2088話
「……は?」
ダスカーは、最初部下が何を言ってるのかは分からなかった。
仕事をさせすぎて、疲れているのではないかとすら思ってしまう。
そうして、自分もここ暫くは忙しかったな……と、そんな風に思い、どこかでゆっくりしたいと思いつつ、現実に向き合う決心をして冷たい果実水を口に運ぶ。
「悪いが、もう一度言ってくれ。ちょっと聞き逃してしまったみたいだ」
ダスカーの様子に、自分の言葉が本気で受け入れられていないと知った男は若干のショックを受けるが、すぐにそれも仕方がないと納得する。
そもそも、自分だって今回の一件は本当に信じているわけではない。
報告を持ってきた相手……生誕の塔に物資の輸送を頼んでいる冒険者と、更にはダスカーに仕える騎士の二人が揃って報告してきたことより、それでようやく納得したのだ。
それでも集団幻覚でも見ていたのではないかと疑ってしまったのは当然だろう。
だが、あくまでも二人はそうではないと言い張り、自分の見た光景は現実だと……生誕の塔のすぐ隣に巨大な湖が転移してきたと言い張るのだ。
そこまで言い張るのであれば、男も若干――正確には八割程――疑いながらも、ダスカーに報告をする必要があった。
そもそも、もし幻覚を見ていたり、考えられないが何らかの理由で嘘を言ってるのだとしても、誰か人を生誕の塔に向かわせれば、それが嘘かどうかはっきりする。
だからこそ、こうしてダスカーに報告を持ってきたのだ。
……その結果が、疲れているのではないかと内心で心配されることになってしまったのだが。
「はい。ダスカー様も信じられないとは思いますし、正直私も話を聞いた時は素直に信じることが出来ませんでした。ですが、報告を持ってきた者の話によると、間違いなく生誕の塔のすぐ側、トレントの森ではない場所に、巨大な湖が転移してきたとのことです」
「……転移、転移か。生誕の塔が転移してきたってだけでも驚きなのに……何だってこうも騒動が続く? いやまぁ、転移という騒動が続いてるだけと言われれば、その通りなんだろうが」
はぁ、と。
再び果実水を飲むダスカー。
爽やかな酸味と微かな甘みが口の中を潤す。
正直なところ、ここのところの騒動でダスカーは非常に疲れている。
ただでさえ忙しいところで、転移の件が連続して起こっているのだから。
「そうなりますね。……取りあえず人を派遣してはどうでしょう? そうすれば、本当に湖が転移してきたのかどうかが分かりますし」
「そうだな。そしてもし本当なら、俺が一度直接見に行った方がいいかもしれないな」
「へ?」
ダスカーの言葉が予想外だったのか、部下の男は自分でも若干間の抜けた声だと思うような声を発する。
非常に忙しい現状のダスカーが、湖を見る為にギルムを空けるというのは、色々と不味い。
それこそ、数時間程度であっても仕事はかなり溜まってしまうのは確実だった。
部下の男もそれが分かっているからこそ、驚きで間の抜けた声を上げたのだ。
「おかしいか? 生誕の塔が転移してきたというのは聞いているが、そっちもまだ見ていない。そして今度は湖が転移してきたときたんだ。なら、ギルムの領主としてその辺はしっかりと見ておく必要があるとは思わないか?」
「思うか思わないかで言えば、見た方がいいとは思いますけど……ただ、それでも現在のダスカー様の状況を考えると、難しいのでは?」
「難しいと思うから、難しくなる。やろうと思えばやれるんだよ。レイが以前何かの機会に言ってたぞ? 『為せば成る。為さねば成らぬ何ごとも』ってな。ようはそれを本気でやる意志があるかどうかだよ」
若干レイの意図したことと違っているのだが、ダスカーの言いたいことは大筋では間違っていない。
部下の男も、それを聞いてこれ以上は止められないと判断し……同時に、ダスカーにとっていい気分転換になるのも、理解は出来た。
「分かりました。今すぐにとは行きませんけど、それでも出来るだけ早く湖や生誕の塔を見に行けるように手配します。とはいえ、私だけではどうにもならないので、他の人にも色々と手伝って貰う必要があると思いますけど」
自分はダスカーの部下ではあるが、部下の中でもそこまで地位が高い訳ではない。
それこそ、自分よりもっと地位の高いダスカーの部下はいるのだから、ダスカーがギルムの外に行くというのであれば、そちらに話を通す必要もあった。
「そうか」
嬉しそうな笑みを浮かべるダスカーの姿に、部下の男は短時間ではあるが大変なことになりそうだな、と少しだけ後悔する。
とはいえ、ここ最近は忙しいダスカーだ。
気分転換の類は出来るうちにやっておいた方がいいのも、事実だった。
「ダスカー様の視察の件はともかく、まずは本当に湖が転移してきたのかを確認する必要があります。また、かなりの広さを持った湖だという話ですが、具体的にどれくらいの広さなのかも調べる必要があるでしょう」
「そうだな。まずは誰か人をやらなければならない、か。だが……今の状況で手の空いている奴はいるか?」
そう言われても、部下の男はすぐに答えることが出来ない。
当然だろう。ギルムの領主であるダスカーがこれ程までに忙しいのだ。
その部下達だって当然のように忙しい。
場合によっては、ダスカーよりも忙しい者すらいる。
騎士ならまだ幾らか……本当に幾らか余裕はあるが、今回必要なのは文官の派遣だ。
そうなると、余裕のある者というのは難しい。難しいが……現在ダスカーの前には、事情を知っている部下がいる。
じっと自分に視線を向けてくるダスカーに、部下の男は沈黙を保つ。
こうして報告を持ってきたのだが、別に忙しくない訳でもないのだ。
それこそ、自分の部屋に戻ればまだやるべき仕事は多く残っている。
外に出て気分転換をしたいという思いがあったが、もしここでそのような行動を取った場合、間違いなく残業となる。
そうならない為に、ここで仕事を引き受ける訳にはいかないのだが……
「……分かりました。行ってきます」
結局自分以外の者が行く場合、一から事情を説明しなければならないというのを考えると、素直に自分が行った方がいいと判断して引き受ける。
これで残業をすることは確定となったが、残業をするならするで利点も多い。
第一に、当然ながら報酬が増える。
また、酒こそ出ないものの、食事は普通に街中の食堂で食べるよりもランクの高い料理を食べることが出来るのも大きな利点だろう。
ダスカーの部下の中には、その食事を求めて自分から残業する為に多くの仕事を抱え込む者すらいる。
それだけ、ダスカーの雇っている料理人は凄腕だった。
もっとも、普段からダスカーもそこまで大盤振る舞いをしている訳ではない。
今は皆が忙しいからこそ、少しでも仕事の効率を上げる為の手段が美味い料理なのだ。
今日の残業が決まった男も、美味い料理を食べることが出来るのなら……と、ダスカーに一礼すると湖を確認するべく、執務室を出る。
その背中を見送ったダスカーは、再度果実水を口に運ぶ。
(湖……湖か。湖だとすれば、魚の類は存在するか? その湖がどれくらいの広さなのかにもよるが、上手くいけばギルムの食糧事情に一石が投じられるかもしれないな)
現在のギルムの食糧事情は、決して悪い訳ではない。
増築工事でギルムに暮らす者の人数が増えても、食糧不足ということにはなっていないし、味にも満足している者が多い。
しかし、それでも魚介類が少ないのも事実。
ギルム育ちの者であれば、そこまで魚に拘りがある者は多くないが、ギルムというのは様々な場所から冒険者が集まってくる場所だ。
ましてや、今は増築工事が行われており、仕事を求めて今までよりも多くの者が色々な場所から集まってきている。
そのような者達の中には、海や川、湖、沼といった場所が近くにある者も多く、そのような者達にしてみれば、魚というのは日常の食事で当然のように出て来る食材だろう。
だが、ギルムでは魚の類は場所の問題によって肉よりも高く、更には塩漬けのように保存食として入ってくる。
新鮮な魚を食べることが日常になっている者にとって、食糧事情は決して良くはない。
そういう意味で、湖というのはギルムの食糧事情に良い影響を与える可能性はあった。
……そのように、ギルムにとって利益になるようなことを考えないと、やっていられないというのが、実際のところだったのだが。
「ふぅ、取りあえず書類を片付けるか」
現実逃避をしても、書類の数は減らない。
それどころか、現実逃避をしていた分だけ書類の量は増える。
それが分かっているからこそ、ダスカーは少しでも書類を減らすべく仕事を再開するのだった。
「これは……また……」
馬車に乗って湖にやって来た文官の男は、目の前に広がる光景に唖然とする。
正確には馬車で移動している時から湖は見えていたのだが、直接こうして湖の前まで来れば、受ける衝撃も一段と大きい。
「このような代物が、本当に転移してきたのか?」
「それはそうだろ。でないと、何でここに湖が存在するんだ?」
文官の男に声を掛けたのは、レイ。
レイの隣には、リザードマンの子供達を背中に乗せたセトの姿もある。
「レイ」
「確かダスカー様の部下だったよな。名前は……アモナイ、だったか?」
「ええ、そうです」
アモナイはダスカーの部下として、今まで何度かレイと接したことがあった。
だから名前が覚えられていることに特に疑問は抱かず、軽く頷くことで挨拶代わりとする。
「それで、どう思う?」
「どう思うと言われましてもね。ただ、驚くことしか出来ませんよ。……最初にこの件を聞いたときは、てっきり幻覚か何かかと思ったんですが。もしくは、そう思いたかったというのが正しいですが」
「だろうな。自分の目で直接見ないと、そう簡単には信じられないだろ」
「グルルゥ」
レイの言葉に、セトが同意するように鳴き声を上げる。
……そんなセトの背の上から降りたリザードマンの子供達は、湖の波打ち際まで移動して遊んでいた。
草原に突如として現れた湖は、その波打ち際に砂浜まで用意してある完全仕様だ。
海ではないが、波打ち際で遊ぶという行為も十分可能ではある。
問題なのは、まだ湖について殆ど調べられていない為に、湖にどのような生物やモンスターがいるのか、分からないということか。
レイがセトに乗って上空から見た限りでは、見たことがない動物のような存在を確認出来てはいるが。
そもそも、この湖そのものが非常に広い。
レイとセトがちょっと上から見ただけで、全てを調べるというのは不可能だった。
湖の深さも、具体的にどれくらいあるのかはまだ判明していないのだ。
そうである以上、迂闊に湖の側で遊ぶのは危険だと思わないでもないが……同時に、危険な生き物がいるのならこのような浅い場所ではなく深い場所にいるのではないかという思いもあった。
ましてや、この湖はかなり広い。
それこそ学校にある一般的なプールが数千個は入るだろうというくらいに。
そのような広さだけに、岸に近い場所に危険な生物はいないのではないかというのが、レイの予想だった。
……もっとも、それはあくまでもレイの常識での話であって、実際にどうなのかは調べてみないと分からないのだが。
(それに、この湖はゾゾ達がいる世界から来たのかどうかも、怪しいしな)
レイがゾゾとガガに聞いてみたところ、グラン・ドラゴニア帝国の中にこのような湖は存在しないと言われている。
グラン・ドラゴニア帝国そのものが大国で、それこそミレアーナ王国と同じくらいの規模の国である以上、実はどこかにゾゾやガガの知らない湖があってもおかしくはないのだが。
少なくても、ゾゾとガガは知らないと言い切ったのだ。
これだけ大きな湖なら、どちらかは知っていてもおかしくはないというのに。
「あの様子を見る限りでは、取りあえず浅い場所なら危険はないようですね。……もっとも、今ここで見ているだけで全てを判断する訳にもいかないでしょうが」
「だろうな。それに、小さな生き物であっても、実は強力な毒を持つ奴とかいるし。出来れば、そういうのはいないで欲しいけど」
クラゲやトカゲ、蜘蛛、貝。
それらの中には、小さくても凶悪な毒を持つような生き物がいる。
もっとも、ここは湖なのでクラゲの心配はしなくてもいいのだろうが。
……ここが地球とは違う異世界で、更にこの湖はその異世界から見ても別の世界から転移してきたということを考えると、湖に生息するクラゲの類がいても、おかしくはないのだが。
「ともあれ、この湖は至急本格的に調査した方がいいでしょうね。上手くすれば、ギルムにとって大きな利益になるでしょうし」
文官らしい言葉に、レイは波打ち際で遊ぶリザードマンの子供達を見ながら、頷くのだった。