったから、ほぼ丸々レイの報酬という扱いになっているのだが。
ともあれ、それだけアナスタシアに恩を感じているダスカーだが、異世界に繋がったままの状態の地下空間でウィスプの研究をしてもいいのかと頼まれても、ダスカーが頷くかどうかは微妙なところだろう。
ただし、ウィスプの研究をするのに、他の適任者がいないのも事実だ。
異世界から様々な存在を……それこそ、湖そのものをも転移させるといった能力を持つウィスプだけに、迂闊な相手に事情を話すことは出来ない。
ましてや、現在は異世界に自由に出入り――グリムの力があってこそだが――出来るようにすらなっている。
ある意味で、ウィスプは以前よりも間違いなく重要性を増している。
ある意味、爆弾に近い存在のようにも思えるが。
「そうね。その辺の話もしっかりとしておく必要があるし……残念だけど、行きましょうか。この子がいれば、またここに戻ってくるのはいつでも出来るし」
そう言い、アナスタシアは鹿を撫でてから、その背に乗る。
ファナもそんなアナスタシアに続くように、自分の鹿に乗る。
「そうだな。結局どうするのかはダスカー様が決めるんだし」
レイがここで何を考えても、結局のところそれを決めるのはダスカーだ。
そうである以上、ここでレイが考えごとをするのは半ば無意味だろう。
だからこそ、アナスタシアに関係することはダスカーに丸投げしようと考え、レイもセトの背に乗る。
ヴィヘラが自分の後ろに乗ったのを確認してから、レイはセトの首筋を撫でながら、声を掛ける。
「よし、セト。行ってくれ。樵達の様子を見ていきたいから、そっちを通ってくれよ」
「グルゥ!」
レイの言葉にセトは返事をし、そのまま森の中を走り始める。
アナスタシアとファナを乗せた二頭の鹿は、そんなセトから少し離れて後を追う。
……以前よりは大分セトに慣れたが、それでもまだ完全に慣れたという訳ではないのだろう。
(馬なんかも、最初はセトを怖がるけど、何だかんだかとそれなりに時間が経過すれば慣れるんだけどな。人に調教された馬と野生の鹿の違いか?)
アナスタシア達を乗せている鹿を見ながら考え……やがて、森の中でも見覚えのある場所が幾つかあった。
樵達が木を伐採している場所が近付いてきた証だったが、レイが予想していたよりも木の伐採は進んでいない。
もっとも、それは恐らく自分がいなかったからだろうということくらいは、レイにも予想出来たが。
ミスティリングを持つレイがいない以上、どうしても伐採した木の運搬には時間がかかる。
他の仕事でもレイやセトという存在はかなり時間を短縮していたのを考えると、この木の運搬は一番レイの力が必要となる仕事だろう。
樵達が幾らこの森の木を伐採しても、運ぶのに時間が掛かれば、それだけこの森の伐採は進まない。
いや、樵達なら木の伐採を続けるといったことは出来るかもしれないが……言ってみれば、それだけでしかないのも事実なのだ。
伐採された木を森の一部に置いておくにしても、その木の重量を考えれば、運ぶだけでも一苦労なのは間違いないのだから。
そんなことを考えながら、森の中を進んでいると……
「うおっ!」
いきなり数人の冒険者が姿を現し、レイ達を見て驚きの声を上げる。
……それいでいながら、咄嗟に持っていた武器を構えたのは、冒険者らしい仕草だろう。
「……何だ、レイ達か。驚かすなよ。てっきり、また何かあったのかと思ったじゃねえか」
短剣を手にした冒険者が、その切っ先を下ろしながらレイを見て安堵したように……それでいながら、不満を口に出す。
冒険者は一人ではなく、他の冒険者達も同様に咄嗟に構えた武器を下ろすのだった。