2124話
「駄目ね。これ以上は無理よ」
トレントの森の中央の地下にある空間に、マリーナの言葉が響く。
調査を始めてから一時間程。
マリーナも色々と調査を頑張りはしたのだが、残念ながら特にこれといったことは判明しなかった。
判明したのは、このウィスプは本当に大人しい存在であり、それこそすぐ側までレイとマリーナが近づいても、攻撃をしてくるどころか、本当に何も行動を起こさないということだ。
ある意味で安心出来るモンスターであるということは判明したのだが、言ってみればそれだけだった。
現在もレイとマリーナはウィスプの隣にいるが、攻撃をされるようなことはない。
「うーん、その気持ちは分からないでもないけど……正直なところ、殆ど何も分かっていない状況に等しいよな?」
「それは当然よ。そもそも、私は研究者でも何でもないのよ? 私に出来るのは、あくまでも調査の真似事だって言ったでしょ? それでも、取りあえずこうして間近にいるだけだと問題がないと分かったのは、大きいと思うけど」
マリーナの説明には、レイも納得出来るところが多かった。
とはいえ、それで完全に満足した訳ではなかったが。
「その辺は、もう昨日分かってたからな。……とはいえ、俺もグリムも普通じゃないから、それが関係していた可能性もあるけど」
「あら、それを言うのなら、私だって普通じゃないわよ? 少なくても人間ではないし、世界樹の巫女として普通のダークエルフとも違うし」
「俺やグリムに比べれば、普通と言ってもいいと思うけどな」
レイの言葉に、マリーナは少し考える様子を見せる。
マリーナにしてみれば、レイとの違いがあると言われれば、納得出来るような、出来ないような、そんな微妙な感じだ。
「ともあれ、このウィスプを調べるのは、私じゃなくて本職の人に任せた方がいいわね。……問題なのは、その本職の人がいないということだけど」
「本職で信頼出来る相手がいるのなら、最初からマリーナに頼むようなことはなかったしな」
そのような人物がいないからこそ、今回の一件においてはダスカーはマリーナに任せたのだ。
……もっとも、その結果はあまりいいものではなかったが。
マリーナが調査をして得られた結果は、決して大きなものではない。
既に分かっている件を確認したといったことが大半だ。
「ダスカー様も、その辺は考えていると思うけどな。ただ、その人物に調査を任せるにはまだ時間が掛かりそうだが」
「そうね。ただ、このウィスプの重要性を考えると、本格的に調査をするのはなるべく早くした方がいいと思うけど」
レイとマリーナは、ウィスプを見ながら言葉を交わす。
こうして話をしている間も、ウィスプは特に何か反応することもなく、一ヶ所にじっと浮かんだままだ。
このウィスプの能力を考えれば、下手に動き回ったり敵対されるよりは、こうして動かないでいてくれた方がいいのは間違いない。
とはいえ、何も反応がないというのも研究する方としては困ってしまう。
「取りあえず、今日は家に帰ってきたら? レイが生誕の塔に泊まっていたのは、何が転移してくるか分からないから、護衛をしていたんでしょ?」
「それだけじゃないけど、それが大きな理由なのも間違いないな」
転移の件もそうだが、今は直接的な理由として湖の方が危険度は高い。
未だに燃え続けている巨大なスライムに、射撃武器と呼んでもいいような能力を持っているアメンボ、ワニのような長い口を持つトカゲ。
判明しているだけでも、現在はそのようなモンスター達がいる。
空中を飛ぶ光るクラゲもいるのだが、そのクラゲは敵意を持っていなかったので、取りあえず敵対すべき相手ではない。
現在判明している以外にも、まだ他のモンスターがいる可能性は否定出来なかった。
そんな未知のモンスターから皆を……そして何より、生誕の塔にいるリザードマンの子供や、卵を守る為に、レイは今まで護衛として野営をしていたのだ。
その辺りの事情を考えれば、転移が起こらなくなったからといって夜の護衛を止めるといった真似は容易には出来ない。
そうして護衛を止めた後で、もし未知のモンスターが湖から現れ、それによって多くの者が被害を受けたりすれば、それはレイに後悔を抱かせるには十分な代物だろう。
(とはいえ、久しぶりにマリーナの家でゆっくりしたいと思うのも、事実なんだよな)
マジックテントがあれば、寝心地が悪いといったことを心配する必要はない。
だがそれでも、やはりギルムの外という安心出来ない場所で眠っているのは間違いない以上、本当に心の底から安心して眠るといった真似は不可能だった。
「うーん、悩むな。……生誕の塔には、相応に腕利きがいる以上、そこまで心配する必要がないのも事実だけど」
本気ではないとはいえ、レイと模擬戦で戦ったガガがいる。
また、ガガ程ではないが、それでも他の一般的なリザードマンよりも技量が上のゾゾもいる。
それにここの護衛を任されている冒険者達は、ギルドから腕利きだと認められた者達だ。
他のリザードマン達にしても、それぞれが平均的にそれなりに強い。
それこそ、余程の相手……今も燃え続けているスライムのような、特別な個体でも来ない限りは、戦力が不足して負ける……といったことを心配する必要はない。
「ビューネも暫く会ってないから、寂しがってるわよ? 表情には出さないけど」
「いや、それって寂しがってるのは、俺じゃなくてセトに会えないからじゃないか?」
ビューネがセトやイエロといった相手を撫でる光景は、レイもこれまで幾度となく見てきている。
そうである以上、マリーナが言っているビューネが会えなくて寂しいと言っているのも、レイではなくセトのことではないかと思ってしまうのは、当然のことだった。
レイの視線が天井……正確には、地上で誰も地下通路に入っていかないように見張っているだろうセトに向けられる。
セトの大きさを考えれば、それこそグリムが空けた穴の上に寝転がって、身体で直接穴を隠すなどといった真似をしていても、不思議ではない。
「勿論それもあるでしょうけど、やっぱりレイと会えないのも寂しがってるわよ? それに、私が今日こうしてレイと一緒の時間をすごしたのに、エレーナとヴィヘラがレイに会えないというのは、正直どうかと思うし」
「あー……うん、そうだな。取りあえず今日はマリーナの家に泊まることにするよ」
そう告げるレイに、マリーナは艶然と微笑んで口を開く。
「あら、泊まるじゃなくて、帰るにしてもいいのよ? 夕暮れの小麦亭だって、実際にはもう殆ど使ってないんでしょう? 宿泊料金だって無料じゃないんだから」
本格的に自分の家に住んでみない? と、そう誘うマリーナ。
実際。その言葉が正論なのも、間違いはなかった。
今はこうして生誕の塔の近くで野営をしているし、それ以前はリザードマンの件があるとはいえ、マリーナの家に泊まっていた。
それを思えば、使っていない夕暮れの小麦亭を引き払うというのは決して間違ってはいないのだから。
現在のギルムは、仕事を求めて多くの……大量と呼ぶに相応しい者達が入り込んできている。
それこそ、去年以上に宿が足りなくなる程に。
レイが夕暮れの小麦亭を引き払えば……そしてヴィヘラとビューネも同様に部屋を引き払えば、夕暮れの小麦亭の部屋は空く。
もっとも、夕暮れの小麦亭はギルムでも有数の高級宿だ。
仕事を求め、金を稼ぐ為にギルムにやって来たような者達が、そう簡単に泊まれる宿ではない。
勿論、ギルムにやって来ているのはそのような者達ばかりではなく、裕福な商人が商売をしにやって来たりといったこともしている。
そのような者達であれば、夕暮れの小麦亭に泊まることも出来るだろう。
「料理が美味しいってことで有名でもあるけど、夕暮れの小麦亭は食堂を宿泊客以外の人でも使えるように解放してるから、美味しい料理を食べられなくなる訳じゃないでしょ?」
「それは……まぁ、否定しない」
「なら、私の家で生活しても問題ないでしょ? セトとの距離も近くなるし」
マリーナの口から出たその一言は、大きな破壊力を持っていた。
マリーナの家にも厩舎はあるが、それは本当に一応程度のものだ。
そもそもセトが夕暮れの小麦亭で厩舎にいるのは、何も知らない者達が自由に動き回っているセトを見ると驚くこともあるからというのが大きい。
それとは逆に、セトと一緒に遊びたがる者たちが多くやってきて、宿の仕事に支障が出るというのもあった。
レイ達がギルムにやって来た当初は前者が多かったのだが、ギルムに完全に馴染んでいる今となっては後者の方が多い。
それだけに、厩舎のような場所ではなく中庭で自由にセトがすごせるというのは、レイから見ても非常に魅力的だったのは間違いない。
それにマリーナの家の中庭は、精霊魔法によって冬も夏も、雨や雪、強風の中でも快適に暮らせるように調整されている。
……もっとも、セトは吹雪の中でも普通に寝ることが出来るので、快適な暮らしよりも自由に動き回れる場所があるというのが嬉しいのだが。
「取りあえず、暫くマリーナの家で暮らすのには反対しないけど、夕暮れの小麦亭もそのままにしておく」
普通であれば、レイのような真似は出来ない。
高級宿だけあって、夕暮れの小麦亭の宿泊料は相応に高いのだから。
だが、冒険者としてレイが稼いだ金は相当の量になる。
それこそ、人が数回生まれ変わっても、普通の生活をするくらいなら困らない程度に。
ましてや、レイは盗賊狩りという趣味も持っている。
盗賊達から盗賊喰いと呼ばれて恐れられる程に、多くの盗賊を殲滅してきた。
盗賊の持っているお宝の類は、基本的に倒した者が所有権を得る。
家宝の類だったりすれば、時々買い戻したいという者も現れるが。それは本当に時々の話だ。
そんな盗賊狩りでもかなり稼いでいるレイは、例え高級宿であっても、夕暮れの小麦亭に部屋を借り続けるのは何の問題もない。
「あら、そう? 残念だけどしょうがないわね」
レイの言葉に、マリーナは言葉程には残念そうな様子を見せず、そう告げる。
ここで無理にレイに言っても、よほどのことがなければレイが自分の意志を曲げないというのは理解していたからだろう。
(それに、夕暮れの小麦亭を引き払うことはなかったけど、私の家で暮らすということには賛成したんだから、それで問題はないしね)
出来れば夕暮れの小麦亭を引き払ってくれるのが最善ではあったのだが、それでも今の結果はベターではあった。
「とにかく、今日はもうこれ以上ここで調べてもどうしようもないわ。今日調べた結果はダスカーに知らせておくから、そろそろ出ましょう? ここみたいな場所にいれば、一体今がいつくらいなのかも分からないわ」
「取りあえず腹の減り具合から考えても、もう昼はすぎてると思う」
「あら、もうそんな時間? そう言えば、お腹が減ったわね。じゃあ、外に出て少し遅めの昼食にしましょうか」
レイもマリーナの意見に反対するつもりはなかったので、最後にウィスプを一瞥してから地上に続く通路に向かうのだった。
「グルゥ!」
地上に出ると、レイが近づいてきていることに気が付いていたのだろう。
セトが嬉しそうに喉を鳴らしながら、レイ達の方を見ていた。
……レイのミスティリングに入っている昼食を待っていたというのも、あるのだろうが。
(あ、そう言えば地下で考えていたように、セトが自分の身体で地下に続く道を隠すような真似はしてなかったんだな)
地下で考えたことを思い出したレイだったが、すぐにそれはどうでもいいかと考え直す。
「マリーナ、取りあえず今日はもうここに来ないだろうし、精霊魔法で地下に行けないようにしてくれないか?」
「ええ、ちょっと待ってね」
そう告げると、マリーナは小さく土の精霊に頼む。
すると、ウィスプのいる空間に続く穴が、土によって覆われて姿を消す。
草が生えていないので若干の違和感はあるものの、それでも一見しただけではわざわざここを掘り返そうと思うような者はいないだろう。
「取りあえず、私とレイ、セトが来て穴の中に入りたいと言えば、問題なく中に入れるようにはなっているわ」
「助かる。じゃあ、昼食にするか。……どこで食う? 折角だから、ここで食うか?」
「うーん、そうね。天気もいいし、それでもいいけど……セトはそれでもいい?」
「グルゥ!」
マリーナの言葉にセトは問題ないと喉を鳴らし、レイ達一行はここで食事をすることにする。
その時になって、レイは生誕の塔の護衛を任されている者達が、いつもレイが用意するような料理ではなく、普通の料理を食べることになって、不満を抱いてそうだな……と、そう思うのだった。