2361話
アナスタシアが精霊の卵に触れてから数十秒……見ていたレイは、その力が急速に周囲に広がっていくのが分かった。
それを行っているアナスタシア本人は、それこそ精霊の卵に触れてから具体的にどれくらいの時間が経ったのか、分からなかったのだが……外から見ているレイにしてみれば、客観的に判断することが出来るのは当然だろう。
「これは……凄いわね……」
レイの隣にいたヴィヘラもまた、精霊の卵から放たれた力を感じたのだろう。
驚きの表情を浮かべながら呟く。
ヴィヘラも、レイと同様に精霊の卵から放たれている力を感じるような能力は持っていない。
しかし、精霊の卵から放たれる力が濃密だった為に、その力を感じることが出来たのだろう。
「そうだな。……精霊の卵がこれ程のものだというのは、俺にとっても少し予想外だった。……いやまぁ、それで困ることはないからいいんだけど」
ヴィヘラに言葉を返しながら、レイが見たのは精霊の卵に触れているアナスタシアだ。
アナスタシアに、精霊の卵が発する濃密な力の悪影響が出なければいいんだが。
そんな思いで見ていたレイだったが……やがて、アナスタシアはそっと精霊の卵から手を放す。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……」
手を放した時は、そこまで疲れているようには思えなかったのだが、手を放してから数秒が経過すると、息も荒い状態で何とか呼吸を整えようとする。
近くで様子を見ていたファナは、誰よりも早くアナスタシアに駆け寄る。
そして渡されたコップの水を渡すと……アナスタシアはその水を一気に飲み干す。
精霊の卵に触れる前に、数杯の果実水を飲んでいるにも関わらず、アナスタシアはそれこそ砂漠にいた者がオアシスに到着して水を好きなだけ飲むかのように……それだけの勢いで、水を飲み干す。
なぜそこまで喉が渇いているのかといえば、顔中……そして恐らくは身体中に掻いているのだろう汗が原因なのは間違いなかった。
アナスタシアが精霊の卵に直接触れていた時間は、決して長くはない。
だが、その短い時間でアナスタシアがここまで疲労したというのは、間違いのない事実だ。
その一点を見ても、精霊の卵という存在は非常に危険だというのは明らかだろう。
(ドラゴニアスの本拠地を攻めるために移動する以上、この精霊の卵を持っていく必要があるんだけど……大丈夫か? 下手に触れると爆発する、不発弾に近いんじゃないか?)
疲れ切った様子のアナスタシアを見てそんな風に思うレイだったが、精霊の卵を発掘してしまった以上、このままここに放っておく訳にいかないのも、間違いのない事実だった。
それこそ、このままここに精霊の卵を置いてドラゴニアスの本拠地に向かえば、レイ達がいなくなった後でこの集落にやって来たドラゴニアス達が、容易に精霊の卵を入手するだろう。
少し触れただけで極度の疲労状態になっているアナスタシアを見れば、それこそドラゴニアスも迂闊に触れることが出来ないだろうというのは、容易に予想出来る。
出来るが……それはあくまでも、ある程度の判断力があるレイだからこそ、そう思えるのだ。
飢えという本能で動いているドラゴニアスにしてみれば、精霊の卵を見ても平気で触ろうとしてもおかしくはない。……それどころか、食べ物だと思って噛みつこうとしても、レイは納得出来る。
(飢えという本能によって生きているからこそ、その本能で精霊の卵を危険な存在だと判断してくれれば、こちらとしてはありがたいんだが……難しいだろうな)
これまで戦ってきたドラゴニアス達のことを思えば、精霊の卵が危険な存在だからということで、接触しないかと言われれば……正直、微妙なところだろう。
少なくても、レイが知っているドラゴニアスであれば、全く躊躇するようなことはしない筈だった。
そして精霊の卵がそのようなことになった場合、一体どうなるのかは分からない。
あるいは、牙や爪を突き立てようとしても、全く効果がなく何も起こらない。そんな可能性もあったが、最悪の場合は周辺一帯どころか、この草原そのものを破壊してしまいかねない。
そうならないようにする為には、やはりレイ達が精霊の卵を確保しておく必要があった。
ともあれ、水を飲んで汗を拭き、息も大分整ったアナスタシアに、レイは声を掛ける。
「それで、ドラゴニアスの本拠地を見つけることは出来たのか?」
「ええ。しっかりと本拠地は把握したわ。……ここからそれなりに離れている場所だけど、問題なのはそれが地下にあることでしょうね」
「……地下? いや、なるほど。そう言われてみれば納得出来るのか」
ドラゴニアスの本拠地ともなれば、当然のようにその規模はかなり巨大なものになる筈だった。
レイが今まで見たドラゴニアスの拠点は、それこそかなりの広さを持ったものがある。
拠点というのは、結局のところドラゴニアスにとっては本拠地以外の場所であり、そのような拠点よりも小さな本拠地というのは考えられない。
そうである以上、本拠地はかなりの広さを持つ筈であり……レイがセトに乗って空を飛んでいれば、当然のようにその姿を確認出来てもおかしくはなかった。
だが、その拠点が地下にあるとなれば、そう簡単に見つけられる筈もない。
しかし……レイは、ドラゴニアスの生態を蟻や蜂と似ていると、そう考えていたのだ。
だとすれば、地下にドラゴニアスの本拠地があるというのは、ある意味で納得出来るものだったのは間違いない。
(それに……地下だと、殲滅する時にこっちもそれなりにやりやすくなる)
大規模な魔法を使えば、当然のように地下が崩落する可能性があるので、そのような魔法は使えない。
地下に本拠地を構えている以上、崩落させても時間稼ぎくらいにしかならない。
だが……地下である以上、地上で魔法を使った時に比べると炎の熱は逃げにくい。
つまり、赤い鱗のドラゴニアスや指揮官級のドラゴニアスを倒すことはレイの魔法では難しいが、それ以外の色の鱗を持つドラゴニアスに対しては、レイの魔法で一掃することが可能だと思われた。
とはいえ……と、レイは視線をヴィヘラの方に向ける。
そこでは、ようやく敵の本拠地が見つかった。つまり、強敵と本気で戦うことが出来るということを喜んでいる、ヴィヘラの姿があった。
とてもではないが、レイが魔法で本拠地を一掃すると言っても、納得しそうにない人物が。
(あ、でも俺の魔法で死ぬのは雑魚だけだと言い聞かせれば、何とかなるか? 実際、金の鱗のドラゴニアスや銀の鱗のドラゴニアスは俺の魔法の中でも生き残っていたんだし)
そう判断し、レイはヴィヘラに視線を向ける。
「ヴィヘラ、敵の本拠地に到着したら、まず攻撃するのは俺だ。俺の魔法で死ぬような雑魚は、ヴィヘラが戦っても面白くないだろう?」
「それは……まぁ、そういうことにしておきましょうか」
ヴィヘラにしてみれば、圧倒的な実力差があっても自分に向かってくるドラゴニアスは、諦めるということを知らないので、そういう意味でレイが言った雑魚であっても、十分戦いを楽しめる相手だ。
だが、ヴィヘラの体力も有限である以上、戦える敵の数は限られている。
ドラゴニアスの本拠地に攻め込む以上、そこには強敵が……それこそ、ヴィヘラがまだ一度も戦ったことがない金の鱗のドラゴニアスや、場合によってはそれよりも上位の存在と戦える可能性がある。
だとすれば、レイの意見を聞く意味は十分にあった。
……レイとしては、出来れば地下に対して炎の魔法を使い、本拠地の中にいる相手を全て蒸し焼きにするか、炎によって酸欠にして可能な限り殺したいという思いもあったのだが。
それが成功すれば、地上で広範囲殲滅用の魔法を使うよりも楽に敵を倒すことが出来るのだから。
ヴィヘラはそんなレイの考えに気が付いているのか、いないのか。
ともあれ、レイの提案を素直に受け入れた。
「それで、敵の本拠地が地下にあるのは分かった。そうなると……いや、そうだからこそ、それが具体的にどこにあるのかを教えて貰う為、アナスタシアにも一緒に来て貰う必要がある。……アナスタシアはともかく、精霊の卵を一緒に移動させる必要があるんだが、どうする?」
目下のところ、実はそれが一番大きな問題なのは間違いない。
何しろ、埋まっていた精霊の卵を地上に移動させるだけでアナスタシアは極度に疲労してしまったのだ。
それだけ消耗する精霊の卵を、一体どうやって運ぶか。
一瞬、レイの中にはここに残していってもいいのでは? という考えが思い浮かんだが、ドラゴニアスがこれを求めている以上はそのような真似も出来ず、運ぶしかない。
「そう、ね。……ケンタウロスに運んで貰う、というのが一番妥当なんだと思うけど」
アナスタシアの言葉に、驚きの表情を浮かべたのは当然のようにケンタウロス達だ。
まさか、この状況で自分に話を持ってこられるとは思っていなかったらしい。
「ちょっ、本気か!?」
真っ先にそんな声を上げたのは、アスデナ。
偵察隊を率いるザイよりも先にそのように叫んだのは、それだけアナスタシアの口から出た言葉が予想外だったからだろう。
「ええ、本気よ。……安心しなさい。直接触らなければ、問題はないから。木を使って四人か六人、もしくは八人で持てるように組み立てれば、運べると思うわ」
堂々と告げるアナスタシアに、聞いていた者達はそういうものか? と疑問に思う。
そんなケンタウロス達とは違い、レイはアナスタシアの説明に何となく神輿を思い出していた。
勿論、木を使って作るにしても、そこまでしっかりとしたものではないのだろうが。
「本当に俺達が運んでも問題はないのか? ……あんたを見ると、とてもじゃないがそうは思えないんだが」
アスデナに変わって、ザイがそう尋ねる。
ザイにしてみれば、ここにいるのは全員が偵察隊の面々……つまり、自分の部下だ。
それぞれの集落から腕利きとして派遣されてきている者達だけに、ザイがそこまで責任を感じることはないかもしれない。
だがそれでも、今の状況を思えばやはり自分がどうにかしなければならないと、そのように思ってしまうのはザイにとっては当然だった。
「私が精霊魔法で包んであるから、精霊や魔力を感じられない人なら、取りあえず問題はないわ。……ただ、その手の能力がある人だと……そうね、少し酔いに近い症状が出るかもしれないわ。もっとも、直接精霊の卵に触れたりしたら、どうなるかは分からないけど」
そんなアナスタシアの言葉に、本当に信じてもいいのか? といった視線を向ける者は多い。
精霊の卵という存在の異様さを間近で見ているだけに、どうしてもアナスタシアの言葉を素直に信じるようなことは出来ないのだろう。
だが……結局そのアナスタシアの言葉に、ザイが頷く。
「分かった」
「ちょっ、おい、ザイ! いいのかよ!?」
ケンタウロスの一人が、本気か? といった様子でザイに向かって叫ぶ。
だが、ザイはその言葉に当然といった様子で頷く。
内心には色々と思うところがあるのは間違いないのだろうが、偵察隊を率いる自分がそれを顔に出すような真似は、とてもではないが出来ないと、そう判断してのことだろう。
ザイがそのような態度を取っているとなると、それに対して不満を抱いている者であっても、その不満を口に出すような真似は出来ない。
渋々とではあるが、ケンタウロス達はアナスタシアの意見に従うことにする。
……結局のところ、精霊の卵を持って移動するのは四人から八人と少数であるというのも、自分がそれに関わらなくてもいいかもしれないと、そのような思いを抱かせるには十分だったのだろう。
「よし、じゃあ早速精霊の卵を載せる台を作るぞ。材料は……集落の周辺にある塀を使えばいいか」
ドラゴニアスの襲撃によってかなりの塀が破壊されてはいるが、それでも全てが使い物にならない訳ではない。
また、足りない材料はそれこそ林の中に行けば幾らでも木がある。
(本来なら、木を乾かしたりした方がいいんだろうけど……何日も使う訳じゃないし。今日一日……もしくはドラゴニアスの本拠地までが遠かった場合は、そこに到着するまで保てばいいんだし)
そんな風に思いながら、レイは早速ケンタウロス達に準備をするように指示を出していく。
……幸いだったのは、ケンタウロスの中にはその手の作業を得意としている者がいたことか。
釘ではなく、林に生えていた蔦を使って木と木を結び、精霊の卵を運ぶ為の神輿を作るのに、三十分も掛からないのだった。