2146話
「……何?」
レイからの説明を聞いたダスカーは、読んでいた書類から顔を上げる。
その表情に浮かぶのは、当然ながら厳しい表情だ。
わざわざ偵察をしに来たというのであれば、それは湖について知っていたと考えた方がいい。
もしくは生誕の塔に興味を持ってやって来たのか。
その詳細な理由についてはまだ分からないが、今回レイ達が捕らえた黒装束の男達を尋問すれば、何らかの情報を得られる可能性があった。
そんなダスカーに対し、レイは色々と今回の一件についての経過を口にする。
レイの説明を聞き、ダスカーは厳しい表情から不愉快そうな表情に変えた。
「そうなると、やはりまずは誰がその黒装束を雇ったのか、もしくはその飼い主なのかを調べる必要があるな」
「そうですね。正直なところ、今回の一件で他にもどうなるかが分かりませんし。また同じように偵察や……場合によっては攻撃をしてくる可能性もありますから」
「そうだな。その辺はこちらとしてもどうにかする必要がある。……全く、厄介な真似をしてくれるな」
苦々しげなダスカーの言葉。
実際に今回の一件で色々と面倒なことになるのは間違いない。
特にダスカーは、ただでさえ仕事が集中しており、一日は寝るか、食事をするか、仕事をするのかといった日が何日も続いている。
また、それだけではなく、時には仕事をしながら食事をするようなことや、仕事の量が多すぎて睡眠時間が十分に取れないということもあった。
そんな日々が続いているのに、それでもこうしてダスカーが元気なのは、本人の頑強な肉体や短時間の睡眠でも十分に疲れを取るマジックアイテムの布団を使っているから、というのが大きい。
この布団、実は去年の時点で忙しくなると分かっていたので何とか用意した代物だったのだが、それが慧眼であったということが証明された形だ。
それだけ忙しい今の状況で、更に仕事が増える……それも簡単な仕事ではなく、面倒な仕事が増える可能性が高いのだ。
とてもではないが、それは許容出来ることではない。
とはいえ、許容出来ないからといって、何もしない訳にはいかない。
「ともあれ、事情は分かった。……本来なら、そろそろレイを生誕の塔の護衛から外して別の仕事に回って貰おうと思ってたんだけどな」
その点も、ダスカーにとっては誤算だと言ってもいい。
腕が立つという意味では、レイに匹敵する冒険者も数は少ないがいる。
レイ程ではなくても、一般的に見て腕の立つ者ともなれば、ギルムだけにその人数はかなり多い。
だが……この場合、必要なのはいざという時の為の技量でもあるが、それ以上に敵が近づいてくることを感じる鋭い五感だ。
その五感という点で考えれば、レイの従魔たるセトより鋭い者と言われても、ダスカーには思い当たらなかった。
そしてセトがレイを大好きだと思っているのは、それこそセトを知っていれば誰もが知っていること内容だ。
それだけに、セトだけを生誕の塔の護衛につかせるという訳にはいかない。
ましてや、増築工事でレイの実力を必要としている者が多い以上、レイはセトに乗ってその機動力で様々な場所に顔を出したりといったことをする。
つまり、どう考えてもレイとセトはセットで動いて貰った方が得なのだ。
それこそ、下手に別行動をさせれば、それが原因で問題が起こる可能性が十分にある。
「しょうがないですね。正直なところ、俺も見張りは終わってもいいんじゃないかと思ってたんですが。昨夜のようなことがあると、何がどうなるか分かりませんし」
レイが危惧を抱いているのは、ゾゾやガガ達リザードマンをモンスター扱いして危害を加えられたりすることや、湖に金の臭いを嗅ぎつけて自分勝手な商人が湖を荒らしたりすること。そして何より……レイの魔法で未だに燃え続けているスライムに、妙な真似をする者がいないかということだ。
湖の近くで燃え続けているスライムは、スライムではあっても凶悪な能力を持つ存在であるのは間違いない。……いや、寧ろ何らかの特殊な能力がなくても、その巨体と質量だけで十分な脅威となる。
あのような巨大なスライムが、ギルムに突っ込んできたらどうなるか。
増築中ということで、結界の類も万全の状態ではない以上、最悪城壁が破壊されてギルムの中にあのスライムが飛び込みかねない。
もしそのようなことになった場合、その被害は莫大なものになるだろう。
だからこそ、レイとしては出来れば……いや、絶対にあのスライムにはちょっかいを出して欲しくはなかった。
(今の様子を見ると、あのスライムっていつまでも燃え続けてそうだよな。それこそ、湖と同様に一種の観光資源になったりしそうだし。……うん、妙なことは考えない方がいいか)
ここで下手に考えて、それが実現した場合はかなり不味いことになるだろう。
そう判断したレイは、気分を切り替える意味を込めて……同時に、少しでもダスカーの気分転換になればいいと考え、別の話題を口にする。
「そう言えば、湖の……魔石がないからモンスターと言えるかどうか分かりませんけど、巨大な魚を獲ったんですよ。それも、巨大な牙を持つ魚を」
「牙を持つ魚? そういうのは別に珍しくないだろ?」
レイの言葉に首を傾げるダスカー。
騎士として色々な場所に行き、そしてギルムの領主として様々なモンスターを見てきたダスカーにとって、牙を持つ魚など珍しくもない。
それくらいは、自分と同様……いや、ギルムに来てから数年で自分よりも多くの場所に行っているレイなら珍しくないのでは? と、そうダスカーは疑問を抱く。
だが、そんなダスカーの疑問に、レイは自信満々の様子で首を横に振る。
「恐らく、ダスカー様が想像しているような牙ではありません。牙を持つ魚ってのはいますけど、大抵そういう魚の牙は指くらいの長さですよね? けど、あの湖に出たのは……そうですね。大体……」
そう言いながら、レイは自分の肘から指先までを示す。
「これくらいの長さの牙です。それも上下にそれぞれ二本ずつで合計四本」
「……それは、また……」
レイの示した長さの牙を持つ魚となれば、それはダスカーも見たことはない。
魚ではなく動物型のモンスターであれば、そこまで大きな牙を持ったモンスターもそれなりにいる。
だが、レイが示したのは魚なのだ。
ましてや、転移してきた湖にいる生き物は魔石を持っていないのでモンスターか否かは分からず、もしかしたらその魚は普通にそのような牙を持つ魚で、モンスターではないという可能性すらあった。
そうなると、ダスカーとしてもレイの話に興味を惹かれて先を促す。
「それで? それで、その魚はどうなったんだ?」
「美味かったですよ」
「食ったのか!?」
レイの口から出た言葉が予想外だったのか、ダスカーの口から叫びが漏れる。
叫びながらも、ダスカーの口調には強い好奇心が宿っており、先程まで書類仕事をしながら難しい表情をしていた人物と同一人物だとは思えなかった。
それくらい、書類を見ている時と今の好奇心の目を光らせているダスカーでは、受ける印象が違うのだ。
「はい。湖の魚は今のところ食べても害がないと判明してますので」
「それでも、しっかりと調べた訳ではないだろうに。それで、味はどうだった?」
注意をしながら、それでも魚の味が気になったのか尋ねるダスカーに、レイは笑みを浮かべて口を開く。
「今も言ったと思いますが、美味しかったですよ」
絶品という程ではないが、魚は間違いなく美味かった。
……とはいえ、それはレイが多くの高ランクモンスターを食べているからそのような評価になっただけで、普通なら間違いなく絶品と評してもいいくらいの味ではあったのだが。
「そうか、美味かったか。羨ましいな」
ダスカーが羨ましそうな視線をレイに向けるが、ふと思い出し、口にする。
「レイが持ってきてくれたケルベロスの肉だが、昨日の夜に食ったけどもの凄い美味かったぞ。それこそ、身体の中から力が湧き出る……いや、溢れ出るような、そんな美味さだった。そのおかげで、今日の仕事も精力的にこなすことが出来る」
その言葉は嘘でも何でもなかった。
ランクBモンスターの中でも最高峰の実力を持つケルベロスの肉を食べたダスカーは、溜まっていた疲れそのものが吹き飛び、現在は非常に活力に溢れている。
ケルベロスの肉というのは、それだけの効果を持った代物なのだ。
「そうですか。それはよかったです。……こっちでも、皆が喜んで食べてましたけど、どうせなら本職の料理人が作った料理を食べたいですよね」
特にダスカーが雇っている料理人の技量は一流……いや、超一流と呼ぶべき技量を持っている。
そのような料理人がケルベロスの肉を調理した場合、一体どうなるのか。
それは、考えるまでもなく明らかだろう。
「はっはっは。魚を食べたレイが羨ましかったが、レイを羨ましがらせることも出来たようだな」
「……一応、まだその牙を持つ魚の切り身はあるんですけどね。ただ、これをダスカー様に食べさせるのは、不味いでしょうし」
「ぬぅ」
レイの言葉に反論したいダスカーだったが、実際に湖の魚を食べても平気なのかどうかは、今のところレイ達冒険者の経験からだ。
これで湖がこの世界のどこか別の場所から転移してきたのであれば、そこで獲れる魚を食べても問題はないだろうと判断出来たのだろうが……何しろ、湖が異世界から転移してきたのだ。
そこで獲れた魚に、一体どのような副作用があるのかは、しっかりと学者が調べてからではないといけない。
レイとしては、自分で食べた感じからして何も問題はないと思っているのだが、ダスカーの立場を考えれば、そのような真似をする訳にもいかないのは当然だった。
ダスカーも、現在ギルムが曲がりなりにも大きな問題もなく運営することが出来ているのは、自分がいるからこそだと、理解している。
それだけに、異世界の魚……それも明らかに普通ではない牙を持つ巨大な魚は、食べるような真似は出来ない。
「取りあえず学者とかが調べて安全だと判断したら食べられるように、俺のミスティリングの中に入れておきますね。もっとも、あの湖で結構簡単に獲ることが出来たのを考えると、獲ろうと思えばいつでも獲れるのかもしれませんが」
「そうだな。なら、その日を楽しみにしてる。……そうそう、学者の件だが」
学者という言葉をレイが口にしたので、丁度いいとダスカーはその報告をする。
「俺が騎士をしていた時に世話になった学者がいるんだが、その人と連絡が取れた。というか、増築工事をやってるということで、ギルムにやって来て顔を出してくれた」
この状況でわざわざ学者について話すという以上、それが何を意味しているのかは明らかだった。
「つまり、その人物にウィスプの調査を? けど、その……ダスカー様の目を疑う訳じゃないですけど、信頼出来る相手なんですか? 今この時にギルムにやって来るのは、ちょっと出来すぎなんじゃ……」
「レイの考えも分かる。だが、権力者を嫌ってる人だ。お前がしてる心配は問題ないだろう」
「いや、でも……ダスカー様がその学者に会ったのって久しぶりなんですよね?」
人は、数年……いや、場合によっては数日、数時間、数分ですら変わってしまうことがある。
ダスカーがその学者と親しかったのは騎士団時代だというのなら、かなり昔の話になる筈だ。
であれば、それだけ長い時間で性格が変わっている可能性というのは、否定出来ない。
だが、ダスカーはレイのそんな気持ちを読んだかのように口を開く。
「アナスタシアは、信頼出来る。それは事実だ」
「……アナスタシア? それが学者の名前ですか?」
ダスカーが世話になった学者ということで勝手にそれは男なのだろうと考えていたレイは、アナスタシアという、いかにもな女の名前に驚く。
「ああ。エルフだ」
「……ダスカー様、随分とエルフに縁がありますね」
ダスカーのことを小さい頃から知っているマリーナは、ダークエルフ。
そして騎士をしていた時に世話になった相手は、エルフ。
エルフやダークエルフというのは非常に数が少なく、そのような中でマリーナとアナスタシアという二人のエルフ族に会ったというのは、もの凄い確率だった
……もっとも、それを言うのならレイはもっと多くのエルフやダークエルフと会っているのだが。
「そうか? まぁ、そうかもしれないな。とにかく……お前もちょっと会ってみるといい。そうすれば、心配するような相手ではないと理解はして貰える筈だ」
「まぁ、ダスカー様がそう言うのなら、それは構いませんけど」
何故か妙な迫力で押してくるダスカーの言葉に、レイは頷くのだった。