2220話
「ちょっと、何をするのよ!」
木の実をぶつけられたアナスタシアは、それを行った犯人のレイに目を吊り上げながら迫る。
普通ならアナスタシアのように美人に迫られれば嬉しいのだろうが、今のように目を吊り上げている状況で迫られても、そこは面白くない。
寧ろ異様な迫力によって、レイは数歩後退ってしまう。
それでも、何とか自分が木の実を投げた理由を説明する。
「何をするって言われても、ウィスプを舐めるなんて真似をしようとしているのを見れば、止めようとするのは当然だろ? というか、アナスタシアは何を考えてウィスプを舐めるなんて真似をするつもりになったんだ?」
アナスタシアのような美人が、舌を伸ばしてウィスプを舐めようとしていた。
その光景は、レイの目からは異様なものにしか思えなかった。
「何を言ってるのよ。ウィスプは普通じゃなくて希少種なのよ? なら、色々と試してみる必要があるでしょ?」
「……それが、味を感じてみることなのか?」
アナスタシアの言葉に、若干の……いや、かなりの呆れが混ざった様子で返し、レイの視線は仮面を被っているファナに向けられる。
仮面を被っていても、ファナはレイの視線を真っ正面から受け止めることが出来なかったのか、そっと視線を逸らす。
レイと同様に、ファナもウィスプを舐めようとしているアナスタシアの行動には疑問を持っていたのだろう。
だが、ファナとしてはアナスタシアがやるのであればと、止めるようなことはせずに見ていた。
結果として、レイが来るのがもう少し遅ければ、アナスタシアの行為は成功していただろう。
(俺が来るまでの間に、他に一体どんな真似をしたんだ? 何だか聞くのが怖いような……いや、研究者のアナスタシアがやることだ。俺がその辺をどうこうしても、多分意味はないだろ。……うん、ない筈。ないと思う。……ないといいなぁ)
そんな風に考えるレイだったが、それでもアナスタシアに自分がいない時はどんな調査をしていたのかといったことを聞く勇気はない。
取りあえず、その辺は置いておくとして、気を取り直したように口を開く。
「それより、もう夕方だぞ。そろそろ生誕の塔に帰るから、準備をしてくれ」
「え? もう? ……いえ、でも、そうね。レイが来たということは、そういうことなんでしょうけど。……思っていたよりも早かったわね」
残念そうな様子でそう告げるアナスタシア。
出来ればもっと長い時間、ウィスプの研究をしていたいのだろう。
何しろ、異世界から何かを召喚する能力を持つウィスプだ。
それこそ、研究者の興味を惹くなという方が無理だった。
だが、そちらに集中しすぎると、それこそ栄養不足、脱水症状といったようなことになってしまいかねない。
また、ウィスプが目の前にあればそちらに完全に意識を集中するアナスタシアだったが、それはあくまでも目の前にウィスプがいればの話だ。
ウィスプのいない場所では、落ち着いた大人の女らしい態度をとる。
実際に生誕の塔の側で護衛の為に寝泊まりしている者の中には、まだ会ってからそんなに時間が経っていないにも関わらず、アナスタシアを好きになった者もいるのだから。
……一応、生誕の塔の護衛に回された冒険者達というのは、ギルドから信用されている腕利きの者達なのだが、それでもやはり男女関係での話となれば別なのだろう。
「ほら、向こうでもそろそろ腹を空かせて待ってる筈だ。俺達が来るのを今か今かと、じれったく思ってると思うぞ」
「そう、ね。……じゃあ、少し残念だけど今日はこの辺にしておきましょうか。ファナ、研究データの方は?」
「纏め終わってます」
「そ。ならいいわ」
「持っていきますか?」
「うーん、夜に検討したいところがない訳でもないけど、いざという時のことを考えればここに置いていった方がいいでしょうね。この地下空間に入るのは難しいでしょうし」
それでいい? と視線で尋ねてくるアナスタシアに、レイは頷く。
(実際、ここに繋ぐ通路は隠されてある以上、ここに来るのはかなり難しいし)
ましてや、ここは広大な広さを持つトレントの森の中央だ。
ここまでやって来て、現在レイ達がいる地下空間に繋がる通路を隠している場所を見つけるなどというのは、それこそかなり難易度が高い。
(もっとも、それはあくまでも普通ならの話だけど。最初からこの地下空間と自分の研究室を繋げているとなると、通路を隠す云々って話じゃないけど)
レイがアナスタシアの提案に頷いたのは、実際にこの場所は他の者に見つけることは出来ないという思いがあったのと同時に、アナスタシアの研究データが多少なりともグリムの役に立つのではないかと、そう思った為だ。
グリムの性格を考えると、アナスタシアの研究データを見るようなことをするかどうかは、微妙なところだったが。
「じゃあ、そういうことで。……行きましょうか。レイ、今日の夕食は?」
「具沢山の野菜スープがあったな。あとは焼きうどんがあるから、それも出すつもりだ。他にもサンドイッチや串焼きなんかは出してもいいな」
その言葉に、アナスタシアは嬉しそうに笑みを浮かべる。
「焼きうどんというのは、前に一度食べたことがあったけど、かなり美味しかったわね。あれがまた食べられると思うと、嬉しいわ」
「そうか、運がよかったんだな」
「……運?」
「ああ。知っての通り、うどんはギルムが発祥の地だ。それだけにうどんを扱う屋台も多いけど、その分だけ腕が未熟な……言ってみれば不味いうどんを出す店もそれなりにある」
当然だが、不味いうどんを出す店や屋台は流行るようなことはなく、客が少なくなってやがて潰れることになるのだが。
それでも、不味いうどんを食べることになって騒動になるということはそれなりにあり、警備兵や見回りをしている冒険者達によって取り押さえられるということが多い。
だからこそ、レイはアナスタシアが不味いうどんを食べなかったことを、運がよかったと表現したのだ。
「そんなに不味いうどんがあるの?」
「まぁ、そうだな。酷いのになると小麦粉を纏めることが出来なかったりする」
うどんなのに、麺の形になっているのではなく、小麦粉の小さな塊という形になっているというのをうどんと呼んでもいいのかというのが、その話を聞いた時にレイが抱いた感想だったのだが。
「それ以外にも、麺はしっかり出来ていても、スープがうどんに合わない味付けだったり」
「それは……でも、そこまで酷い店はそう多くはないんでしょう?」
「そうだな。それは否定しない」
実際にそこまで酷い店や屋台はそう多くはなく、大体は少し不味いといったような店だったり、うどんを茹ですぎて柔らかくなりすぎていたり……といったような店や屋台が大半だ。
そのようなうどんは、美味いと絶賛出来るようなうどんではないが、食べられない程に不味いという訳でもない。
とはいえ、うどんを売っている店にしてみれば、うどん発祥の地のギルムでそのようなうどんが売られているというのは我慢が出来ないのだが。
(うどん、うどんか。そう言えば、稲庭うどんとかって乾麺だったよな。あの乾麺ってのはどうやって作るんだ? ただ、うどんを乾かせばそれで出来るのか? もし乾麺が出来れば、食の一大革命とかになってもおかしくないんだが)
うどんの乾麺が出来れば、それこそ冒険者も保存食として持ち歩くことが出来、スープの中でうどんを茹でるといったことも出来る。
勿論、仕事の途中で料理をするのが面倒だと思える者もいるので、うどんの乾麺が出て来ても料理はしないという者もいるかもしれないが。
(あ、でもうどんの乾麺とかなると、戦いの中で折れるか)
乾麺は保存に有利ではあるが、非常に折れやすい。
戦闘や……そこまでいかなくても、激しい運動をするとなれば、折れてしまってもおかしくはない。
冒険者であれば、折れたうどんでも気にしないという者が多いような気が、レイにはしたが。
「ともあれ、うどんは基本的に美味いと覚えておけばいい。……それよりも準備はもういいんだよな? 出発するぞ」
半ば無理矢理話を終えたレイに、アナスタシアとファナの二人はそれぞれ問題ないと頷く。
そうして三人で地下空間を出る……前に、レイはアナスタシアとファナの二人を先に上に行かせ、自分だけ残る。
「グリム、研究資料の方、見てもいいからな」
そう言い、聞こえていればいいけどと思いながら二人の後を追おうとした瞬間、一瞬だけグリムの腕と思われる骨の腕がレイの視線の先にある空間から伸びてきた。
「うおっ!」
そんな腕に驚いたレイだったが、その腕はレイの様子を気にした様子もなく、軽く手を振ると消えていく。
「……驚いたな」
数秒前まで骨の腕が伸びていた場所を見ながら、レイは呟く。
グリムが空間魔法を得意としているのは知っていたし、実際に転移の魔法で助けて貰ったこともある。
だが、まさか腕の一部だけを自分の前に伸ばすような真似が出来るとは、レイにも思わなかった。
(空間魔法か。……便利だよな)
特に好きな場所に瞬時に転移出来るというのは、レイから見ても非常に羨ましい。
レイもセトがいるおかげで移動速度は他の追随を許さないと言ってもいいが、それでもやはり移動には時間が掛かる。
それに比べると、転移をすれば一瞬で移動出来るのだ。
どう考えても転移魔法の方が速いのは当然だった。
「ま、取りあえず頑張ってくれ。ウィスプについての情報が少しでも多くなれば、こっちとしてもありがたいし」
まだグリムに聞こえているかどうかは分からないが、レイは短くそう言い、アナスタシアとファナの後を追う。
少し早めに歩き、地上に出る前に二人に追いつく。
「あら、少し遅かったわね? 何かあった?」
もしかしたらウィスプに何か異変があったのではないか。
そんな思いで尋ねてくるアナスタシアだったが、レイはそれに対して首を横に振る。
「いや、何かあったらいいと思ったけど、残念ながらそういうのはなかったな」
「……そう、残念ね」
言葉通り、本当に残念そうな様子を見せながら呟くアナスタシア。
だが、いつまでもアナスタシアをこのままにはしておけないだろうと判断したファナは、そんなアナスタシアの服を引っ張る。
「早く外に出ましょう。でないと、面倒なことになりそうですし」
「……面倒なこと?」
ファナの言葉に少しだけ不思議そうな様子を見せたアナスタシアだったが、ともあれここにいたままではどうしようもないと判断したのか、再び地下通路を進み始めた。
そうして表に出ると、すぐにセトがレイに向かって近付いてくる。
嬉しそうに喉を鳴らしているその様子は、離れて行動していたのは短い時間だったにも関わらず、それだけ寂しかったということを意味していた。
「セトも、本当にレイが好きね」
「グルゥ!」
アナスタシアの言葉に、セトは当然! といった様子で鳴き声を上げる。
セトにしてみれば、レイと一緒にいられればそれだけで嬉しいのだ。
だからこそ、セトは今の生活が気に入っていた。
生誕の塔の護衛として、マジックテントで休んでいるレイのすぐ側にいることが出来る。
もしくは、マリーナの家ではレイの眠っている部屋の近くにある庭で眠ることが出来る。
それに比べると、夕暮れの小麦亭ではどうしてもレイの側にいることは出来ない。
他の宿に比べて大きな厩舎があるので、それはセトにとっても嬉しいのだが、それでもレイの側にいられないというのはセトにとって非常に残念なのは間違いなかった。
「よしよし。じゃあ、いつまでもここにいる訳にもいかないし、そろそろ戻るか」
既に、周囲はかなり暗くなっている。
夕日も沈みつつあり、ましてやここはトレントの森の中だ。
どうしても森の外に比べると、暗くなりやすい。
「グルゥ!」
任せて! と喉を鳴らすセトは、軽く身を屈める。
そんなセト背に、レイ達三人は乗り……立ち上がったセトは走り出す。
最初は自分の背中に乗っている三人が問題ないかを確認するように、ゆっくりと。
だが、次第にその速度は上がっていく。
それこそ、その辺のモンスターや動物では到底追いつけない速度で森の中を走る。
木々の生えている森の中をそんな速度で走るのは、本来なら自殺行為に等しい。
だが、セトはそんなことは全く関係ないといった様子で走り続け……
(あ、ゴブリンがいたな)
森の中に数匹のゴブリンがいたのを、夜目の利くレイは見つけたが、そのゴブリン達は近くをセトが走ったというのを全く気が付いた様子もない。
明日にでも樵達やその護衛の冒険者にゴブリンのことを話しておこうと思いながら、レイは好きに走るセトに付き合うのだった。