2078話
生誕の塔で護衛をしていたレイだったが、特にやるべきことはない。
昨日のように傭兵が襲ってくることもなければ、樵が木を伐採する為に斧を振るっている音が聞こえてくることもなければ、モンスターや動物が襲ってくるといったこともない。
本当に昨日はここで大きな戦いがあったのかと、そう思っても不思議ではないのだが……事実、何もない今はやるべきことはなかった。
勿論、何か異変が起こったらすぐに対処出来るようにはしているが、それでもやるべきことは多くはなく、言ってみればレイは暇を持て余していた。
暇を持て余しているのはレイだけではなく、他の冒険者も同じだ。
そんな中で、騎士だけはダスカーに何かを言われていたのか、周囲の様子を確認しつつもリザードマン達に言葉を教えている。
リザードマンの中にはそれなりに頭がいい、もしくは言語に才能のある者もいるのか、騎士からの授業を面白そうに受けている者が多かった。
……中には、勉強はごめんだと仲間と軽く模擬戦をしているような者もいるのだが。
レイにとって意外だったのは、勉強をしている中にガガの姿があったことだろう。
ガガの性格からして、それこそレイとの模擬戦を求めてきたりしてもおかしくはない。
だというのに、何故かガガはこうして言葉の勉強をしていたのだ。
「ガガは、グラン・ドラゴニア帝国の中では五本の指に入る強さを持ってるけど、別に馬鹿って訳じゃないんだよな?」
『そうですね。ガガ兄上本人はそこまで勉強が好きだという訳ではないですが、それでもかなり頭がいいのは間違いありません。聞いた話では、勉強を教えていた者もそこまで頭がいいのに、何故武力だけに集中するのかと、嘆いていたそうですから』
「その影響もあって、あそこまでの強さを手に入れたのか」
『レイ様がそう言うと、若干素直に納得出来ませんけどね』
レイの隣で、ゾゾが何とも言いがたい微妙な表情を浮かべる。
純粋な基礎体力という点では、リザードマンは明らかに人間よりも上だ。
また、尻尾という人間にはない部位もあり、それを第三の手や足として使うことも出来る。
そのように、言ってみれば種として人間よりも強力なリザードマンだったが、ゾゾがレイと模擬戦をしても勝つことは出来ない。
それどころか、ゾゾよりも強いガガであってもレイには勝てないのだ。
そんなレイに強さを手に入れたと言われても、ゾゾとしては微妙な気分になってしまう。
……実際には、レイの身体はゼパイルやその仲間達が技術の粋を集めて作った代物なので、とても純粋な人間とは呼べないのだが。
ただし、そんなレイ以外でもゾゾはビューネ以外の者に模擬戦で勝ったことはないし、ガガもヴィヘラとほぼ互角の戦いをしている。
誰も奥の手の類は使っていないので、それだけで本当に強いのかと言われれば、微妙なところもあるのだが。
「そうか? まぁ、それでも……」
『うおっ!』
レイが何かを言おうとした瞬間、不意に少し離れた場所で周囲を警戒していた冒険者が驚きの声を上げる。
その声を聞いた者達は、冒険者や騎士、リザードマンに関係なく、また襲撃者が出たのかと思いつつそれぞれが戦闘の準備をするが……不意に姿を現したのは、鹿の死体をクチバシで咥えたセトだった。
セトの背にはリザードマンの子供が乗っており、自慢げな表情を浮かべている。
鹿、と一言で言っても、それは明らかに普通の鹿ではない。
少なくても、レイが知っている限りでは鹿というのはセトと同じくらいの大きさ……体長三m程もないし、角も一mもない。
角と体長を合わせれば、その大きさはセトを超える。
体重はどのくらいあるのかも分からない、そんな鹿を目にして、レイは珍しくどう反応すべきか迷う。
このような鹿を獲ったことにセトを褒めればいいのか、それともリザードマンの子供を連れていながらこのような鹿と戦ったことを怒ればいいのか。
数秒迷ったレイだったが、そんなレイが行動に出るよりも早く、ガガが嬉しそうにセトへ声を掛ける。
もっとも、当然のようにその言葉はセトにも分からないし、レイにも分からない。
「ゾゾ、子供達にどこでどうやってこんな巨大な鹿と戦ったのかを聞いてくれないか?」
『分かりました』
レイの言葉に、ゾゾは子供達に話し掛ける。
その様子を眺めながらレイは改めてセトが地面に置いた巨大な鹿を見る。
セトは自分よりも大きな熊の死体ですら、前足で掴んで飛ぶことも出来る。
それを考えれば、自分と同じ程度の大きさの鹿を咥えて運ぶといった真似が出来てもおかしくはない。
(けど、普通の鹿がこれだけ大きくなるか? モンスター? いや、こういうモンスターは分からないしな。それにモンスターだとすれば、新種か? もしくは普通の動物か。……けど、身体の大きさはともかく、角がこれだけ大きいとなると、よくトレントの森を歩き回れたな)
一m程の角ともなれば、当然のように木々の間を移動するのは難しい。
セトのように大きくても、筋肉で出来た場所であればしなやかに動くことによって、木々の合間を縫うように移動することは可能だ。
だが、角ではそのような真似は出来ない。
(もしかして、角が邪魔で動けなかったところをセトに襲われたとか? ……まさか、あの角で木をへし折ったりとかはしていないよな?)
実際に木々の倒れる音が聞こえてくるようなことはなかったので、その辺りを心配する必要はなかった。
「レイ、この鹿はどうするんだ?」
冒険者の一人が、期待に満ちた視線を向けてくる。
巨大な鹿の身体を見れば、それこそ腹一杯新鮮な鹿肉を食べられるかもしれないと、そう考えているのだろう。
モンスターではなく普通の動物の場合は、実際には殺したばかりよりもある程度の時間が経ってから食べた方が肉の味は増すのだが、実際に目の前に鹿の死体があるとなれば、我慢出来ないのだろう。
「取りあえず、血抜きでもするか。……とは言っても、生誕の塔の近くで血抜きをするのは止めた方がいいな」
血の臭いに惹かれて、モンスターや野生動物がやって来ないとも限らない。
であれば、ここから少し離れた場所で血抜きをした方がいいだろうと、レイは巨大な鹿の死体をミスティリングに収納する。
血抜きというのは、早ければ早い程にいい。
ミスティリングに収納してしまえば、その間は時間が流れない。
そうなると、血抜きをするまでの時間は多少なりとも稼げる。
……セトがこの鹿を倒して、ここまで持ってくるまでに掛かった時間は既にどうしようもないのだが。
「で、ゾゾ。子供達は何て?」
ミスティリングに収納したところで、ゾゾが側までやって来たことに気が付いたレイが、そう尋ねる。
リザードマンの子供達が、色々と興奮して喋っていたのは、レイも見ていた。
だからこそ、話を聞き出す……正確な事情を聞き出すのは難しいと思っていたのだが、こうして自分の側にやってきたのを見れば、恐らくその難しいことを成し遂げたのだろうということは予想出来た。
『はい。どうやらセトの背に乗って森の中を歩いていると、突然進行方向からセトに角を突き立てようとして襲い掛かって来たので、前足の一撃で首の骨を折ったとか』
「あー……そう言えば、外傷らしい外傷はなかったけど、首の骨は折れていたな。セトも手加減を覚えたようで何よりだ」
セトは元々ランクAモンスターのグリフォンとして、非常に強い力を持っている。
それこそ、人間としては半ば限界を超えているのではないかと思える程の力を持つアーラだが、セトが本気になればそんなアーラを力で子供扱い出来る程だ。
その上、セトの前足には剛力の腕輪という力を増すマジックアイテムの腕輪があり、その一撃は手加減を失敗すれば、鹿の頭部を殴った瞬間に骨を折るどころではなく、血と肉と骨の霧と化して周辺の木々にへばりつくといったことになっていただろう。
そんなセトの攻撃で首の骨が折れているだけなのだから、十分に手加減出来ていると言ってもいい。
「それにしても、鹿ならセトと自分の間にある絶対的な差は理解しているのに、何で襲い掛かるような真似をしたんだ?」
レイはてっきり、セトが鹿を見つけてお土産として倒したのではないかと思っていたのだが、実際には鹿の方から襲い掛かって来たとリザードマンの子供達は証言している。
この状況で嘘を吐く訳がないし、ゾゾがレイに嘘を言う筈もない。
そうなると、鹿の方からセトに襲い掛かったというのは、間違いのない事実。
『縄張りにでも入ったのでしょうかね』
ゾゾのその言葉に、なるほどと頷く。
東北の田舎、それこそ山のすぐ側で育ったレイは、当然のように山の中で遊ぶことも多く、そのような時に鹿を見たこともある。
レイのイメージでは、鹿というのは縄張りの類を持たないというものだったが、父親の友人で猟師をやっている者から、鹿にも縄張りがあるという話を聞いて驚いたことがあった。
縄張りにセトが入ったことで鹿が追い出そうと怒って突っ込んできたのかもしれない。
そう思うと同時に、そこまで鹿が獰猛になるのか? という疑問がレイにもあった。
もっとも、レイが知っている鹿はこの世界の鹿ではなく、日本の、それも東北の田舎の山にいる鹿だ。
セトに倒された鹿は、この世界特有の進化を遂げた鹿であっても、おかしくはなかった。
ましてや、ここは辺境なのだ。そんな場所で生まれ育った鹿が、当然普通の鹿の訳がない。
例え相手がグリフォンであろうと、立ち向かう勇気が必要なのだろう。
「かもしれないな。けど、あんな大物がトレントの森に入ってきてるのなら、情報がきてもいいんだが。……生誕の塔の一件が原因か」
『どうでしょうね。ですが、このままではレイ様が護衛をしている樵達も、危険なのでは? 幸い、今日は木の伐採に来てはいないようですが』
「樵、か。……そうだな。ああいう鹿が他にもいるのなら、危険かもしれないな」
実際に鹿と戦った訳ではないので、セトに殺された鹿が具体的にどのくらいの強さだったのかというのは、レイには分からない。
だが、角の大きさと鋭さを思えば、冒険者ならともかくちょっとした腕自慢ではあっても、樵が対処出来るようには思えなかった。
「レイ、その辺はギルドに説明しておけばいいだろ。それよりも、早く鹿の血抜きをしようぜ。あんな美味そうな鹿の肉、滅多に食べられるもんじゃねえんだからな。ああ、解体は俺に任せてくれ。こう見えて、小さい頃は猟師をやっていた親父の手伝いをしてたんだ」
「分かった」
あっさりと頷くレイ。
モンスターの解体は慣れてきたが、それでも決して得意という訳ではない。
ましてや、鹿は動物であってモンスターではないのだ。
……鶏の解体ならそれなりに自信はあるのだが、まさか鶏と鹿を一緒には出来ないだろう。
それならば、解体に自信のある人物に最初から任せておいた方がいい。
だからこそ、その冒険者の言葉にすぐ頷いたのだ。
「なら、まずは血抜きをするか。……どのくらい離れればいいと思う?」
「そうだな。……あの鹿の大きさから考えると、結構な血の量が出ると思うから、生誕の塔からはそれなりに離れた方がいいと思う」
「分かった。じゃあ、ゾゾ。俺は少しここを離れるから、よろしく頼む。……傭兵が襲ってきても、ガガがいれば問題ないだろ」
自分の名前が呼ばれたのが聞こえたのか、ガガはレイに視線を向ける。
だが、レイはそれに何でもないと態度で示し、鹿の解体をする冒険者とトレントの森に入っていくのだった。
「うおっ、これは凄いな」
鹿の解体を終えて戻ってきたレイがミスティリングから解体した食肉の部位を取り出すと、それを見た皆が驚く。
背骨沿いの肉の背ロース、もも肉、肋骨のスペアリブ、心臓、レバー、そしてちょっと珍しい舌。
牛タンは日本にいた時も好物だったし、豚のタンもスーパーで買ったのがよく食卓に並んだ。
だが、そんなレイにしても、鹿のタンというのは食べたことがない。
解体をした冒険者によると、かなり美味いからこれを食べないのは勿体ないということで持ってきたのだが……
(どうなんだろうな? まぁ、もし不味くてもこいつが食うだろうから、問題はないんだろうけど)
鹿の解体に時間が掛かったこともあり、既に時間は昼を若干すぎている。
それでもこうして皆が待っていたのは、レイ達を思って……ではなく、当然のようにレイと冒険者が持ってくる鹿肉を待ってのことだ。
焚き火どころか、簡易的な竈まで作り、その上に鉄板が置かれており、焼き肉をする気満々だった。
折角血の臭いをどうにかする為に離れた場所で解体したのに、ここで焼き肉をやるのは不味いような?
そう思いつつも、レイも焼き肉の魅力に負け……
「うまー!」
周囲にそんな感嘆の声が響き渡るのだった。