2067話
「レイ」
「っ!?」
眠っていたレイは、名前を呼ばれたことで素早く起きる。
普段の何もない時であれば、レイの寝起きは非常に悪い。
だが、こうして何らかの非常事態となれば、レイは普段の寝起きの悪さは何だったのかといいたいくらいに寝起きがよくなる。
目を覚ましたレイは、素早く周囲を見回す。
そして、マリーナが近くにいるのに気が付く。
先程の声はマリーナの声だったのだろうと判断しながら、口を開く。
「どうした? 何かあったのか?」
「いいえ、そうじゃないわ。けど、そろそろ起きた方がいいわね。樵達が今日どうするのかは分からないけど、いつもならそろそろ来る時間よ」
「あー……そうか」
マリーナの言葉に、緊急の事態ではないと知り、安堵する。
同時に、明らかにいつもより寝坊したことに気が付くが、真夜中に突然セトの鳴き声で起こされ、それからすぐにトレントの森までやって来て、生誕の塔を見つけ、その中を探索し、マリーナ達と合流して……とあったのだ。
色々と、本当に色々とあったために、結局再度眠ることが出来たのは朝方になってからであり、それを考えればこの時間まで眠っていてもおかしくはない。
「マリーナの精霊魔法もあったけど、建物の中だからってのも寝やすかった理由だろうな」
レイが寝ていたのは、生誕の塔の一階部分。
具体的には、塔の中に入ってすぐの場所だ。
だからこそ、外で眠るよりは気持ちよく眠れたのだろう。
レイはマジックテントを持っていたのだが、それでもここで眠っていたのは、ほとんど成り行きに近い。
……とはいえ、床に直接眠ったこともあって、周囲では身体を痛そうにしている者もいるが。
特に騎士に、そのような者が多い。
寝る時は当然のように着ていた鎧は脱いで眠っていたのだが、冒険者であれば野営をすることは珍しくないし、それこそ地面にマントを敷いてその上で眠るというのも珍しくはない。
だが、騎士ともなればそのような経験が皆無……という訳ではないが、あまりないのも事実だ。
野営をする場合も、しっかりとした野営用の寝具を持っていくことも珍しくはない。
だからこそ、こうして床で直接眠るというのは、あまり慣れていないのだろう。
「そうね。でも、家と違ってそう長くは保たないわ。それこそ、今日一日何とか……といったところね」
「夜だけでも、どうにか出来ればいいんだけどな」
今は春である以上、夜はともかく日中は暖かい。
勿論、季節は春であっても、時々いきなり冬に逆戻りしたかのような寒さになったり、場合によっては少しだけとはいえ雪が降ってきたりといったこともある。
だが、それでも日中は基本的にある程度の暖かさを持つ以上、やはりこの場合に問題なのは夜だった。
生誕の塔には、子供や卵がいるというのも大きい。
「うーん、けどグラン・ドラゴニア帝国では特に私のような精霊魔法とか使ってなかったんでしょ? なら、問題なく暮らすことは出来ると思うけど」
「そうか? なら……ん?」
マリーナと話していたレイは、不意に外から聞こえてくる音を耳にする。
生誕の塔は、扉で外と遮られているが。転移してきた時の影響で、壁の一部……恐らく城と繋がっていた部分はスプーンか何かでくり抜いたかのようになっている。
結果として、そこは外と直接繋がっており、そこから本来なら扉が遮っているような外の音もある程度聞こえてしまう。
(この生誕の塔がずっとここにあるのなら、あの壁の穴はどうにかする必要があるだろうな。布か何かで覆うだけだと、動物とかモンスターは普通に入ってきそうだし)
以前までは動物やモンスターの姿がなかったトレントの森だが、今はそれなりに動物やモンスターも多くなってきている。
そのような動物やモンスターが穴から生誕の塔に入ってくるようなことになれば、色々と不味いことになるのは確実だった。
そうである以上、その穴は布のようなものではなく、もっと頑丈な何かで塞ぐ必要がある。
(いっそ、トレントの森の木とか? ……いやいや、もしそんな余裕があるのなら、それこそ錬金術師達に渡さなきゃいけないだろ)
ただでさえ、トレントの森の木というのは、建築資材としてギルムで大々的に使われている。
その上、今回の生誕の塔の一件だ。
こうなってしまうと、トレントの森の木の伐採は難しくなる以上、今までよりも錬金術師達はトレントの森の木を欲しがるだろうことは、レイにも容易に予想出来た。
そんなトレントの森の木を、生誕の塔の壁の穴を塞ぐ為に使ってもいいのかと言われれば、レイとしては素直に頷けない。
……そもそもの話、レイのミスティリングの中には岩の類も多い。
また、木材という意味でも、トレントの森で伐採されたものではなく、一般的な木材もある。
壁の穴を塞ぐのであれば、それらを使えばいいだけの話だ。
「レイ、行かないの?」
塔の外から聞こえてきた声に、マリーナも気が付いたのだろう。
そう促してくる言葉に、レイは頷く。
「そうだな。ここで考えていてもしょうがないか」
マリーナの言葉に頷き、レイは生誕の塔から出る。……勿論壁の穴ではなく、扉からだが。
そうして外に出たレイが見たのは、嬉しそうにサンドイッチを食べているセトとイエロの姿だった。
そしてセトの近くには、ミレイヌとヨハンナの姿がある。
セト好きとしてはギルムの中でもトップツーたる二人の姿があることに若干驚いたレイだったが、セトがいるからと考えれば、二人がいるのは寧ろ納得すら出来てしまう。
もっとも、本来なら増築工事の件で色々と仕事があって忙しいだろう身でここにやって来るのは、疑問もあるが。
ミレイヌはギルムの若手冒険者の中でも、有望株の一人だ。
レイという、同世代の中にとんでもない男がいたので、以前よりは目立っていないが……その能力は、若手の中では確実にトップクラスで、ランクアップも間近であるという噂が流れている。
そしてヨハンナは、個人としての実力はミレイヌに及ばないが、それでも一定以上の強さを持ち、何よりパーティを組んでいる者達を指揮するのが非常に上手い。
……ヨハンナがパーティを組んでるのは、レイがベスティア帝国の内乱の時に一緒に行動した者達なのだが、だからこそ戦場を共にしたことで強い絆を持っていた。
ミレイヌ程ではないにしろ、ヨハンナも最近は売り出し中の冒険者なのは間違いない。
「あ……お前達、来てくれたのは嬉しいけど、仕事の方はいいのか?」
レイの言葉に、セトに集中していた二人は、我に返ったようにレイの方を見る。
「あ、あら。レイじゃない。いたの?」
明らかに何かを誤魔化すかのように告げるミレイヌ。
それを見たレイは、恐らく仲間に何も言わないでここまで来たんだろうと予想した。
ミレイヌの外付け良心と言われている魔法使いのスルニン。
いつもはそのスルニンがミレイヌのストッパー役となっているのだが、そのスルニンの姿がここにはない。
また、スルニン以外のパーティメンバーのエクリルの姿もなかった。
つまり、ミレイヌが一人だけでここにやって来たのは確実だった。
ヨハンナの方も一人だったが、ヨハンナはミレイヌのようにストッパーとなる者がいない。
代わりに、ミレイヌ程に突っ走るといったこともないのだが。
「ああ、いた。ちょうど起きてきたところだよ。それで、ミレイヌはスルニンを置いてきたのか?」
「あ、あははは……あはははははははは! 見逃してっ!」
乾いた笑い声の後に、すぐさま頭を下げるその様子を見れば、ミレイヌがスルニンからの説教をどれだけ恐れているのかの証明となる。
もっともレイの目から見てもスルニンがミレイヌにする説教は堪えるものがあったので、ミレイヌのその気持ちは分からないでもない。
だからこそ、取りあえずこの場は……そう言おうとしたレイは、新たにこちらに近づいてくる馬車を見て、ミレイヌに哀れみの視線を向ける。
「え? ちょっと、何よ。まるで、これから殺される家畜を見るような目を……」
戸惑った様子のミレイヌだったが、背後から聞こえてきた馬車の音で何かを察したのだろう。そっと……出来れば予想が外れていて欲しいという願いを込めながら、振り向く。
そんなミレイヌの視線に映ったのは、馬車の御者台に乗っているスルニン。
とはいえ、スルニンが御者をやっているのではなく、御者の隣に座っているのだが。
そんなスルニンは目が笑っていない笑みを浮かべ、じっとミレイヌに視線を向けている。
見るからに怒り狂っているという表現が相応しい様子だ。
実際にレイの視力では、杖を握っている手に血管が浮き出ているのが分かった。
スルニンが杖を何度となくミレイヌの頭部に振り下ろしている光景を見たことのあるレイとしては、ミレイヌが撲殺されないように祈るだけだ。
……少なくても、助けようなどとは思わない。
「レイ……」
だからこそ、救いを求めるような視線を向けてくるミレイヌから、レイはそっと視線を逸らす。
スルニンの説教に巻き込まれたくないという思いから。
「ちょっ、レイ!?」
そんなレイを見て、ミレイヌの口から悲鳴が上がる。
てっきり近づいてくるスルニンに何かを言って貰えるのだろうと、そう思っていたのだろう。
見捨てられた子犬のような表情を浮かべるミレイヌ。
……顔立ちが整っており、十分に美人と呼べるミレイヌだけに、本来ならレイ以外にも誰かが助けてもいい。
だが……馬車が停まって御者台からスルニンが下りてきたのを見れば、誰もがそんなミレイヌを助けようとは思わなくなる。
そして、目の笑っていない笑みを浮かべたスルニンは、杖を手にミレイヌの後ろに立つ。
ミレイヌも当然のように自分の後ろにスルニンが立っているというのは分かっているのだが、背後から感じるプレッシャーに振り向くことが出来ない。
「ミレイヌ、こっちを見なさい」
穏やかな声ではあったが、そこに込められている強制力は絶大なものだ。
たとえミレイヌであろうとも、その言葉を無視することは出来ない。
ギギギ……と。まるで人形のような動きで、ミレイヌは自分の後ろにいるスルニンを見る。
じっと、目の笑っていない笑みを向けるスルニンは自分の方を見ているミレイヌを見る。
どこか複雑な……それでいて強烈な緊張感が周囲に満ちる。
「えっと、……その……情状酌量の余地は……」
「あると思いますか?」
そう告げ、ミレイヌの顔に手を伸ばすスルニン。
次の瞬間、スルニンはミレイヌの顔を鷲掴みにしたまま、持ち上げる。
アイアンクローと呼ばれている技だ。
……もっとも、魔法使いのスルニンが戦士のミレイヌの顔面を掴んで片手で持ち上げるような真似が出来るのか、というのがこの場合の問題ではあるのだが。
スルニンも冒険者である以上、相応の腕力はあってもおかしくはない。
だが、それでも女とはいえミレイヌの顔面を掴んで持ち上げる――それも片手で――ような真似が出来るのかと言われれば、答えは否だろう。
もっとも、世の中にはレイのような魔法使いもいるのだが。
ともあれ、明らかに今のスルニンの腕力は通常よりも上がっているが、それもミレイヌが自分に黙ってここに来たというのが理由なのは間違いない。
「ちょっ、スルニン! 待って待って待って! 私、女! 女の顔をそんな鷲掴みにするような真似をしないで!」
「そういうことは、自分の仕事をきちんとやって、その上で暇な時間にセトに会いに来るようにしてから言いなさい。全く」
「だって……ほら、ヨハンナだってここに来てるじゃない! なのに、何で私だけ!?」
「あら、私は今日の分の指示をきちんとだしてるし、昨日までは忙しかったから今日は休みと決めているのよ」
オーホッホッホッホ、と。セトを撫でながらわざとらしく笑い声を上げるヨハンナ。
実際、その言葉は決して間違っている訳ではなく、自分がやるべき仕事は既に終えた上で、ここにいるのだからミレイヌも文句は言えない。
ぐぬぬ、と。
スルニンに顔面を鷲掴みにされながらも、聞こえてきたヨハンナの笑い声に悔しそうにするミレイヌ。
だが、そんなミレイヌの様子を見たスルニンは、顔面を鷲掴みにしている手により一層の力を込める。
「ほら、行きますよ。ミレイヌにはしっかりと……そう、これ以上ない程にじっくりと話をする必要がありますからね」
「ああああああ、ちょっ、ちょっと待ってスルニン! 今はセトちゃんが……セトちゃんとの……あの悪女をセトちゃんと二人きりにさせる訳にはいかないのよおおおおお!」
いつの間にか、セトのことを一匹ではなく一人と数えてしまったミレイヌだったが、それを聞いたヨハンナは再びオーッホッホッホ、と笑い声を上げる。
勝ち誇った顔で笑っているヨハンナだったが、不意にそんなヨハンナの後頭部をレイが叩く。
「その辺にしておけ。あまり、ミレイヌをからかうなよ」
頭を押さえたヨハンナの耳に、呆れたようなレイの声が響くのだった。