2237話
オーブラルスネークの肉を食べ終わると、レイは本格的にやることがなくなってしまう。
冒険者の何人かは、研究者達の手伝いをしている者もいるし、中には昼寝――まだ朝だが――をしている者もいる。
そんな中でも目立っているのは、やはり模擬戦だろう。
冒険者同士だけではなく、リザードマンも混ざっての模擬戦。
そんな戦いを眺めつつ、レイは何をするのかと考える。
水狼との絡みで、自分は今ここにいる。
だが、ここにいるのはいざという時に水狼とのやり取りをする為であって、何もない現在では特にやるべきこともなく、ただぼーっとしているだけだ。
何かやりたいことは? と言われても急に思いつくことはなく、研究者達……特に先程水狼について調べようとしていた男が妙な真似をしないように見張っている程度しかない。
(ダスカー様も、何だって研究者の中にああいうのを混ぜたんだろうな。それともダスカー様の前では猫を被ってたのか)
そんな風に思いながら、秋が旬の果実をミスティリングから取り出して味わう。
当然ながら、夏に向かいつつある現在の季節に食べられるような果物ではない。
だが、レイの場合はミスティリングがある。
その中に入れておけば、それこそいつでも新鮮な……収穫直後の果実を食べることも出来る。
ねっとりと甘い果肉が口の中一杯に広がっていく。
日本にいた時にマンゴーを食べたことが何度かあったが、その味に近い。
そんな味を楽しみつつ、レイは周囲を見回し……
「ぎゃあああっ!」
と、不意に聞こえてくる悲鳴。
悲鳴のした方に視線を向けると、湖から飛び出してきた魚に噛みつかれている研究者の姿があった。
レイから見ても肉食の魚だろうと思われるその魚は、研究者の腕に噛みつき、肉を喰い千切ろうとしていた。
ヒレが翼のように広くなっているのを見る限り、恐らく軽くではあるが空を飛ぶことも出来るのだろう。
トビウオに近いのか? という感想を抱くレイの視線の先で、その研究者の近くにいた冒険者が槍で魚の胴体を貫き、殺す。
幸いなことに、魚は二十cmから三十cm程度と、そこまでの大きさはない。
だからこそ、襲われた研究者も怪我はしたが、そこまで大きな怪我はしていなかったのだろう。
「あ、ありがとう。助かったよ」
「いや、気にしないでくれ、ただ、この湖にはどんなモンスターがどれだけいるのか、まだ分からない。そういう意味では、やっぱりもう少し気をつけた方がいいと思う」
「そうだね。そうさせて貰うよ」
研究者は冒険者にそう感謝の言葉を口にする。
それだけで終われば、いい光景だったのだろう。
だが研究者は、喰い千切られた場所にポーションを使うと、すぐに自分の肉を喰い千切った魚を調べ始めた。
普通であれば、自分に噛みつき、肉を喰い千切った相手を調べたりといったような真似は、そうそう出来ない。
いや、ある程度時間が経ってからなら話は別かもしれないが、こうしてすぐに調べるのだから、一連の行動を見ていた者達は、明確に驚く。
「うわぁ……凄いな、研究者って」
冒険者の一人がしみじみと呟き、他の者達もそれに同意するように頷く。
ここにいる冒険者は、全員が腕利きと言ってもいい。
だが、そんな冒険者にしても、研究者の行動は驚くべきものだったのだ。
「俺達も戦闘の途中で怪我をすれば、ああやってポーションを使ってすぐに回復するってことはあるけど……」
「研究者ってのも、色々と大変なんだろうな」
少し離れた場所で行われている会話に、レイも同意する。
もっとも、この野営地で寝泊まりしている者であれば、研究者はアナスタシアやファナといった研究者については知っているのだが。
ただし、アナスタシアはウィスプがいれば研究対象としてのめり込むが、それはあくまでも目の前にいればの話だ。
そうでない場合……それこそこの野営地に帰ってきた場合は、ウィスプを目の前にしてどのようなことをしているのかといった様子は見せない。
(ウィスプを舐めようしていたあの光景……あれを見たら、それこそ百年の恋も一発で冷めてもおかしくはないな)
なまじアナスタシアが美人だからこそ、ウィスプを舐めようとしていたあの光景は、かなり衝撃的だった。
そんな風に思いつつ、レイは湖の周辺に視線を向け……
「げ」
短く声を発する。
何故なら、燃えているスライムに近付いていく研究者を見つけてしまったからだ。
それも、水狼に執着していた研究者なのだから、燃えているスライムを見て何をしようとしているのかは大体想像が出来る。……出来てしまう、という表現の方が相応しい。
「ちぃっ!」
レイは慌てて座っていた場所から立ち上がり、燃えているスライムに……正確にはそのスライムに近付いてく研究者に向かって走り出す。
その移動速度は、レイにとっても全力に近い。
見ている者にしてみれば、レイの姿が一瞬にして消えたように思われてもおかしくはなかった。
周囲にいる者達は何が起きているのかは分からなかったが、それでもレイがそのような行動を取ったとなると、何かがあったのは間違いないと理解出来る。
他の者達がそのような思いをしているとは分からず、レイは急いで目的の場所に向かう。
研究者は、燃えているスライムに向かって近付いていく。
スライムが燃えている以上、研究者であっても迂闊に触れるようなことは出来ない。
それこそ、下手に触れても研究者が怪我をするだけですむが、それが原因で妙な騒動になったりするのは、レイとしても困る。
「何をしている!」
燃えているスライムに近付いていた研究者達は、背後から聞こえてきたその声に動きを止める。
そして振り向くと、そこにいたのはレイ。
研究者はレイの姿を見て、苛立ちを露わにする。
「何をしている? 勿論、それは研究だ。この燃えているスライムは、あの湖から出て来たのだろう? ならば、今回の私の仕事の一つでもある」
「……そのスライムは危険な存在だ」
「それは知っている。だが、このスライムも研究対象の一つであるのは間違いない。それに、このスライムがいつまで燃え続けているのかは不明なのだろう? ならば、ここでしっかりと確認しておく必要がある」
「……もしそれを確認する必要があるとしても、それはお前の仕事じゃない」
レイの言葉に、研究者は苛立ちのあまり額に血管を浮かべる。
もしそう言ったのがレイでなければ、研究者もここまで怒るようなことはなかっただろう。
だが、レイには水狼の一件で不満を抱いていた。
そのレイに再び注意されたのだから、プライドの高い研究者が大人しく従える筈もない。
「ふざけるな!」
苛立ちに任せて叫び、研究者はそのまま燃えているスライムに向かって走り出す。
このような状況では、もし燃えているスライムのいる場所まで到着したとしても、とてもではないが研究をするような真似は出来ない。
だが、半ばレイに対する意地だけで動いている男は、そんな自分の行動の矛盾には気が付いた様子がなく、走り続ける。
当然のように、レイとしても研究者にそんな真似をさせる訳にはいかない。
そうである以上、今のレイが出来るのは研究者がスライムのいる場所に到着するよりも前に取り押さえることだけだった。
そして……研究者とレイでは、当然のように身体能力が違う。
研究者が数歩進んだところでレイは追いつき、その腕を握って強引に投げ飛ばす。
「ぐべぇっ!」
一応手加減したとはいえ、それでも地面に叩きつけられた研究者の口からは、そんな悲鳴が漏れた。
本来なら、相手はダスカーがわざわざ用意した研究者だけに、そのような真似をしてもいい筈がない。
だが、この燃えているスライムに手を出そうとしたとなれば、話は別だった。
湖の中でも友好的な水狼と違い、このスライムは明確なまでの敵だった。
それこそ、知性もなく本能だけで動いており、目の前にいるのが食べられる相手なら襲い掛かるといったような性質を持つ。
今はレイの魔法で燃やされ続けている影響で動くことはないが、もし研究者が下手にちょっかいを出した場合、最悪スライムがまた自由に動き回る可能性があった。
ただでさえ、丘やちょっとした山のような大きさを持つスライムだ。
そのような存在が暴れ回すようなことになった場合、それこそ一体どんな被害が出るのか、考えたくないと思うのは当然だろう。
「ぐ……ぐが……」
地面に叩きつけられた研究者の痛みに呻く声が聞こえてくるが、レイとしては特にやりすぎたとは思っていない。
今回の一件は、それこそ下手をすればギルムが壊滅するといった結果になっていたかもしれない騒動だったのだ。
それを思えば、研究者の一人が怪我をした程度ですんだのは運がいいのは間違いなかった。
「レイ、これは一体……いや、聞かなくても予想は出来るが」
この時点になってようやく騎士が追いつき、レイに向かってそう尋ねる。
とはいえ、地面で痛みに呻いているのが水狼の時の研究者だと理解すると、何となく事態が理解出来たのだろう。
呆れと共に口を開く。
「水狼の次はこれか。……上に報告する必要があるだろうな」
「そうしてくれると、こちらとしても助かる。こういうのが何度も来たりされると、こっちとしても厄介この上ないし」
レイは騎士の言葉に心の底から同意する。
研究者である以上、好奇心が強いのはレイにも理解は出来る。
出来るが、それでも今回のような真似をされるのは非常に困るというのも事実なのだ。
ダスカーがわざわざ選んだ人材であるというのは分かっているが、それでも出来れば次の調査からは来ないで欲しいというのが、レイの正直な気持ちだった。
「取りあえず、この研究者は安静にしておいた方がいいか」
先程までは痛みで呻いていたのに、その痛みの為か、もしくは何かそれ以外の理由があってか、いつの間にか気絶していた研究者を見て、騎士が呟く。
レイとしてもその意見に反対するつもりは全くなかったので騎士が連れていくのを止めるようなことはしない。
研究者が、騎士に横抱き……いわゆるお姫様抱っこと呼ばれる抱き方で運ばれているとしても。
寧ろそんな研究者が目を覚まして暴れないよう、手足を紐で縛った方がいいのでは? とすら思ってしまうのは、迷惑を掛けられた身としては当然だろう。
もしこのまま何もせずに馬車の荷台かどこかに寝かせておければ、それこそまた何かしらの騒動を起こす可能性があるのだから。
「なぁ、そいつ……身動き出来ないように縛っておかないか?」
「いや、さすがにそれはちょっと……」
レイの提案に、騎士はそう言って首を横に振る。
騎士にしてみれば、幾ら問題のある性格であってもダスカーが派遣した相手なのだ。
そのような相手を縛るなどといった真似は出来ない。
これが、武器を持って突然暴れ出した……とでもいったことをやったのなら、話は別だったが。
レイも駄目元で、それこそ出来ればいいなという程度の提案だったので、騎士が自分の言葉を否定しても、特にそれを不満には思わない。
そうか、と。単純にそう思っただけだ。
「ともあれ、まずはこの件を何とかする必要があるだろうけど……また起きたら暴れ出すのなら、相応の対応をする必要があると思うぞ?」
「う……分かっている」
騎士にしてみれば、まさに上司と部下に挟まれる形といったところか。
ともあれ、そんな風に皆のいる場所に戻ってくる。
「グルルルルルルルルルルルルルゥ!」
「ワオオオオオオオオオオオオオオオオオオン!」
と、まるでその瞬間を待っていたかのように、セトと水狼が揃って鳴き声を上げる。
その鳴き声は、レイが無事に戻ってきたから安心して鳴き声を上げたといったようものではなく、何か得体の知れない相手に対して警戒するような鳴き声。
「何だ!?」
そんな二匹の様子から、冗談でやってるのではないと判断したレイは半ば反射的にミスティリングからデスサイズと黄昏の槍を取り出す。
レイから一瞬、もしくは数秒遅れてだが、冒険者やリザードマン達も何が起きてもいいよう、自分の武器を構える。
研究者達は、一体何が起きたのか全く分からず、セトと水狼の様子に慌てたように周囲を見回すだけだ。
この辺が冒険者と研究者の違いだろう。
だが……そのまま十数秒が経っても、何かが起きる様子はない。
それこそ、今の状況であればすぐにでも強力なモンスターでも姿を現すのかと、そう思っていたのだが。
「何があった? 悪戯か?」
いつの間にか研究者を地面に放り出して長剣を手にしていた騎士がそう呟くが、レイがセトと水狼の様子を見る限り、とても悪戯のようには見えない。
改めてセトと水狼に視線を向けたレイが見たのは、一ヶ所をじっと見て警戒をしている二匹の様子。
そんな二匹の視線の先にあるのは……
「ウィスプ?」
そう、レイは呟くのだった。