2238話
セトと水狼ははっきりと何かを感じている様子だったが、レイにはその視線の先で何が起きているのかは全く分からない。
だが、セトと水狼の様子から、冗談か何かでそのような真似をしている訳ではなく、間違いなく何らかの理由があってそのようなことをしているというのは明らかだった。
ましてや、セトと水狼が揃って見ているのは、トレントの森の中央部分。
その中央部分には広大な地下空間が存在し、そこにはウィスプがいる。
異世界から生物無生物問わずに召喚する能力を持つ、ウィスプが。
この状況でそのようなことになった以上、ウィスプに何かがあったのは確実だとレイには思えた。
(問題なのは、ウィスプに何かあった理由が……アナスタシアなのか、それともグリムなのかだな)
地下空間でウィスプの研究をしているアナスタシアは知らないだろうが、地下空間はグリムのいる研究室と繋がっている。
そうである以上、もしかしたらグリムがウィスプの研究中に何かが起こったという可能性も、決して否定は出来ないのだ。
今回の一件において、外からその辺りの判断をするのは難しい。
グリムとアナスタシア。
そのどちらが今回の一件を行ったのかは、やはり自分で直接見に行く必要があった。
そうでなくても、レイとしてはもしかしたら一度地球に行けるかもしれないとウィスプに期待してるのだ。
そんなウィスプのいる場所に何かあったと考えれば、ここでじっとしている訳にもいかない。
何があったのか。
それをしっかりと確認する必要があった。
「セト!」
「グルゥ!」
レイが叫ぶ声に、即座に反応するセト。
セトはそれだけでレイの側までやって来る。
レイはそんなセトの背に乗り、地下空間に向かう……前に、この場の責任者の騎士に声を掛ける。
「俺はちょっと様子を見てくる。多分大丈夫だと思うけど、何があっても対処出来るように準備しててくれ」
「分かった、気をつけて行ってこい」
騎士の言葉にレイは頷き、セトと共にトレントの森の中央に向かおうとし……
「ワン!」
そんなレイに待ったを掛けたのは、水狼だった。
水狼にしても、現在の住処たる湖はトレントの森の隣に存在している。
そうである以上、トレントの森で何かが起きたのであれば、それに対処しようとするのは当然だろう。
レイもそれは分かっていたが、水狼に対して首を横に振る。
「悪いが、水狼はここで待っててくれ。向こうで一体何が起きたのか分からない以上、水狼を連れてはいけない」
本当に何が向こうで起きたのか分からない以上、湖と水の紐で繋がっている水狼がどうなるか分からないのだ。
そうである以上、この世界の者に対して友好的な水狼を連れていく訳にはいかなかった。
……これがまだ、ゴブリンの集落のような相手をするのに容易いモンスターであれば、また話は別だったのだろうが。
「頼む」
「……ワウ……」
レイの言葉に、水狼は渋々とだがその言葉を受け入れる。
水狼もトレントの森の中央で何が起きているのかというのは気になるのだが、今ここで自分がもし何らかの理由で死んでしまったり、もしくはいなくなった場合、湖の扱いがどのようなことになるか分からなかったから、というのが大きい。
「じゃあ、こっちは頼んだ。取りあえず夜……いや、明日の朝まで待っても戻ってこなかったら、ダスカー様に指示を仰いでくれ。地下に行ったって言えば伝わると思う」
地下空間については、可能な限り秘密にしておく必要があるというのはレイも理解している。
だからこそ、ここでトレントの森の中央に行くといったようなことは口にせず、ダスカーに指示を仰ぐようにと伝言を残すのだ。
地下に行ったと言われれば、ダスカーもレイがトレントの森の中央に向かったというのは当然分かる筈で、何かあった時に指示を出すことも可能だろう。
(出来れば地下というのも秘密にしておきたかったんだけど、それはしょうがないしな)
地下空間と、トレントの森の中央。
そのどちらを秘密にするかと言われれば、やはり地下空間が存在するのがトレントの森の中央であるという話を秘密にした方がいいのは間違いない。
伝言を頼んだレイは、セトに合図をして走り出す。
「地面を走ってくれ」
「グルゥ?」
レイの言葉に、セトはいいの? と喉を鳴らした。
レイが急いでいるのは知っており、だからこそ空を飛んで移動した方がいいと、そう思ったのだ。
実際、セトがトレントの森に生えている木々を縫うようにして走る速度は、かなり速い。
それでも、やはり空を飛んだ方が速いというのも、間違いのない事実なのだ。
だが、トレントの森の中央に向かうというのを隠したのに、空を飛んでしまえばどこに向かうのかというのが知られてしまう。
具体的にどの方向でどのくらいの距離なのかというのは分からないだろうが、それでもウィスプの件を思えば、可能な限り秘密にしておきたいと思うのは当然だった。
「ああ」
いいのかどうかと尋ねたセトに、レイはそうやってすぐに頷く。
それを見たセトは、レイがそう言うのならと、それ以上は特に疑問を現すことなく地上を走り始めた。
ただし、その速度はアナスタシアを乗せて走っている時の速度と比べれば、圧倒的に速い。
セトもまた、現在起きている事態が並大抵のことではないというのを本能的に知っている。
そうである以上、その何かが起こった場所に急ぐというのに、躊躇う必要はなかった。
次々に流れていく景色を眺めながら、レイはセトの背を撫でる。
(ウィスプのいる地下空間で何かあったとすれば、問題なのはセトが地下空間に入ることが出来ないってことか)
地下空間に向かう通路は、かなり狭い。
レイやアナスタシア、ファナといった者達なら問題なく通ることは出来るが、それでも一列になって通ることしか出来ない。
二人並んで通ることが出来ない以上、サイズ変更のスキルを持っているセトであっても、地下空間に行くのは難しかった。
(そうなると、やっぱり今回は俺だけで地下空間に向かう必要があるのか。いや、グリムがいれば、あるいは異常の原因が分かる可能性もある……か?)
レイがそんな一縷の希望を抱いている間も、セトは地面を走ってウィスプのいる地下空間まで向かう。
少しでも早く到着出来るようにと。
途中でゴブリンを何匹か見つけたレイだったが、異常が起きる前ならともかく、今の状況ではゴブリンに構っていられるような余裕はない。
通り抜けざまに攻撃をするのでもなく、本当の意味でゴブリンを無視して進む。
セトも異常については理解している……いや、正確には水狼と共に異常を感じたのがセトである以上、レイよりももっと焦燥感を抱いていてもおかしくはなかった
それだけに、セトもゴブリンには全く構わずにトレントの森を駆け抜ける。
ゴブリンの方も、素早く移動するセトに対しては攻撃する手段がない。
何らかの武器を持っていても、その武器で攻撃するよりも前にセトは目の前を走り抜けてしまうのだから。
弓を持っているゴブリンであっても、セトを見つけた瞬間には既にその場から離れていることもあって、攻撃をするような真似は出来ない。
運よく攻撃出来たとしても、セトが走っているのはトレントの森で多くの木々が生えていて、そんな中でセトに攻撃を命中させるのは難しかった。
残念ながら、その辺のゴブリンに出来るような攻撃ではないのだ。
そんな訳で、レイとセトはゴブリンとは一切かかわるようなことはなく……運悪くセトの前に飛び出してきたゴブリンのみは、セトによって吹き飛ばされ、生えている木に身体をぶつけて全身の骨を折るといった致命傷を負ったり、首の骨を折ってそのまま死んだりもした。
そのようなことをしながら進み続け……やがて、レイとセトは地下空間に続く地下通路がある場所に到着する。
「これは……」
野営地にいた時は何も分からなかったが、ここまで間近に来るとレイもセトと水狼が何に反応したのかを理解出来た。
レイには、一般的な魔力を感じるような能力はない。
だが。そんなレイであっても、ここまで来れば異様な雰囲気を感じることは出来る。
魔力ではなく、殺気でもなく、敵意でもなく……何と表現は出来ないが、異様な感覚。
「初めての感覚だな。……ここから感じるということは、ウィスプに何か関係するんだろうけど。……セト、俺は中に行くから、周辺の探索を頼む。特に今はこの状況だから、迂闊に近寄ってきたりする奴とかはいないと思うけど。それでも万が一ってことがあるし」
「グルゥ? ……グルルルゥ……」
いつもであれば、セトはレイの言葉を素直に聞く。
だが、今のこの状況でレイを地下空間に向かわせるのは、セトから見ても非常に危険なように感じられてしまい、素直に頷くことが出来ない。
心配そうに自分を見るセトの頭を、レイは撫でる。
「安心しろ。地下空間で何がどうなってるのかは分からないが、それで俺がどうにかなると思うか? 俺の強さは、今までずっと一緒に行動してきたセトが一番知ってるだろ?」
「グルゥ……」
渋々といった様子で、喉を鳴らすセト。
実際にレイの実力を信じていないのかと言われれば、それこそセト以上にレイの実力を知ってる者はいないだろうと、セトは断言出来た。
「な? だから俺を信頼して待っててくれよ」
「グルルルゥ……グルゥ」
やがて、渋々と……本当に渋々とだが、セトはレイの言葉に頷く。
最後にセトの頭を一撫でしたレイは、そのまま地下通路に向かう。
「うわ……何なんだろな、これ」
特にこれといった危険を感じる訳ではないのだが、それでも何か妙な感じがするのは間違いない。
それを奇妙に思いつつ、レイはそのまま地下通路を進み続け……やがて、ウィスプがいる地下空間に到着する。
「……」
その空間を前に、レイは沈黙を保つ。
いや、正確には何かを言おうにも、言葉が出なかったというのが正しい。
今朝この地下空間に来た時、ここにはあったのは昨夜レイが見た時と同じ光景だった。
巨大なウィスプが存在し、離れた場所にはテーブルがあり、そのテーブルの上には様々な研究資料の類が多数置かれ、何らかの実験器具の類や干した果実や焼き固めたパン、干し肉といった保存食の類も置かれていた。
また、レイにしか分からなかったが、地下空間の中にはグリムが置いた何らかのマジックアイテムが置かれていたのだ。
だが、今レイの目の前にはそのような光景は残っていない。
いや、ウィスプはいるが、色々な物が置かれていたテーブルは既になく、代わりという訳ではないが空間には巨大な……それこそ半径三m程もある穴が空いた状態になっていた。
空間の向こう側には、この地下空間とは全く違う草原が広がっている。
予想外の光景に目を奪われたレイだったが、すぐにここにいた二人の名前を呼ぶ。
「アナスタシア! ファナ! いないのか!?」
叫ぶレイだったが、当然のように返事はない。
アナスタシアがいれば、それこそ未知の現象ということで空中に空いた穴に興味を持って調べていてもおかしくはない。
(いや、というか……もしかして、空間の穴に興味を持って向こう側に行ったとかないよな?)
空間の穴を通れば、無事に向こう側まで進めるのか。
それはレイにも分からないが、空間の向こう側からは草原の……草と土の匂いが漂ってきているのを考えれば、恐らく穴の向こう側には行けるのだろうという予想は出来る。
とはいえ、問題なのは向こうに行けはするが、戻ってこられるかといったことなのだが。
『レイ』
と、不意に聞こえてきたその声は聞き覚えのある声だった。
「グリム?」
『うむ。……些か予想外の事態が起きたようじゃな』
そう言いながら、グリムが姿を現す。
頭部が頭蓋骨なので表情は分からないが、それでも困ってる様子なのは言葉の端から理解出来た。
「何が起きたのか分かるのか?」
『いや、日中は可能な限りここに出ないようにしておるのでな。じゃが……ここにいた二人が今この場にいないということは……』
グリムの眼球のない目が、空間に空いている穴に向けられる。
グリムが何を言いたいのかは、レイにもすぐに理解出来た。
アナスタシアが自分から行ったのか、それとも空間に穴が空いた時に巻き込まれたのか。
その辺は分からなかったが。
「向こうに行った可能性が高い、か。そうなると……どうすればいい? ここでダスカー様に知らせる。……いや、駄目だな。これ以上ここに人が増えるのは不味い。そうなると……俺、か」
そう呟くレイだったが、実際には異世界に行けるということで好奇心が強く刺激されているのは間違いなかった。
向こうには未知のマジックアイテムがあるかもしれない。
そんな思いを抱き……
「よし、ちょっと俺が行ってくる」
そう、告げるのだった。