2080話
「へぇ、そこまで巨大な鹿が出たの? ……今までも、トレントの森にはそれなりに動物やモンスターが現れていたけど、それを考えると一気に危険になった気がするわね」
お土産として渡された鹿の肉で作った料理を食べながら、マリーナが驚いたように言う。
ダークエルフだけあって、自然には詳しいマリーナだ。
それだけに、巨大な……それこそ、セトと同じくらいの大きさを持つ鹿が姿を現したと言われれば、当然のように驚くだろう。
もっとも、幾ら規格外に大きくても結局はモンスターでも何でもない、ただの動物だ。
セトと遭遇した時点でこうして食用になるというのは、当然のことだった。
「鹿」
肋の部分、いわゆるスペアリブを塩と香辛料を掛けマジックアイテムの釜で焼き上げた料理を、手掴みで美味そうに食べながらガガが呟く。
鹿と口に出した瞬間、一瞬タンについても言うのではないかと思ったが、幸いスペアリブを食べるのに忙しく、そんな余裕はないらしい。
「本当なら、鹿の肋はもっと脂が多いんだけどね」
「そうなのか?」
「ええ。だから、焼く前に一度茹でて脂抜きをすると、美味しく食べることが出来るの。……ただ、この鹿は脂はあるけど、適度な脂でしかないわ。だから、そのまま香辛料や塩と一緒に焼けたのよ」
「ん!」
マリーナの説明に、ガガに負けないようにとスペアリブを食べていたビューネが、短く叫ぶ。
「こんな美味しい脂を捨てるのは勿体ない、だそうよ」
いつものようにヴィヘラが通訳をするが、その内容はレイにとっても少し予想外だった。
(普通なら、出来るだけヘルシーな料理を……いやまぁ、ここにいる中に普通のという言葉が似合う女はいないか)
そう考えながら、レイもまたスペアリブに手を伸ばす。
どのように下処理をしたのか、骨を掴んで肉を噛むと、あっさりと肉は骨から外れる。
それこそ一度下茹でをすれば骨から肉が離れやすくなるかもしれないが、このスペアリブにはそのような下処理はされていない。
そうなると、それ以外の何かということになるのだが……レイにはその辺りは分からなかった。
「うん、これは美味い。セトが獲ってくれたというのも、美味いと思える理由なのかもしれないな。……下手な貴族のパーティや晩餐会で出される料理よりも、私はこの方が好きだな」
姫将軍の異名を持つエレーナが、スペアリブを直接手で掴んで食べるというのは、非常に強い違和感がある。
だが、本人はそんなことは関係なく、スペアリブの味を十分に楽しんでいた。
「それで、今日は他に何もなかったの? 鹿が出て来たのは分かったけど。……ガガみたいに強いリザードマンが転移してくるとか」
「ヴィヘラには残念だったが、転移はなかったな。多分だけど、生誕の塔を転移させるのに魔力か何かは分からないが、それを使いすぎて回復してるといったところだと思う」
スペアリブを味わいつつ、レイがそうヴィヘラに返す。
ガガは自分の名前が出たことで一瞬視線をヴィヘラに向けるが、すぐに再びスペアリブに戻る。
(随分とスペアリブが気に入ったみたいだな。……美味いのは事実だけど。ゾゾは魚が好きだったけど、全てのリザードマンが魚好きって訳じゃないのか。……人間だって個人で好きな食べ物は違ってるんだし、その辺は考えてみれば当然か)
そう考えるレイだったが、お土産として持ってきた肉の量は決して多い訳ではない。
いや、普通ならこの人数がある程度満足出来る量なのだが、ここにいるのは普通以上に食う者が多い。
結果として、レイが持ってきた鹿の肉もあっという間になくなってしまう。
「んー!」
鹿肉がなくなったことに不満の声を漏らしたのは、ビューネ。
ビューネにしてみれば、レイ、セト、ガガは今日の昼に鹿の肉をしっかりと食べたのだから、夕食では自分達に……いや、自分により多くの肉を譲ってくれてもよかったと、そう主張しているのだろう。
ヴィヘラの通訳でそれを聞いたレイは、そっと視線を逸らす。
ガガがしっかりと食べていたこともあって、それに釣られたことは否定出来ない。
であれば、今度セトが獲物を獲ってきたら、ビューネにしっかりと食べさせようと、そう考える。
とはいえ、レイ達は別に狩りに行ってる訳ではなく、あくまでも護衛だ。
もし鹿の類を獲るとすれば、それはセトが偶然遭遇した時くらいのことだろう。
……だが、今日も午後からセトはリザードマンの子供を背中に乗せてトレントの森の中を歩き回っていたが、午前中のように獲物に遭遇することはなかった。
あれだけ巨大な鹿がいたのだから、他の動物もそう簡単にトレントの森に棲み着くことが出来ないというのもあるし、もし棲み着くことが出来てもセトの気配を察すれば、普通は逃げる。
セトと遭遇しても逃げず、それどころか正面から突っ込んできたあの鹿が異常だったのだ。
もっとも体長三mのセトと同じくらいの大きさの鹿だ。
肉食動物でこそないが、その巨体と立派な角があれば、それこそその辺の動物やモンスターに勝つことはそう難しくはなかっただろう。
それで自分に敵はいないと思い、セトを見つけても逃げ出さず、縄張りを荒らしたとして攻撃し、反撃されて死んだのだが。
「取りあえず、セトが遭遇したらまたお土産を持ってくるから、気長に待っててくれ。……それでいいか?」
「……ん」
レイの言葉に、ビューネは完全に納得した様子はなかったが、それでも小さく頷く。
それを見て、レイは明日は少しだけセトに何らかの獲物を獲ってくるように頼むべきか、悩む。
「ほら、ビューネ。鹿肉の料理はもう殆ど残ってないけど、それ以外の料理はまだあるわよ。私が作った訳じゃないけど、レイが買ってきてくれた料理なんだし、どれも美味しいのはお墨付きよ」
マリーナがビューネの気を鹿肉から逸らす為にそう告げるが、実際にその言葉は間違っていない。
レイが屋台や食堂といった場所で購入してミスティリングに収納するのは、基本的に自分が美味いと思ったものだけだ。
人の味覚というのは千差万別で、必ずしもレイが美味いと思った料理を全ての者が美味いと絶賛する訳でもないが、大抵の者は美味いと感じる。
そういう意味では、何だかんだとレイとの付き合いの長いこの場の面々――ガガを除く――は、レイの出す料理を不味いとは思わない。
「ん」
だからこそ、マリーナの言葉にビューネも素直に頷いたのだろう。
そんなビューネの頭を撫でるマリーナに、ヴィヘラはふと疑問を感じて尋ねる。
「いつも全部って訳じゃないけど、結構マリーナの手料理もあったわよね? 今日は何でないの?」
「今日は少し忙しくてね。帰ってくるのが遅かったのよ」
そう告げるマリーナだったが、実際にはヴィヘラが帰ってきた時にもうマリーナの姿は家の中にあった。
それがいつものことなのでヴィヘラは気にしなかったが、言われてみればいつものマリーナよりは疲れているように見えないこともなかった。
「なるほどね。けど、忙しいって、何かあった? 喧嘩沙汰は……なかったとは言わないけど、特に多かった訳でもないし」
ヴィヘラとビューネが受けている依頼は、街中の見回りだ。
増築工事で大勢集まっているだけに血の気の多い者も多く、当然のように乱闘も多くなる。
それを止めるのが、ヴィヘラの主な仕事だった。
……実際には、乱闘を止める以外にも迷っている者の案内や、何も知らない相手を騙そうとするのを止めたり、それ以外にも色々と仕事はあるのだが。
そんな中で、ヴィヘラの主な仕事は喧嘩の仲裁だった。
類い希な美貌と娼婦や踊り子のような服装をしているヴィヘラが騒動の原因になることも多いのだが、本人はそれを全く気にしていない。
ともあれ、そのように街中の見回りをしているだけに、マリーナの治療が忙しくなるような騒動があれば、耳に入る筈だった。
だが、ヴィヘラにはそんな話は伝わってきていないのに、何故かマリーナは忙しかったと口にする。
「そうなると、増築工事をしている現場で事故でもあったとか?」
「街中を見回ってるのなら、そういう大きな事故とかがあれば、ヴィヘラの耳にも入るんじゃないか?」
「そうでもないわ。場所によっては全く聞こえてこないこともあるし」
レイの質問にヴィヘラはあっさりと答える。
それが本当のことなのか、それともごかましているのかは、レイにも分からなかった。
特に追求する必要も感じなかったので、それ以上は何も言わなかったが。
代わりに、マリーナが忙しかった理由を尋ねる。
「それで、事故か何かがあったのか?」
「まぁ……そうね。事故と言ってもいいいと思うけど、それよりはやっぱり乱闘と表現した方がいいかしら」
「乱闘?」
その言葉に真っ先に反応したのは、やはりヴィヘラ。
だが、そんなヴィヘラに、今まで黙って話を聞いていたエレーナが口を開く。
「乱闘は乱闘でも、ヴィヘラが期待しているような乱闘ではないぞ。……職人同士が殴り合ったという点では乱闘だが」
「あら、何でエレーナが知ってるの?」
「貴族との面会の時に話題になってな。……原因は、トレントの森だ」
トレントの森と言われれば、そこで……正確にはトレントの森に隣接している生誕の塔で護衛をしていたレイが、気にしない筈がない。
「えっと、どういう意味だ?」
「簡単に言えば、残っているトレントの森の木材の奪い合いだな」
「あー……うん。そうか、そうなるよな」
元々、トレントの森の木材はギルムの増築工事において大規模に使われている建築資材だ。
それが生誕の塔の一件で昨日は伐採が中止となった。
ただでさえ何ヶ所も同時に増築工事を進めていて、木材が不足気味だったのに、急に伐採が行われなくなってしまったことにより、それぞれが出来るだけ多くの木材を確保しようとし、結果として他にも同じことを考えている者がいて、そのような者達が出会えば……乱闘となってもおかしくはない。
そして乱闘をすればこれもまた当然のように怪我をし、マリーナのいる治療所にやって来て……ということなのだろう。
「伐採が中止されたのは、今日だけだろ? にも関わらず、そんなことになるのか?」
「レイの言いたいことも分かるが、やはり建築資材が不足気味だったというのが、この場合は大きいのだろう」
「足りなくなるのは分かるけど、もうどうしようもない程に建築資材がなくなるって訳じゃないんだろ?」
「そうだな。だが私が聞いた話によると、余裕があるのは少しだけらしい。だからこそ、自分達で使う分は確保しておきたいのだろう」
「……今日、木の伐採をやっておけばよかったな」
エレーナの言葉に、レイはそう呟く。
生誕の塔が転移してきた場所は、トレントの森の隣だ。
つまり、レイがその気になれば木の伐採をするのは難しい話ではなかった。
とはいえ、木というのは一方向に関してだけだが、防風林的な役割も若干ではあるがあるし、モンスターや動物、何よりも以前襲ってきた傭兵のような襲撃者に対する防壁という役目もある。
(いや、防壁よりも敵が隠れて近づいてきたりすると考えると、やっぱり生誕の塔の周辺の木は綺麗に伐採してしまった方がいいのか?)
木々があると敵が近づいてくるのも見えない。
それは、生誕の塔の護衛をしている者達にとっては、非常に厄介な状況なのは事実だった。
であれば、やはり生誕の塔の周辺にある木は全て伐採し、見渡しがいい方が護衛としてはやりやすいのではないか。
そうして伐採した木は、錬金術師達に渡せば魔法的な処理をしてくれて、建築資材の不足は解決される。
元々、レイではなく樵にトレントの森の木の伐採が任されていたのは、レイが他にも色々とやるべき仕事があるというのが、その理由だった。
それこそ、セトの機動力とミスティリングを持っているレイは、増築工事では色々な場所で戦力となる。
だからこそ、レイでなくても出来る仕事ということで、樵に木の伐採が任されていた。
だが、今のレイは生誕の塔の護衛を任されている以上、基本的には暇だ。
であれば、その暇な時間を使って木々を伐採してもいいのではないか。
(そうだな。明日ギルドで聞いてみるか。ギルドとしても、増築工事が遅れるのは困るだろうし。……樵の仕事を奪うってことになるけど)
駄目なら駄目で、また何か考えよう。
そう判断し、レイは会話を続ける。
「職人同士の乱闘か。それは色々と見応えがあっただろうな」
「あのね、レイ。言っておくけど、そんなに面白いものじゃないわよ? 職人は普通よりも身体は鍛えられてるかもしれないけど、精々喧嘩慣れしてるくらいって人が多いんだもの。……とはいえ、そういう人が争うくらいに、建築資材が不足気味なのは問題だけど」
はぁ、とマリーナが憂鬱そうに溜息を吐くのを見て、レイはミスティリングの中から取り出した、冷えた果実を渡すのだった。