2296話
朝日が地平線の向こう側から昇ってきているのが、見て分かる。
草原の上空にいるので、余計にそう思うのだろう。
レイにとっては、見慣れたようでいて見慣れない高度。
セトが空を飛ぶ時は大体高度百m程を飛んでいる。
だからこそ、レイにとってもその程度の高さであれば慣れていたのだが、高度五十m程の高度というのは、珍しかった。
……とはいえ、今のレイは四肢にある炎の輪によって空を飛ぶのをコントロールするのに精一杯で、ゆっくりと朝日を眺めるといったような真似は出来ない。
「うおっ!」
実際、朝日に目を奪われていたレイは、その瞬間にバランスを崩して右方向に飛んでいきそうになり、何とかコントロールを取り戻す。
「これ、一体どれくらいで慣れるんだろうな」
草原特有の匂いは、山の中で嗅ぐ自然の匂いとはまた違う。
そもそも、レイはここまで広い草原に来たこともなかったので、もしかしてこの匂いはそれも関係しているのかと思い……
「ぬおっ!」
再び空中でバランスを崩し、今度は地上に向かって落ちていきそうになる。
それを何とか立て直し、再び空中の移動を始める。
空中の移動だけに専念していれば、そこまでバランスを崩すようなことはない。
だが、それはあくまでもそちらに集中していればの話だ。
少し他の何かに意識を向けると、バランスを取るのが難しくなる。
(自転車とかは、一度乗れるようになればもう転んだりしないんだし……この空中の移動も、同じように慣れればいんだけどな。一体、いつになったら慣れるのやら)
移動しながらそう考えるが、今度はそこまでバランスを崩したりといったようなことはない。
この状況を出来るだけ長く続けられればいい。
そう思いながら空を飛んでいると……
「グルルルルルルゥ!」
不意に、すぐ近くからそんな鳴き声が聞こえてくる。
それが誰の声なのかは、それこそ考えるまでもなく分かった。
「セト、こっちに来てもいいのか? 見張りは?」
「グルゥ!」
レイの言葉に、セトは大丈夫! と喉を鳴らす。
セトにしてみれば、レイが空を飛んでいるのに、自分が野営地で見張りをしているというのは、かなり大変なことだった。
だが、何人かのケンタウロスが起きてきたことにより、セトは見張りから解放となったのだ。 ……ちなみに、最初はセトが見張りをやるという話をした時、それを聞いた多くの者が大丈夫なのか? と疑問の表情を浮かべていた。
だが、セトの見張りが信用に値するものだというのは、ザイが保証したことにより、皆がそれを信じる。
実際、昨夜はセトの見張りによって、敵に襲撃されるといったことはなかったのだから。
ドラゴニアスの影響で、周囲にモンスターや獣の姿がないというのも、この場合は影響してるのだろうが。
「セトは凄いよな。普通に空を飛べるんだから」
「グルゥ? グルルルゥ!」
空中で何とかバランスを取りながらレイが告げると、セトはそう? と首を傾げてから、すぐに嬉しそうに鳴き声を上げる。
セトにしてみれば、レイから褒められたのが嬉しかったのだろう。
勿論、レイに褒められるということはそれなりにある。
だが、それでもやはりレイに褒められるというのは、セトにとって非常に嬉しいことなのだ。
レイにしてみれば、空を飛ぶということでここまで自分は苦労しているのに、セトは呆気なく……それこそ、当然であるかのように空を飛んでいる。
セトはグリフォンとして生まれた以上、空を飛ぶのが得意なのは当然なのだろう。
レイもそれは分かっているのだが、今の状況を思えば羨ましいと思ってしまうのだ。
……実際には、レイとセトでは飛ぶという行為は同じでも、その方法は大きく違う。
翼を羽ばたかせて空を飛ぶセトに対し、レイの場合は空を飛ぶのではなく、無重力に近い感じで空中に浮かぶといった表現の方が正しい。
それも少し集中力がなくなってバランスを取れなくなると、どこかに向かって吹き飛んでいくように移動してしまう。
セトと空を飛ぶ方法が違う以上、セトから何らかのアドバイスを貰う……といったようなことも、今のレイには出来ない。
「グルルルルゥ」
セトはそんなレイを若干心配そうに眺めつつ、少し離れた場所を飛ぶ。
レイもそんなセトと一緒に空を飛びながら、バランスを崩さないように意識を集中しながら周囲を見る。
(バランスを崩せば急激にそっちに向かって吹き飛んでいくってことは、俺が空を飛ぶのに慣れると、いつでも好きな方向に向かって移動出来るってことだよな)
セトのように翼を使って空を飛んでいる場合、自分の思う方に向かって移動しようとすれば、当然のようにそちらに向かって身体を向ける必要がある。
だが、半ば無重力に近い状態で空を飛んでいるレイの場合は、進行方向に身体を向けなくても、好きな方に向かって移動するということが可能だった。
例えば、前を向きながら斜め後ろに飛ぶ……といったようなことも、普通に出来る。
当然の話だが、そのような真似をするにはしっかりと空を飛ぶ行為に慣れる必要があるので、そう簡単に出来ることではないのだが。
少なくても、今のレイに意図してそのような真似をするというのは……出来ないことはないが、結果として上手く空を飛ぶのをコントロールするといったようなことは出来ないだろう。
そうしてしばらくの間、レイはセトと共に空を飛ぶ練習をしていたのだが、他の皆が起きてきたのを見て、地上に降りていく。
「はぁ……相変わらず疲れるな」
空を飛んでいる間中、延々と魔力を消費し続けているのだ。
こうして魔法の行使を終えて地面に着地すれば、当然のようにその魔力は大量に消耗され、疲れて草原に横になってしまう。
まだ朝だからか、そこまで強烈な草の匂いは感じない。
寧ろ、どこか涼しげな……と、そう表現してもいいような感じすらしている。
普段のレイを知っている者にしてみれば、ここまで露骨にレイが疲れを見せているというのは、驚きでしかないだろう。
莫大な……それこそ、魔力を隠蔽する効果のある新月の指輪を外した場合、魔力を感じる者がいれば間違いなく圧倒され、驚き、何も言えなくなるような魔力を持つレイが、この有様なのだ。
本来なら炎に関係が非常に薄い魔法を、大量の魔力で無理矢理使っている代償が、現在のレイの状態だった。
……これがレイだからこの程度の疲れで何とかなっているが、もし普通の魔法使いがこのような真似をすれば、それこそ魔力を即座に全て消費し、それでも足りずに最終的には命すら消費するようなことなりかねない。
あるいは、そもそも魔力が足りなくて魔法が発動しないか。
「ふぅ……よし」
乱れていた息を整え、寝転がっていた草の上から立ち上がる。
すると、興奮した様子で走っているドルフィナの姿に気が付く。
魔法に対して強い興味を持つドルフィナだけに、レイが空を飛んでいたのを見て寝起きにも関わらず興奮したのだろう。
昨日レイが空を飛ぶのは見たのだが、実際に飛んでいる時間はそう長いものではなかった。
結果として、今回の一件はドルフィナにとって非常に大きなものだったのだろう。
レイとしては、そこまで気にするようなものか? と思わないでもなかったのだが、ドルフィナの性格を考えれば、すぐにしょうがないかと納得してしまう。
「どうしたんだ?」
「いや、空を飛んでいるレイを見たから、急いで来たんだよ。……それにしても、私が見た感じでは、十分自由に空を飛んでいるように見えたけど」
ドルフィナにしてみれば、そのように思えたのだろう。
だが、実際に空を飛んでいるレイとしては、その言葉に頷くような真似は出来なかった。
……勿論、最初に使った時に比べれば間違いなく空を飛ぶ技術は上がっている。
それはレイも理解していたが、現在の状況で十分に満足出来るかと言われれば、その答えは否だ。
少なくても、レイとしては自由に空を飛びながらデスサイズと黄昏の槍を使って戦うといったようなことをするのが実戦でこの魔法を使う最低条件となる。
「まだまだだな。空を飛んでいる最中に集中を欠いたりバランスを崩すと、すぐにどこかに飛んでいくし」
そう告げるレイの言葉に、ドルフィナはそういうものなのかと納得する。
ドルフィナも、お婆と同じように地面のすぐ上に浮かぶ魔法は使えるのだが、それはあくまでも地上のすぐ上を移動出来るだけだ。
レイ曰く、ホバー移動の魔法。
そのような魔法だけに、空を飛べるのはドルフィナにしてみれば羨ましいと思える。
……ザイを始めとして他の多くのケンタウロス達は、空を飛ぶといったようなことには強い忌避感を持つのだが、ドルフィナにはそのような忌避感はない……訳ではないのだろうが、かなり薄いらしい。
「とにかく、魔法についての話は移動中にするとしよう。今はまず朝食だな」
既に多くのケンタウロスが起きており、それぞれ朝の準備を行っている。
だが、食料は基本的にレイのミスティリングの中に収納されている以上、朝食の準備を行うことは出来ない。
そんなレイの様子に、ドルフィナも少し残念そうにしながら頷く。
今日もこれから一日中走り続けるのだ。
当然のように、朝食を抜くという選択肢は存在しなかった。
レイとドルフィナの二人とセトの一匹は、野営地に向かって歩き出す。
「腹が減ったな」
「あんな出鱈目な魔法を使って訓練している代償が空腹程度なら、随分と軽いものだと思うけどね」
魔法に詳しいからこそ、ドルフィナはレイの使っている魔法がどれだけ出鱈目なものなのかを知っている。
だからこそ、空腹程度なら随分とマシというのが、ドルフィナの正直な思いだ。
レイもその意見には賛成だった。
元々レイは大食いだけに、食費は非常に高い。
そんなレイが余計に空腹になると、一食で一体どれだけの食費が飛んでいくのか。
それこそ、レイが普通の冒険者なら食費だけで破産してもおかしくはない。
だが……幸いなことに、レイは腕利きの冒険者だし、食道楽でもある。
今まで以上に美味い料理を食べられるのなら、それこそ寧ろ大歓迎と言ってもよかった。
(これで食事の量が以前と変わらないと、どんどん痩せて……あれ? これって実はダイエット法として画期的?)
一瞬そんなことを思いつく。
この世界においても、当然のように女は痩せるということに熱心だ。
勿論男の中にも太っている者が痩せようと考える者もいるが、男と女のどちらが相対的に痩せる……ダイエットに熱心なのかと言われれば、それは当然のように後者となる。
冒険者であれば、自然と身体を動かすことも多くなるのでそう簡単に太ったりはしない。
身体を動かす分、身体がよりエネルギーを求め、それを補う為に普通の人に比べればかなり食べるようになるのだが。
ともあれ、冒険者なら太りにくいのだが、普通の人はそういう訳にもいかない。
だが、冒険者というのは基本的に命懸けの仕事だ。
特にギルムで冒険者をやるというのは、辺境であるが故に強力なモンスターがいることも多く、相応の強さが必要となる。
その危険を考えれば、モンスターに襲われることなくダイエットが出来るのはいいことなのでは?
そう思ったのだが、次の瞬間にはその意見を却下する。
何故なら、本当に今更の話だったが、このような形で魔法を発動出来るのは自分だけだと気が付いた為だ。
それ以前に、元々魔法使いというのは非常に希少な存在だ。
これは魔法使いであり、レイ程……とまではいかないが、それでも普通よりも多い魔力を持っている者でなければ出来ないダイエットなのだと。
そんな限定的な人物しか出来ないダイエット、もし人に知られれば、それこそ大きな問題となってしまう。
だからこそ、レイはすぐにそのダイエットについては忘却の彼方に送る。
「レイ、そろそろ行こうか。皆が待ってるし」
「ん? ああ、そうだな。悪い。……これだけの数の料理を作るのは大変だし、その上これからも人数が増えるのを考えると、次の集落では料理を専門にしてる人とかも用意して貰った方がいいかもしれないな」
「それは……まぁ、そうだね。最終的にどれくらいの人数になるのかは分からないけど、そういう人は多い方がいいだろうし。レイの料理にも魅力はあるけど、人数が多くなると……」
昨夜の夕食でも、レイは料理を出した。
ギルムで購入した野菜たっぷりのシチューだったが、予想外にケンタウロスの面々の評価は高かった。
……だが、この先も人数が増えるとなると、料理を出し続ければミスティリングの中の在庫がなくなってしまうかもしれないので、無理は出来ない。
そんな風に思いながら、レイは朝食の準備をするケンタウロス達に食材を出すべく急ぐのだった。