2074話
「お、やって来たな」
マリーナの家の中庭で食事の用意を手伝っていた――マジックアイテムの窯を用意したり、皿を並べたりするだけだが――レイは、中庭に来たガガの姿を見てそう声を掛ける。
やって来たのはガガだけで、ゾゾは今も生誕の塔の護衛についていた。
そうなると、ゾゾの持つ石版が使えないので、意思疎通が難しいのだが……その辺りは、身振り手振りで行うこととなる。
ゾゾが向こうに残るという時点でそれは決まっていたのだが、それでもガガはマリーナの家の中庭で寝ることを選んだ。
グラン・ドラゴニア帝国の第三皇子という立場で、それはどうなんだ? という思いがレイの中にない訳でもなかったが、異世界に存在するリザードマンの国の常識とこの世界の常識が必ずしも一致しないことは、レイにも理解出来た。
ともあれ、ガガとゾゾがそれぞれに決めたことであるのなら、レイはそれに何かを言うつもりはない。
「食事までもう少し時間が掛かるから、ゆっくりしててくれ」
そう告げながら、身振り手振りで休むように示す。
ガガもレイの様子から休めと言ってるのは分かったのか、マリーナが精霊魔法で作ってくれた、土の椅子に腰を下ろす。
「ゾゾがいなくても、この様子ならある程度意思疎通は問題ないな」
「そうね。でも、それはガガの頭がよくて、こっちの言いたいことを察することが出来るからよ。これが普通のリザードマンだと、多分無理でしょうね」
レイの言葉に、窯から取り出した肉の塊をテーブルの上に置きながら、そう告げる。
香草と一緒に焼いた為か、肉から漂っているのは非常に食欲を刺激する香りだ。
ごくり、と。テーブルで料理が出来るのを待っていたビューネが唾を飲み込む音が周囲に響く。
「ん!」
早く食べたいと告げるビューネに、それを聞いていたヴィヘラも同意するように口を開く。
「ガガも帰ってきたんだし、そろそろ夕食にしない? これを見てると、お腹が減って仕方がないわ」
「賛成。……それで、この肉はどうやって食うんだ?」
レイの言葉に、マリーナは一度家に戻ると、皿を持ってくる。
その皿には、薄く焼かれた生地が何枚も乗っていた。
「クレープ?」
その生地の様子から、日本に住んでいた時のことを思い出してレイが呟く。
もっとも、レイが住んでいたのは東北の田舎だ。
クレープなどというものは、それこそ祭りの時に行われる屋台くらいでしか食べたことはない。
スーパーのデザートコーナーに売っているクレープなら、それなりに食べたことがあるのだが。
とはいえ、このエルジィンにクレープというお菓子は存在しない。
いや、正確には甘いクレープではなく、ハムやチーズを巻いて食べるガレットのような軽食のような料理はあったのだが。
レイの言葉を聞いたマリーナは、皿をテーブルの上に置きながら尋ねる。
「クレープって、何?」
「あー……師匠の下で修行をした時に見た本に載っていた料理だな」
その言葉で、エレーナ、マリーナ、ヴィヘラの三人はクレープという料理がレイがこの世界に来る前にいた世界にあった料理なのだろうと理解し、アーラとビューネの二人はレイの言葉をそのまま信じる。
ガガのみは、レイが何を言っているのか分からずに、首を傾げていたが。
「クレープの件はともかくとして、この肉は切ってその生地で巻いて食べるのか? 野菜とかそういうのも一緒に」
テーブルの上には、一口サイズに切られた野菜も多くある。
それを見れば、大体どのようにして食べるのかというのは、レイでも分かった。
(北京ダック的な食べ方な訳だ。もっとも、本当の北京ダックっていうのはあくまでも食べるのは皮だけで、肉は食べないらしいけど)
これもまた、日本にいる時にTVで見た知識だった。
もっとも、そんな知識がなくてもテーブルの上に用意されたのを見れば、どうやって食べるのかはすぐに想像出来るのだが。
「そうね。基本的にはその肉を切ったのと、野菜を一緒にこの生地に乗せてソースを掛けてから、生地を畳んで食べるのよ」
マリーナの説明を聞き、最初にその生地に手を伸ばしたのは、当然のようにビューネだった。
ナイフで肉を切ると、その瞬間に肉汁が溢れ出る。
その肉を生地の上に置き、他にも葉野菜や茹でた山菜を取ってソースを掛ける、生地で巻くとそのまま口に運ぶ。
普段は表情を変えないビューネだったが、今はその表情が微かに綻んでいる。
それだけ、料理が美味かったのだろう。
(肉が結構肉汁の多い肉だから、肉を生地の上に載せたら素早く食べた方が……いや、最初に野菜を生地の上に載せれば、肉汁が生地に染みこむことはないのか?)
ビューネが食べている様子を見て、ガガもどうやって目の前の料理を食べればいいのかを理解したのか、ビューネと同じように生地でソースを掛けた肉や野菜を巻いて口に運ぶ。
ビューネが持っていた時にはそれなりに大きく見えた料理だったが、身長三mもあるガガが持つと、それは一口サイズ……いや、一口サイズよりも小さいように思えてしまう。
ガガはそんな小さな料理を口に運ぶと、しっかりと咀嚼して満足そうな表情を浮かべる。
量は圧倒的に足りなかったが、味という点では十分に満足出来るものだったのだろう。
レイもまた、肉と野菜、山菜を生地の上に載せ、ソースを掛けて巻いて食べる。
「うん、美味い」
そう、一言だけ呟く。
実際にそれだけで十分に美味いと思えたのだから、その一言だけで十分だった。
マリーナも、レイの短い言葉を聞いただけで、十分満足そうな表情を浮かべる。
昨日……正確には深夜から起きた一連の出来事で、レイが疲れていると思い、それを少しでも回復出来ればということで、少し手間が掛かったが、このような料理を用意したのだ。
「そう。喜んで貰えて何よりよ。昨日から疲れたでしょうし、今日は一杯食べてちょうだい」
「悪いな。そうさせて貰うよ」
マリーナにそう返し、レイは再び食事に戻る。
エレーナやアーラも、少し物珍しそうにしながらも、料理を口に運ぶ。
貴族の食事としてはマナーがなっていないのかもしれないが、エレーナもアーラも、戦場で食事をすることも珍しくはない。
それだけに、こうして手掴みで食事をすることに対する忌避感の類はなかった。
「レイが言う通り、これは美味い。特にこの生地だな。ただ小麦を焼いただけではなく、それ以外にも何らかの隠し味が入っている。だからこそ、肉と野菜の味を一つに纏めるということが出来ているのだろう」
「あら、よく分かったわね。さすが貴族だけはあるわ」
エレーナの言葉に、マリーナは感心したようにそう告げる。
隠し味というだけあって、美味いとは思っても普通ならそれが隠し味によるものだということに気が付くのは難しい。
特に今回は、ギルムの周辺でしか咲いていない花の蜜と花弁を刻んだものをどちらも少しだけ隠し味として入れたのだ。
実際、エレーナ以外の面々はそれに気が付いた様子もなかったのを思えば、エレーナの味覚がどれだけ鋭いのかを示しているのだろう。
……五感が鋭いという意味では、ゼパイルやゼパイル一門の技術の結晶たる身体を使っているレイも同様なのだが、味覚が鋭くてもその引き出しが少ない為に、レイはその隠し味に気が付くことはなかった。
これが毒のようなものであれば、即座に気が付けたのだろうが。
「そうね。この味は普通の小麦だけじゃ出せないわね。本当に微かにある甘みが、小麦本来の甘みと重なってしっかりとした味になっているわ」
ヴィヘラもまた、元ベスティア帝国皇女ということもあって、非常に鋭い味覚を持っていた。
そんな二人の言葉に、レイは小麦粉を焼いた生地だけを千切って味わってみる。
(言われてみれば、小麦粉以外にも甘みは感じる。けど、言われてみて初めて気が付くような薄らとした甘みなんだが……よく分かったな)
レイは感心しながら、改めて料理に手を伸ばす。
メインは肉や野菜、山菜といった具材を生地に包んで食べる料理だが、それ以外の料理も当然テーブルの上にはある。
オークの肉を使ったシチューもあり、ガガも腹一杯食べることが出来るようにというマリーナの心遣いからだろう。
「グルゥ!」
と、セトがレイを見て喉を鳴らす。
一体何が? と一瞬疑問に思ったレイだったが、ビューネが食べている焼いた小麦粉の生地で肉や野菜包んで食べているのを見て羨ましそうにしているのが、レイにも理解出来た。
「あー……セトだと、この料理はちょっと食べづらいか」
「グルゥ……」
残念そうに、そして悲しそうに喉を鳴らすセト。
生地の上に肉や野菜を載せるのはともかく、それを包むという作業がセトには難しい。
小麦粉を薄く焼いた生地は、それこそレイが思わず口にしたようにクレープを思わせる代物だ。
当然それはかなり柔らかく、セトのクチバシや爪で包もうとしてあっさりと破けてしまう。
それでも頑張ればどうにか出来たかもしれないが、それよりはレイにやって貰おうと甘えるのも、セトとしては当然なのだろう。
甘えてくるセトに、レイは生地で肉や野菜を素早く巻いていく。
肉と山菜、野菜と山菜、魚の干物といった組み合わせでも巻いていく。
「グルルルルゥ!」
そうして出来上がった料理に、嬉しそうに喉を鳴らすセト。
そんな光景を見て……そして、それぞれが好きな具材を使って生地に巻いているのを見て、レイはふと思う。
(ああ、手巻き寿司か)
最初に思ったクレープという感想も、決して間違っている訳ではない。
だが、同時にこうして全員がおのおの好きな具材を生地で包んで食べるという食事方法は、具材こそ大きく違えども、どこか手巻き寿司に通じるものがあるのは間違いなかった。
日本でも、年に一回、もしくは数年に一回くらいはレイも手巻き寿司を食べていた。
そんなことを思い出しながら、夕食を楽しみ……
「ふわぁ……」
食事が終わって一休みしながら寝転がっているセトに身体を預けていたレイの口から、眠そうな欠伸が出る。
昨日は真夜中に起きて生誕の塔の転移で走り回り、一応それなりに遅くまで寝ていたとはいえ、それでもやはり睡眠時間は足りない。
また、寝た場所が生誕の塔の中という、寝慣れない場所だったというのも大きいのだろう。
セトの暖かな身体に寄り掛かっていると、満腹感もあって自然と目が閉じていく。
……少し離れた場所では、ヴィヘラとガガが模擬戦を行っているのだが、その激しい戦闘音ですら、今のレイにとっては子守歌に等しい。
春の夜ということで本来ならそれなりに寒くてもおかしくはないのだが、マリーナの精霊魔法によって中庭は快適な環境になっている、というのもこの場合は大きいだろう。
「あー……これはレイ、寝るわね。どうする?」
目を閉じ、半ば……いや、すでに八割は眠っているレイを眺めながら、マリーナが呟く。
セトに寄り掛かっているレイの様子は、フードを下ろしているということもあってか、みていて胸が暖かくなる感情をマリーナに抱かせる。
それは、マリーナの横で同じくレイの様子を見ていたエレーナも同様だった。
傍から見れば、愛する男の姿を見て想いを馳せている乙女の図といったところだろう。
エレーナとマリーナの双方が史上希に見る美女だけに、その様子は非常に絵になる。
それこそ、ここに絵の心得がある者がいれば筆が止まらなくなるかのように。
……もっとも、少し離れた場所で模擬戦が行われている以上、創作意欲を著しく減退させるのだが。
いや、身長三mのガガと踊り子や娼婦のような薄衣を身に纏った絶世の美女との戦いである以上、こちらもまた人によっては創作意欲を刺激するといったことになるかもしれなかったが。
「では、私がレイを運ぼう」
「あら、お客さんのエレーナにそんなことをさせるのは申し訳ないわ。ここはやっぱり、この家の主たる私が運ぶべきじゃない?」
「いやいや、私もここで暮らすようになって長い。お客さん呼ばわりはしなくてもいいと思うが?」
「そうかしら。でもやっぱりレイを運ぶのは私の方が向いていると思わない? 精霊魔法を使えば、レイを起こさずに運ぶことも出来るでしょうし」
エレーナとマリーナがそれぞれどちらがレイを運ぶかで言い争う。
ただ、その光景を見ているアーラは、二人の言い争いを特に止める様子は見せなかった。
二人のやり取りが、本気の言い争いという訳ではない。それどころか、寧ろこの言い争いを楽しんでいる節さえあると、理解していたからだろう。
だからこそ、そんな光景を微笑ましく見守っていたのだ。
「ん」
ビューネはそんなやり取りを眺めつつ、食後のデザートとして出された瑞々しい旬の果実を楽しむのだった。