2089話
湖の一件は、幸いなことに……本当に幸いなことに、現在はまだ殆ど知られてはいない。
湖が転移してきたのが、生誕の塔のすぐ側というのが大きいのだろう。
生誕の塔の護衛を任されている面々は、信頼出来る冒険者ということで集められており、簡単に情報を漏らすようなことはない。
……とはいえ、それでも酒場に行って酔えば口にするだろうし、娼館で寝物語に話すといったことも起こる可能性は十分にある。
それを考えれば、湖の一件が知れ渡るのはそう遠くはないだろう。
これが生誕の塔であれば、謎の建物ということで興味を惹かれる者はいるだろうが、それでもそこまで気にするようなことはない。
だが、湖ともなれば謎の建物云々という話ではなく、生活に直結する。
当然のように、生誕の塔と比べると圧倒的に多くの者が興味を抱くだろう。
そうなれば、なし崩しに生誕の塔についても情報が漏れる事になり……多くの者が、ここにやって来ることになるのは間違いなかった。
「で、湖の一件、ダスカー様がどうするのか聞いてもいいのか?」
レイの問いに、湖の広さを眺めて気分転換をしていたアモナイは、レイの言葉で我に返る。
雄大な湖に目を奪われ、ここ最近の忙しさもすっかり忘れていたアモナイだったが、そんな状況から呼び戻されたのが若干不満ではあった。
それでも、今の状況を考えるとそのような不満を口にする訳にもいかず、アモナイは口を開く。
「そうですね。今回の一件は隠しきるのは厳しいですから、近いうちにこの湖のことは発表する必要が出て来るでしょうね。そうなると、自然と生誕の塔についても公表する必要が出て来るのですが。……リザードマンの方達が、不愉快な思いをしないことを願うばかりです」
「その辺は難しいと思うぞ。それこそ、何かを勘違いした奴は、生誕の塔に入ろうとしてリザードマンと戦いになってもおかしくはない」
リザードマンにしてみれば、生誕の塔というのは卵や子供を守る為の場所だ。
そのような場所に無断で入り込もうとする者がいれば、それこそ戦いになるのは当然だろう。
だが、この場合問題なのは生誕の塔にいるのがリザードマンであるということだ。
リザードマン……つまり、モンスター。
レイを始めとして、ゾゾやガガと接したことのある者、またある程度事情を知っている者であれば、ゾゾやガガが普通のリザードマンでないというのは理解出来る。
しかし、それを知らない者にしてみれば、何故モンスターが占拠している場所を襲うのが駄目なのかと、そのように思うだろう。
それは結果として、ギルムに悪影響をもたらす可能性もある。
ギルムの領主であるダスカーが、ギルムの住人ではなくモンスターの肩を持つのか、と。
「それに、国王派も動いているみたいだし」
「……何ですって?」
レイの口から出た言葉は、アモナイにとっても知らなかったことなのか、文官とは思えない程に鋭い視線を向ける。
アモナイにしてみれば……いや、ダスカーの部下にしてみれば、国王派というのは赤布、コボルト、巨大な目玉と、去年から今年に掛けて多大な迷惑を掛けてきた者達だ。
そうである以上、アモナイもレイの言葉を聞き流すようなことは出来ない。
「国王派が動いているというのは、どこから情報を?」
「情報というか、国王派の女……それも、自称王族に仕えているという奴が俺に接触してきたぞ。ダスカー様の方にも接触するとか、したとか、そんな風に言ってたから、てっきりその辺は理解してるんだとばかり思ってたんだが……知らなかったのか?」
「ええ。残念ながら、私は知りません。とはいえ、私も別にダスカー様の腹心の部下という訳ではない以上、知る必要がないことは教えられていないというのもあるのですが」
そういうものか、と納得するレイ。
レイも冒険者として色々な騒動に関わってきた身として、何かあった時に情報というのは持っていれば有利になることもあるが、逆に持っていることで不利になるというのも理解している。
だからこそ、今のアモナイの言葉に対し、特に何か反応するようなことはなかった。
「それにしても、国王派ですか。あそこは国王陛下の権威を後ろ盾にしてくる者が多いこともあって、厄介なんですよね」
「そうなのか? 俺も今まで何人か国王派の貴族に会ったことはあるけど、そういうことはなかったぞ」
マルカはまだ小さいから、そのような権威云々を使おうとは思わないだろうし、そもそもマルカ本人が高い魔法の才能を持っている。
誰から聞いたのかはレイも忘れたが、国王派としては将来的にマルカを貴族派におけるエレーナのような象徴にしようと考えているという噂もあった。
マルカはまだ幼いが、それでも将来的には間違いなく美人になるだろうと思われるような容姿をしている。
それだけに、国王派の象徴にするという考えは決して間違っている訳ではない。
……もっとも、それをマルカが受け入れるかどうかと言えば、話は別なのだが。
「それは運が良かったですね。もっとも、国王派はどうしても人数が多いので、それを考えると中にはまともな貴族も相応にいるんでしょうけど。ですが、駄目な方の貴族と接触するようなことがあった場合は、注意した方がいいですよ。特にレイさんのような異名持ちの冒険者は、向こうにしてみれば何とか自分の配下に欲しいと思ってもおかしくはないですし」
貴族にしてみれば、高ランク冒険者を部下にしているというのは、それだけで大きな意味を持つ。
質が量を凌駕するこの世界において、高ランク冒険者というのは、場合によっては戦場を引っ繰り返すだけの力を持っていてもおかしくはない。
それだけで他の貴族にも大きな顔を出来るというのも大きい。
ましてや、それが異名持ちの冒険者であれば更に大きな意味を持つ。
そしてレイは異名持ちであるというだけではなく、希少種でランクS相当のセトを従魔とし、この世界において現在数える程しか存在が確認されていないアイテムボックスを持つ。
貴族にとって、まさにレイという存在はどのような手段を使っても欲する存在なのだ。
そんなレイを手に入れる為に、国王派であるということの最大の利点……自分達の背後にいるのが国王であるということを使う者は多いだろう。
「王族が出て来たのならまだしも、後ろ盾の力を使う奴を相手に手加減したりするつもりはないから、安心しろ。……王族が出て来たら、場合によっては国から追われる事態になるかもしれないけど」
それは、場合によっては王族であろうと容赦をする気はないということを示していた。
「ちょっ、そんなことをしたら……」
「まぁ、大丈夫だろ。もし何かあったら、それこそベスティア帝国にでも逃げ込めばいいんだし。……ただ、ヴィヘラとマリーナはともかく、エレーナが一緒に来てくれるかが問題だな」
「だ、だ、だ、だから! そういう迂闊なことは言わないでくれ!」
焦りのあまりだろう。アモナイは普段の丁寧な言葉遣いから、若干乱れた言葉遣いになる。
そんなアモナイの肩を、レイは軽く叩く。
「冗談だよ、冗談。あくまでも冗談だって」
笑いながら告げるレイに、アモナイは安堵するが……冗談だと口にするレイの目は笑っているが、その奥には微かにだが本気の光があるのに気が付き、背筋が冷たくなる。
もし本当にそのようなこと……王族が強引にレイを自分の思い通りにしようとした場合、レイは敵対した相手を攻撃することは躊躇わないだろうと。
そして、ミレアーナ王国にいられなくなったら、ベスティア帝国に行くだろうと。
ベスティア帝国にしてみれば、レイという極めて強力な戦力が自分の国に来てくれるのなら、それを断ることはまずない。
レイの実力を、ベスティア帝国程に知っている者も多くはないだろう。
戦争ではレイとセトによって大きな被害を受け、それが勝敗に直結した。
闘技大会ではその実力を散々に発揮し、それに続いて起きた内乱では敵味方構わず、その実力を戦争の時以上に見せつけた。
そんな戦力が、自分達の国に所属するのを喜ばない者はいないだろう。
とはいえ、レイは散々ベスティア帝国を相手に暴れた分、レイに家族や友人、恋人を殺されたという者は多い。
そのような者達と上手くやっていけるかと言われれば、間違いなく無理で、必ず何らかの騒動が起きるだろう。
だが、現在のベスティア帝国の皇帝は、力こそが全てであり、自分が望む物は力で奪い取れといった信念を持つ。
ある意味で、ヴィヘラの父親らしいと言えばらしいのだろう。
「本当に、冗談なんですよね?」
「ああ。勿論」
自分の言葉に頷くレイに、アモナイはダスカーに話しておいた方がいいと判断する。
ダスカーにとっても、レイという存在は極めて強力な懐刀と言ってもいい。
色々と問題は起こすが、それ以上に助けにもなってくれるのだ。
そのような人材を、みすみす逃すといった真似は絶対にしたくない筈だった。
それこそ、場合によっては国王派と揉めてでも、レイを守るといったことをするだろう。
「さて、湖を見ることも出来たので、私はそろそろ戻りますね。まだ仕事も多く残っていますし」
そう言い、アモナイは馬車に向かう。
実際に仕事が残っているのも事実だし、湖の件をダスカーに報告する必要もある。
だが、それ以上にレイを守る為に、ダスカーと話をしておく必要があった。
「そうか? じゃあ、湖の件の報告は頼むな。俺はあっちの方をどうにかする必要があるし」
レイの視線の先では、リザードマンの子供達が嬉しそうに笑いながら遊んでいる。
今はこうして楽しく遊んでいるが、まだこの湖の調査が終わっていない以上、いつ何があるかは分からない。
そうである以上、セトだけではなく自分も何かがあった時の為に見ている必要があった。
(もっとも……)
レイは少し離れた場所で、子供達の様子を見守っている何匹か……いや、何人かだったか、とリザードマンに視線を向ける。
本来なら、モンスターを数える時は一匹、二匹といった数え方が普通だ。
だが、ゾゾやガガ達はリザードマンはリザードマンでも、この世界のリザードマンとは大きく違う。
その上でダスカーの客人という立場にいるのだから、それを区別する為にも、数を数える時は匹ではなく人で数えた方が、ゾゾ達は普通のリザードマンと違うと、そう示せる。
(それに文句を言ってくる奴もいたけど、ダスカー様が匹じゃなくて人で数えろって言ってたし、それに文句を言ってくるような奴はその辺で押していけばいいか)
ゾゾ達を普通のリザードマンとして扱いたい者達にしてみれば、ダスカーのこの対応には不満を覚えるだろう。
普通のリザードマンであれば、倒しても問題はない。
だが、ここにいるリザードマンは特別なリザードマンなのだから、そのような対応をする訳にはいかないと示されているのだから。
(後は、ダスカー様がリザードマンについて周囲に知らせるといった真似をすれば、ゾゾ達に手を出すような真似は出来なくなるんだけど)
そう思いつつ、レイの視線は湖に向けられる。
ゾゾ達についてしっかりとした公表をするにも、この湖の件がどうしても影響してくる。
もしこの湖が転移してくるようなことがなければ、もう少し早く動けたのだろうが。
あるいは、この湖が転移してくる前にリザードマンについて公表していれば、湖の件で余計に大きな騒動になっていた可能性もあるのだから、結果オーライといったところか。
「●●、●●●」
何人かのリザードマンが、湖で遊んでいる子供達に声を掛けながら、自分もまた湖に近づいていく。
それを見たアモナイは、レイに小さく頭を下げると馬車に向かう。
この湖の件を知らせるつもりなのだろうと判断し、レイは小さく手を振ってそんなアモナイを見送る。
「グルルゥ」
リザードマンの大人達がやって来た為だろう。
セトは子供達の相手をそちらに任せ、喉を慣らしつつレイの方に近づいてくる。
一緒に湖で遊ぼう? と、そう態度で示すセトだったが、レイにしてみれば一応現在は仕事中だ。
何かあった時……それこそ、湖から何らかのモンスターが出て来た時、すぐに対応する必要がある。
生誕の塔の護衛を任されている冒険者達も、湖を羨ましげに眺めてはいるが、実際に湖で遊ぶといった真似はしていない。
この場所を任されるだけに、冒険者達も相応に責任感を持っているのだろう。
もしこれが、その辺にいる適当な冒険者を雇ったのであれば、生誕の塔の護衛という仕事は放っておいて湖に突撃していたんだろう。
……レイも含め、湖に興味津々の者は多かったが。
遊ぼうと誘ってくるセトに、レイは悪いなとそっと頭を撫でてやるのだった。