2360話
眠っていたアナスタシアが起きた……正確には起こしたのは、レイとセトが二頭の鹿とその面倒を見ていたケンタウロスを集落に連れて来てから、一時間経ったかどうかという時間だった。
この集落を発つ準備もほぼ終わり、それこそアナスタシアが起きればすぐにでも出発出来るといったようになるまで、準備を整えてから起こしたのだが……それでも、精霊の卵を発掘するという作業を行ったアナスタシアの疲れは、あまり回復していない。
体力や精神的な疲れ、そして魔力……それらを完全に回復するには、まだもっと……それこそ一晩くらいに眠る必要があるのだろうことは、レイにも何となく予想出来た。
(いや、精霊の卵から感じる力のことを考えれば、一晩どころか二晩とか……それ以上寝ないと問題じゃない感じにならないのか?)
レイは人並み外れた体力を持っているし、魔力にいたってはそれを感知する能力を持った者が見た場合、腰を抜かして混乱状態になるくらい、圧倒的なまでの魔力を持っている。
その辺を考えると、あまり経験がない以上、今のアナスタシアがどのくらい休めば完全に回復するのかというのは、分からない。
ただ、それが分からなくても今の状況を考えると、アナスタシアをそこまで長い間休ませてやることが出来ないというのも、事実だった。
精霊の卵が発掘されたのと同時に、ドラゴニアスの反応が見るからに今までとは変わった。
そうなると、夜になればどうなるか……もしくは、現在本拠地や他の拠点からこの集落に向かってきているドラゴニアスが一体どれだけの数になっているのか。
その辺の事情を考えると、ドラゴニアスの本拠地を叩くのは、可能な限り早い方がいい。
そんな訳で、レイとしても今のアナスタシアの状態には色々と思うところがあったのは事実だが、起きて貰う必要があった。
「悪いな。出来ればもっと眠らせておいてやりたかったんだが」
「……いいわよ。それが無理だから起こしたんでしょう?」
寝起きで頭がはっきりしていないというのもあるのだろうが、それと同時に体力や精神的な疲労、魔力が回復していないというのもあって、まだどこかしっかりとしていないアナスタシアだったが、レイの言葉は理解出来るのか、そう言葉を返す。
そんなアナスタシアに、レイはミスティリングの中から取りだした、冷えた果実水を渡す。
「取りあえず、これでも飲んで少し頭をすっきりさせろ。……お前には、これから色々と頑張って貰う必要がある。少しでも疲れをとってくれ」
「……そうね。分かってるわ」
レイの言葉に、アナスタシアは短く言葉を返し、受け取った果実水を飲む。
冷えた果実水は、アナスタシアの意識を少しだけ覚醒させる。
(もしかして、俺の普段の寝起きもこんな感じなのか?)
そんなアナスタシアを眺めながら、レイはそんな風に思う。
実際には、仕事をしていない時の寝起きのレイは今のアナスタシアよりも更に酷いのだが。
起きても数分……場合によっては十分近くも寝惚けて意識が朦朧としているのも、珍しい話ではないのだから。
それを知らないのは、やはり本人だからこそそこまで実感がないのだろう。
「それで、具体的にどのくらいまで回復した?」
果実水を飲み終わったアナスタシアに、レイはそう尋ねる。
レイの言葉にアナスタシアは目を閉じ、自分の身体の状況を確認する。
ゲームのようにステータスがあれば、HPやMPといったものを一目で確認できるのだが、そのようなものがない以上、当然自分の身体の状態は自分で判断するしかない。
そしてレイの目から見ても、今のアナスタシアは決して万全の状態でないのは明らかだった。
……寝る前よりは幾らか回復している様子なので、少しは安心出来たが。
(いやまぁ、この状況で精霊の卵を使って敵の本拠地を見つけられるかと言えば……難しいけど、頑張って貰うしかないしな)
そんな風にレイが思っていると、アナスタシアの側にいた鹿が起き上がる。
「ピュイ」
「あら」
その鳴き声で、ようやくアナスタシアも自分の側にいた鹿の存在に気が付いたのか、驚きの表情を浮かべ……少し離れた場所にいる、ファナともう一頭の鹿を見つけ、再度驚く。
「どうしたの?」
「その精霊の卵を発掘したら、ドラゴニアスが林の木を普通に折るようになったからな。そうなると、もう林の木をそのままにする必要もないと判断して、セトと一緒に木を折りながら移動した」
結果として簡単な道が出来上がり、二頭の鹿はそれを通ってここまでやって来た。
そう告げると、アナスタシアは納得の表情を浮かべる。
自分でも林を通ってきただけに、二頭の鹿が普通に移動するような真似は、とてもではないが出来ないと思っていたのだろう。
実際、セトが道を作らなければどうしようもなかったのは事実なのだが。
「鹿もここから普通に出ていける以上、アナスタシアがドラゴニアスの本拠地を探してくれれば、すぐに移動出来るな。……それで、どうだ? 精霊の卵の力を使って、ドラゴニアスの本拠地を見つけられそうか?」
「どうかしらね。多分大丈夫だとは思うけど、それでも初めてやるから、何とも言えないわ。実際にやってみないと、出来るかどうかは分からないと思う。それに……もし成功しても、恐らく私は戦いに参加するのは無理よ」
初めてだけに、具体的にどれくらいの消耗があるのかは分からない。
だが、精霊の卵に触れた実感として、極度の消耗状態になるのはほぼ間違いないと、そう理解したのは精霊魔法使いの勘か。
「戦いは俺とヴィヘラがやるから、安心してくれ」
そう告げるレイだったが、アナスタシアは若干……いや、かなり不満そうな表情を浮かべている。
好奇心の強いアナスタシアにしてみれば、ドラゴニアスの本拠地というのは非常に興味深い存在なのだろう。
それ以外にも、本拠地だけではなく女王……もしくは王についても、強い好奇心を抱いている。
戦いに参加出来ない以上、そのような相手を間近で見ることは出来ない。
……アナスタシアにとっては、それを見ることが出来ないというのは非常にストレスを感じることなのだろう。
レイもそれは理解しているが、だからといって限界を迎えるであろうアナスタシア達を敵の本拠地に連れていく訳にはいかない。
「悪いな」
「……しょうがないわよ」
若干不満そうながらも、レイに対してそう返すアナスタシア。
ドラゴニアスの本拠地や、敵の女王や王を間近で見ることが出来ないことに不満があったのも事実だが、だからといって今の状況ですぐに自分を全快に出来る訳ではない。
そうである以上、ここで無理を言えば……それは、ドラゴニアスに対して無駄に時間を与えることになる。
精霊の卵の力を使って敵の本拠地を見つけ、今日はぐっすりと眠って……念の為に明日も一日ゆっくり休んで、明後日に出発する。
アナスタシアにしてみれば、それが最善の行動なのは間違いないのだが、二日もドラゴニアスに時間を与えれば、それこそここにいるケンタウロス達に被害が出かねない。
好奇心が非常に強いアナスタシアだったが、だからといって自分の好奇心を満たす為にケンタウロスを犠牲にしてもいいのかと言われれば、素直に頷くことは出来ない。
犠牲になるケンタウロスが、敵対しているような相手なら、その手段を許容することも出来たかもしれないが。
だが、ここにいるケンタウロス達は、ドラゴニアスの件を解決する為にそれぞれの集落からやって来た者達だ。
全員が友好的といった訳ではなかったが、それでもアナスタシアに対して親切に接してくれる者もいるし……何より、ダムランのように自分を慕ってくれる者もいる。
そのような者達を犠牲にしてでも、問題はないのかと言われれば……当然のように、その答えは否だ。
だからこそ、レイの言葉に不承不承といった様子ではあるが、大人しく従うのだ。
諸々の状況を知った上で、それでも不承不承である辺りがアナスタシアの好奇心の強さを表しているのだが。
「じゃあ、アナスタシアが納得してくれたところで……早速、頼む。精霊の卵の力を使って、ドラゴニアスの本拠地を探せるんだよな?」
「確実とは言えないわ。恐らく可能だとは思うけど。正直なところ、私がやるよりは私よりも遙かに凄腕なマリーナを呼んできた方がいいと思うけどね」
アナスタシアも、自分がそれなりに腕の立つ精霊魔法使いであるという自負はある。
世界最強……とまでは言わないが、ミレアーナ王国の中でもトップクラスの実力を持っていると思ってはいた。
だが……それでも、とてもではないがマリーナに勝てるとは思えない。
マリーナと会った時に……いや、マリーナの家に施されていた精霊魔法を見た時、アナスタシアは本能的にそれを理解してしまった。
だからこそ、マリーナがここにいれば自分よりも精霊の卵と上手く接触出来るだろうし、その溢れ出している力もどうにか出来る。
そう思ったからこそマリーナの名前を口に出したのだが……生憎と、今からマリーナを呼んでくるのは不可能だった。
特に目印らしい目印がないこの場所で、レイがセトに乗ってエルジィンに繋がっている場所まで到着するのが難しい。
「今ここにいない以上、マリーナを呼んでくるというのが、そもそも無茶な話だろ」
「そうなんだけどね。……レイは精霊魔法使いじゃないから、この凄さが分からないのよ」
「いや、別に精霊魔法使いじゃなくても、精霊の卵から何らかのもの凄い力が発揮されてるってのは、分かるんだけどな」
魔力を感じる能力がないレイでも、精霊の卵から何かの力が発せられているのは分かる。
レイですらそうなのだから、精霊魔法使いのアナスタシアともなれば、一体どれだけの力を感じているのか。
そもそも、この林にやって来た時点でここは精霊の力が濃いと、そう言っていたのだ。
そんなアナスタシアが、その濃い力を発していた精霊の卵を間近で見て、それに触れ……といった真似をした場合、当然のようにそれは大きな負担となる。
とはいえ、アナスタシアよりも技量が上のマリーナがいない以上、精霊の卵を使ってドラゴニアスの本拠地を探るというのは、アナスタシアにやって貰うしかないのだが。
「……しょうがないわね。いつまでもこうしている訳にはいかないし、そろそろやるわよ」
「そうしてくれ」
果実水の入っていたコップを返されたレイは、若干気怠げにそう呟くアナスタシアに短く返す。
アナスタシアは最後に自分の側にいた鹿を軽く撫でると、気合いを入れ直して精霊の卵に近付いていく。
当然のように、ケンタウロス達はそんなアナスタシアを見る。
……ある程度の距離を保ちながら、だが。
ケンタウロス達にとっても、アナスタシアがこれから行うことには興味津々であると同時に、一体どのようなことが起こるのかといった恐怖もある。
だからこそ、万が一にもアナスタシアの邪魔にならないようにして……同時に、アナスタシアに何かあった時に巻き添えにならないように、ある程度の距離を取ったのだ。
実際には、精霊の力が物質化したような存在である精霊の卵に何かあった場合は、この程度の距離を取っていても意味はないのだが。
「すぅ……はぁ……すぅ……はぁ……」
アナスタシアは、周囲から向けられている視線を全く気にした様子もなく、意識を集中する為に深呼吸していく。
その集中力は驚異的なもので、アナスタシアの耳には既に周囲の者達の声は全く入っていない。
あるのは、ただ自分と目の前にある精霊の卵だけ。
そんな状態でそっと手を伸ばし……精霊魔法使いとしての能力を最大限まで活用しながら、精霊の卵の表面に触れる。
外見は巨大な黒い真珠とでも呼ぶべき形だったが、その力は桁外れの代物だ。
キンッ、と。精霊の卵に触れた瞬間、アナスタシアの頭の中に金属音が響く。
当然のようにその音が聞こえているのは、アナスタシアだけで、周囲にその声は聞こえていない。
(ここまでは問題ないわ。問題があるとすれば……ここからね)
頭の片隅で考えた瞬間、触れている場所からアナスタシアの中に精霊の力が怒濤の勢いで流れ込む。
「ぐぅっ!」
少しでも油断すれば、空気を入れすぎた風船のように破裂してしまいかねない。
圧倒的な勢いで流れ込んでくる力を、何とかいなしながらアナスタシアは更に集中していく。
そのままどれだけの時間が経ったのか、アナスタシアには分からなかった。
ほんの数秒のような気もするし、数時間……場合によっては数日だった気もする。
そんな風に思いつつ、精霊の卵から流れ込んでくる力を受け流し、上手い具合にコントロールし……やがて、精霊の卵の力は波紋状に広がっていくのだった。