2104話
リザードマンの子供達が魚を生で丸囓りしているのを見て、ダスカーは湖の調査を可能な限り早く行った方がいいと判断した。
だが、湖もそうだが生誕の塔が存在するこの場所で、誰に調査を任せるかと言われれば難しいところであり……
「で、俺達に調査をしろと?」
「そうだ。勿論レイを含めてその手の調査が本職ではないというのは理解している。だから、何も完璧に調査をしろというつもりはない。あくまでも、出来る範囲での話だ」
レイの言葉に、ダスカーがそう返す。
そんなダスカーに何かを言おうとしたレイだったが、ダスカーが馬車にまで書類を積み込んで、書類仕事をしながら湖までやって来たということを聞かされてしまえば、不満を口に出来る訳もない。
現状、ギルムにいる中で誰が一番忙しいのかと言われれば、それは間違いなくダスカーであると、そう断言出来たからだ。
ましてや、レイも色々な問題をダスカーに丸投げしているという自覚がある以上、そんなダスカーからの要望とあれば、多少の無理を聞くくらいはやってもいいかという気分になる。
「つまり、生誕の塔の護衛をしながら湖の調査を可能な範囲でやる、と」
「そうなるな。当然だが、新たに仕事を追加する以上、その分の報酬はしっかりと支払う」
ダスカーにとって、現状は幾ら仕事をしても減らない程に仕事が多いのは間違いない。
それでも不幸中の幸いと言うべきか、人が大量に集まってきている関係で税収の方はいつも以上に期待出来るので、冒険者に支払う報酬に困るといったことはない。
「うーん。まぁ、実際のところ生誕の塔を襲ってくる敵は殆どいなかったので、湖の調査をやれる余裕があるかないかと言えば、あるんでしょうけど」
実際に生誕の塔を守っている中で戦った相手というのは、野生動物くらいだ。
モンスターが襲撃してくるといったことは、それこそ今朝のアメンボの一件まではなかった。
寧ろ、やるべき仕事としてはリザードマンの子供達の面倒を見ることの方が大きかっただろう。
そんな状況であった以上、本格的な湖の調査は無理でも簡単な調査……例えば、岸の側にいるような魚や貝、植物を集めるといったことは出来る。
それ以外にも、食い意地が張った者がいれば獲った魚を実際に焼いてみて食べるといった真似も出来るだろう。
魚の中には毒を持つ魚もいるのだが、全体的に見ればやはり無害な魚の方が多い。
そういう意味では、魚を食べても安全な可能性の方が高かった。
(あ、でも日本にいた時にTVでもの凄い美味い魚だけど、人間には消化出来ない? とか何とかそういう理由で、一切れとか二切れくらいしか食えない魚がいるとか何とか、見た記憶があるな。そういう意味では、この世界の人間に消化出来ない魚がいるって可能性は少なからずあるのか)
そう思いつつも、そのような魚も恐らく非常に数は少ないだろうという思いがレイにはあった。
「そうか。なら、任せた。ただし、あくまでも無理をしない範囲でだぞ」
ダスカーが何度もそうやって念を押すのは、やはりこの湖がこの世界でも、グラン・ドラゴニア帝国のある世界でもない、第三の世界からやって来た可能性が高いと思っている為だろう。
巨大なスライムやアメンボを見れば分かるように、凶悪なモンスターが存在しているのは間違いない。
であれば、他にもどのような存在がいるか分からないので、ここまで念を押しているのだ。
ここにいる冒険者は全員が優れているからこそ、生誕の塔の護衛に回されたのだが、それだけに未知の存在によって攻撃されることを思えば、ダスカーが何度となく念を押すのも当然だった。
レイもそれが分かっているので、頷く。
「はい。無理をしない範囲で調査してみます。……取りあえず俺は、セトと一緒にこの湖がどのくらいの大きさで、どんな形をしているのかを確認しようかと」
それは、空を飛ぶという能力を持つセトがいるからこその作業だ。
もしセトがいない場合は、それこそ湖の畔を歩き回ってその正確な形や広さを調べる必要があった。
もっとも、この世界においては日本のように湖が具体的にどれだけの広さなのかといったことを調べるような真似は……しないこともないが、するのは基本的に学者といったような少数の者達に限るだろうが。
「頼んだ。じゃあ。俺はそろそろギルムに戻る。仕事が色々と溜まってるだろうからな」
ダスカーがギルムを留守にした時間は、そう長い間ではない。
湖の様子を見て、レイと話をしていた時間を合わせても二時間経ったかどうかだろう。
だが、今のギルムにおいて二時間もあれば、ダスカーにしか判断出来ないような仕事が出て来るのはおかしな話ではない。
それどころか、間違いなくダスカーでなければ判断出来ない案件が上がってきているだろう。
「……大変ですね。身体には気をつけて下さい」
ダスカーの様子に、思わずといった様子でレイが告げる。
レイにしてみれば、身体を動かすことなら得意だし、本を読むといったことも好んで行う。
だが、ダスカーのように延々と書類仕事をやれと言われれば、とてもではないがそれをやれるような気はしなかった。
「はっはっは。そうだな。ただ、書類仕事ってのは書類を読むという行為を楽しめるようになれば、それなりに苦ではなくなるぞ?」
「書類を読むのを楽しむですか? そんなことが出来れば、それは書類仕事も捗るんでしょうけど」
ダスカーの言うことだからと納得したように言葉を返すレイだったが、本心としてはとてもではないが書類を読むことを楽しめるとは思えなかった。
少なくても、レイとしては書類を楽しんで処理しろと言われても絶対にお断りだと返すだろう。
しかし、ダスカーの様子を見る限りでは、とてもではないが出鱈目を言ってるようには思えない。
心の底から、書類を楽しめているように思えた。
「凄いですね」
それはお世辞でも何でもなく、心の底からの言葉。
レイにしてみれば、とても自分では書類を楽しむなどといった真似は無理だと思えたからこその言葉だ。
だが、ダスカーにしてみればギルムという辺境の領主をやる以上、このくらいのことは出来て当然という認識でしかない。
だからこそ、感嘆の声を上げるレイに、そうか? と疑問を感じる。
それでも賞賛されている以上、それを無碍にするつもりはない。
「領主をやっていれば、大体出来るようになる。……逆に言えば、この手の作業が苦になるようなら、ギルムの領主は難しいだろうな」
そう告げるダスカーだったが、実際には領主の仕事を部下に押しつけて自分は遊んでいるだけという者も少なくはない。
ダスカーにとっては、そのようなことは許容出来ないことだったが。
「そうなんですか。……ともあれ、これから早速湖の調査をしますので。ダスカー様の方でも、そういうのを専門に出来る人を探して下さい」
「分かった。すぐにとは言わないが、可能な限り早く手を回す」
幸いにも、ギルムは辺境だ。
辺境だからこそ存在するモンスターや動物、植物、鉱石等々。それ以外にも様々なものを調べる為に、学者の類はそれなりに多い。
そのような学者に声を掛ければ、湖の調査に興味を示す者の一人や二人は存在するだろう。
いや、寧ろ異世界の湖だということを説明すれば、我先にと調査を希望する者が現れてもおかしくはない。
(異世界ってのは刺激が強すぎるから、言わない方がいいか。いや、だが……ここに来るということは、燃えてるスライムや生誕の塔を見ることになるんだよな。燃えてるスライムの方は巨大なスライムだと誤魔化せるだろうが、生誕の塔は誤魔化しようがない)
リザードマンがあのような塔を作るだけの知能を持っているというのは、この世界の常識では有り得ない。
ましてや、あの塔は建てられてから相応の年月が経っているのが見れば分かる。
であれば、学者は間違いなくそちらにも興味を示すだろう。
どの学者に任せるかと考えながら、ダスカーは馬車に乗ってギルムに戻っていった。
尚、その際に後でギルドにアメンボの死体を提出するようにと言うことは忘れなかったが。
「さて、それじゃあ早速だけど手の空いてる奴で湖を少し調べるか。暇な奴は……まぁ、そうだよな」
レイの言葉が聞こえたほぼ全員が、自分が湖を調べたいと手を挙げて立候補する。
巨大なスライムやアメンボの件もあって、危険な場所なのは分かっている。分かっているが……それでも、転移してきた湖に興味を示さない者は、この場にはいなかった。
リザードマンの子供達が波打ち際で遊んでいるというのも、この場合は大きいのかもしれないが。
「取りあえず、全員が一斉にってのは無理だな。……どうする?」
レイが意見を求めたのは、騎士だ。
この場において指揮権という意味では一番上の人物。
このまま冒険者達だけで話していても、この状況では皆、自分が自分がといった様子を見せる可能性が高い。
それを思えば、やはり誰か一人に決めて貰う方がよかった。
「そうだな。生誕の塔の護衛もあるから、取りあえず半分ずつ、一定の時間が経過したら交代といった感じでいいんじゃないか?」
騎士のその言葉に、他の者達は納得する。
「ゾゾ、リザードマン達はどうするんだ?」
『泳げる者で希望者を募ろうと思っています。……ガガ兄上はやる気ですが』
ゾゾの言葉に、ガガの方を見たレイは、今にも湖に向かって突撃していきそうな様子のガガを見つける。
(もしかして、ガガも湖には興味津々なのか?)
ガガの性格を考えれば、転移してきた湖というだけでも興味を惹いてもおかしくはない。
ましてや、その湖には巨大なスライムやアメンボのモンスターが存在しているのだから。
リザードマンは寒い場所駄目なんじゃ? と張り切っているガガを見て思ったレイだったが、寒くなったら燃えているスライムに近づいて暖まればいいかと思い直す。
何気に燃え続けているスライムは、寒い時だったり火が必要な時に使い道が多いのでは? とレイは思う。
勿論、そんな真似が出来るのは燃え続けているスライムが死ぬまでの間だが。
……一晩経っても燃え続けている今、この状況がいつまで続くのかはレイにも全く想像出来ない。
それこそ、今日や明日にはスライムが燃えつきるかもしれないし、場合によっては数ヶ月、数年、十数年燃え続ける可能性もあった。
その辺りは、それこそ魔法を使ったレイであっても分からない。
「分かった。じゃあ半分ずつで。……ガガは前半に回すとして、ゾゾは他のリザードマンの希望者を半分に分けてくれ。ああ、それと湖に入って寒くなったら、燃えているスライムに近づいて暖まるといいぞ」
『え?』
レイの言葉にそう言葉を返したのは、ゾゾ……だけではなく、話を聞いていた冒険者達もだった。
「ん? どうしたんだ?」
「いや、あのスライムで暖まるという発想はなかった」
騎士の言葉に、冒険者達は同意するように揃って頷く。
それどころか、ゾゾや、ゾゾから話を聞いたリザードマン達までもが頷いていた。
レイとしては、特におかしなことを言ったつもりはなかったのだが。
ただ、燃えているスライムがそこにあるという事実は変わらない以上、どうせならそれを有効利用した方がいいのでは? と、そう思っただけで。
「そこにある以上、見えない振りをしても意味がないだろ。ともあれ、早速だけど色々と探すとするか」
そういい、レイは当然のように騎士が選んだ面々と共に湖に向かう。
そんなレイの姿を見て、あれ? と思った者もいたのだが、レイがいるというのは心強くはあっても怖かったりはしないだろうと考え、何も言わない。
「セト、じゃあ上から湖の様子をしっかりと確認するぞ」
「グルゥ!」
レイの言葉に、セトは嬉しそうに喉を鳴らしながらレイを背中に乗せ、数歩の助走で空に駆け上がっていく。
そんな一人と一匹の様子を少し羨ましそうに見ていた者もいたが、湖の調査をする方が先だと湖に向かう。
ゾゾもレイを見送った後で、ガガを含めた他のリザードマン達に声を掛けると、湖に向かう。
リザードマンの子供達は、そんな一同の姿を見てこれから何が始まるのかといったように、好奇心に輝く視線を向けるのだった。……手掴みにした魚を頭から囓りながら。
「おおう、これはまた……改めて見ると、とことん広いな」
セトの背の上で、眼下に広がる湖を眺めながら呟くレイ。
いつもは高度百m程の場所を飛んでいるのだが、今は違う。
湖全体の形をしっかりと確認する為に、いつもよりかなり上空を飛んでいた。
湖の形は大まかには楕円形に近い。
勿論、綺麗な楕円形という訳ではなく、かなり歪な場所も多かったが。
それでも、基本的には楕円形と言ってもいい形をしており、レイはそんな光景を見ながらミスティリングから取り出した紙に大まかな形を描いて行くのだった。