1876話
隠し通路から出たレイとエレーナが見たのは、かなり広い……それこそ百畳くらいはあってもおかしくない程の広い地下室だった。
広さだけではなく、高さも明らかに地下室にあるとは思えない程の、それこそ十m以上は間違いなくある。
とてもではないが、先程までレイ達がいた家から繋がっているとは思えない程の広大な空間。
もっとも、それは隠し通路を歩いていた時間を考えれば、空間的にどこかおかしくなっているというのは、レイにもエレーナにも大体予想出来ていたのだが。
ともあれ、そのような広い地下室に出たレイとエレーナの二人だったが、そこに広がっていた光景は完全に予想外と言ってもよかった。
まず最初に目に入ってきたのは、百畳程の空間の中央辺りにある、肉の塊のようなもの。
いや、この場合は肉の塊ではなく肉の繭と表現した方が正しいだろう。
その肉の繭の表面には青や緑、黄色、赤といった様々な色の血管のようなものがあり、それが脈動している。
楕円形の形をした肉の繭は地面に存在している同じような肉の台座とでも呼ぶべき存在の上に乗っており、楕円形の頂点から天井まで肉の柱のようなものが伸びていた。
恐らく、それを見た者が抱く気持ちは、気色悪いというものだろう。
そんな肉の繭の周囲には、三人の姿があった。
一人は先程までレイ達がいた家の主にして、黒狼との繋がりを持つ組織を率いているセレスタン。
そして、セレスタンに仕える執事に……残るもう一人は、ガイスカに仕える振りをして復讐の機会を虎視眈々と狙っていた、デオトレス。
当然のようにレイはその三人の誰にも見覚えはなかったが、それでも目的の人物が誰なのかというのは、前もってエレーナから聞いた情報から理解していた。
「お前がセレスタンだな?」
「ええ、そうなります。まさか、深紅の異名を持つ君に私の名前が知られているとは……光栄ですね」
レイの言葉に、セレスタンは特に動揺した様子もなくそう告げ、優雅に一礼する。
そんなセレスタンの横では、執事の男も主と同様に一礼していた。
「……そっちはお前の執事ってところか。で? 残るもう一人は誰だ?」
「ガイスカの部下だ。以前、見たことがある」
レイの言葉に答えたのはセレスタンでも執事でもデオトレスでもなく、その横にいたエレーナ。
ガイスカというその名前は、レイにとってもすぐに忘れるようなことが出来る相手ではない。
そもそも、今回の一件に関しての元凶と言ってもいいような存在なのだから。
「となると、やっぱりガイスカもここいるのか。けど、ならセイソール侯爵家がこの家に突入しようとしていたのは何でだ? ガイスカを止めようとしてるからか?」
「くくっ、は……ははははははは……ははははははははははははははははははは!」
レイの言葉を聞いたデオトレスが、不意にそんな笑い声を上げる。
それこそ、レイの話した内容がここまで面白いとは思わなかったと、そう言いたげな様子で。
だが、当然ながらレイは何故自分の言葉が笑われているのかが全く理解出来ない。
「今の話の、どこに笑えるところがあったのか、その辺を聞かせて貰えると嬉しいんだけどな」
いつ戦闘が始まっても対応出来るように準備を整えつつ、レイはデオトレスに話し掛ける。
しかし、デオトレスはそんなレイの行動を全く気にした様子もなく、笑い声を周囲に響かせていた。
そんなデオトレスを見ながら、エレーナは微かに眉を顰める。
エレーナが知っているデオトレスという人物は、このように派手に笑い声を響かせるような性格はしていなかった筈なのだから。
(本当にあの男は私の知っている男か? ……そもそも、あの男がここにいるということは、ガイスカはどこいるのだ?)
そう、デオトレスがここにいるのは納得出来る。
黒狼を雇ったのがガイスカである以上、その部下のデオトレスがここにいるのは、ある意味で当然だったのだから。
だが、その主人たるガイスカの姿は、今はどこにもない。
「ガイスカはどうしたのだ? ここに姿はないようだが」
狂笑とでも言うべき笑いを見せていたデオトレスに、エレーナは静かに尋ねる。
その声は決して大きいものではなかったのだが、ガイスカの名前が出たのが大きかったのだろう。デオトレスは笑うのを止め、エレーナに視線を向ける。
デオトレスの表情は、普通の女であれば見た瞬間に後退ってもおかしくないような、いっそ不気味と表現してもいいような笑みを浮かべていたが……生憎と、エレーナは普通の女ではない。幾多もの戦場を経験してきた、姫将軍の異名を持つ女だ。
デオトレスに視線を向けられても、一歩も退くことはない、寧ろ堂々と視線を返す。
そんなエレーナの視線に何か感じるものがあったのか、デオトレスは嬉しそうな笑みを浮かべて肉の繭に視線を向ける。
「ガイスカ……ガイスカ様なら、ほら。そこにいるよ。まぁ、声が聞こえなくてもしょうがないか。もう声を出すことすら難しくなっちまったしな」
肉の繭を見たまま、そう告げるデオトレス。
その言葉に、セレスタンも執事の男も特に何も言ったりはしない。
それはつまり、デオトレスの言葉が正しいということを意味していた。
改めて肉の繭に視線を向けたレイとエレーナは、数秒観察してようやく気がつく。
蛹の皺となっている部分……そこに隠れるようにしてではあるが、一つの顔があることに。
顔だけがそこに存在しているということは、身体は肉の繭の中にあるということになる。
そんな状況になっている以上、とてもではないが無事な存在だとは思えない。
事実、その顔はまさに骨と皮といった状態になっており、傍目から見る限りでは、とてもではないが生きてるとは思えない。
(いや、そんな状況でも生きてられるってのは、恐らくあの肉の繭があの人物を生かしているってことだろうな。そして、デオトレスの様子から考えて、あの肉の繭に埋まっているのは、恐らくガイスカ)
レイは今までのやり取りからそう予想し、ガイスカの顔を思い出そうとする。
だが、肉の繭に埋め込まれている状況を見てしまった為か、ガイスカの顔を思い出そうとしても簡単に思い出すことが出来ない。
「一応聞いておくけど、その肉の繭に埋まっているのがガイスカ……ってことでいいのか?」
エレーナに代わって尋ねるレイに、デオトレスは当然といった様子で頷きを返す。
「そうだ。知ってるか? セイソール侯爵家というのは、過去に遡れば自分達では倒すことが出来ないような相手を封印するといった仕事をしていたらしい。それが国に認められて貴族になり、今は侯爵といった爵位にいるけどな。つまり……」
勿体ぶって告げるデオトレスだったが、そこまで言われればレイにも大体の事情は理解出来た。
「その肉の繭も、ガイスカの先祖が封印した何かだってことか?」
その言葉に、デオトレスは頷く……と思いきや、大袈裟なまでに首を横に振る。
「残念。封印されていたという意味では同じだが、これを封印したのはセイソール侯爵家の先祖じゃなくて、別の人物らしい。ただ……別の人物とはいえど、封印されていたというのは同じだ。なら、その血筋の者を使えば……封印を解くのは難しくない訳だ」
もっとも、かなり強引な方法を使ったから、ガイスカは文字通りの意味で死ぬような思いを何度となく感じたけどな。
そう告げるデオトレスは、心の底から嬉しそうな笑みを浮かべていた。
それこそ、これ程に嬉しいことはないと、そう言わんばかりに。
そんなデオトレスの様子から、これ以上は話してもろくな情報を得られないだろうと判断したレイは、次にセレスタンに視線を向ける。
「で? お前は何だってこんな真似をしたんだ? アネシスの裏の世界を纏めているような人物なんだろ? それが、このアネシスを破壊するような真似をしてどうするんだよ」
肉の繭が具体的にどのような存在なのか、レイには分からない。
だが、封印されていたということは、当然のように危険な存在だからであって、それをわざわざ封印を解くといった真似をするのは、言ってみれば寄生虫が寄生主を殺すようなものだ。
勿論、現在アネシスで活動しているとはいえ、そのアネシスがなくなったら組織そのものが消滅する……などとは、レイも思わない。
それでも、そのような真似をすればセレスタンが率いる組織にとって、不利益の方が大きいのではないか。
(この肉の繭がどれだけ危険な存在なのかは分からないけど、話してみた印象から考えると核兵器的な扱いになりそうな感じだし)
それはあくまでもレイが受けた印象であって、実際には違うのかもしれないが。
ただ、デオトレスの様子を見ている限りでは、そう間違っているとは思えなかった。
「何故と言われても……そうですね。やってみたかったからというのがあるでしょうか?」
「……やってみたかったから、やったのか? その肉の繭が具体的にどんな存在なのかは俺には分からないが、それでも危険だということは理解出来る。それこそ、下手をすれば封印を解いたお前も巻き添えで死ぬかもしれないくらいにはな」
「ああ、それは心配いりません。当然私に何かをしないように、枷は付けてますので」
枷、と。そう告げるセレスタンの言葉だったが、レイがそれを信じられる筈もない。
今までの経験から考えれば、このような相手に枷を付けたと言われても、あっさりとその枷が壊されるといったことが容易に想像出来たからだ。
「……本来なら、俺は別にこんなことをする為にこの家に来た訳じゃないんだけどな」
「ほう。では、どのような目的で?」
レイの呟きに、多少なりとも興味を持ったといった様子で尋ねるセレスタン。
そんな相手に向かい、レイは特に躊躇する様子もなく口を開く。
「お前が黒狼との仲介役をしていたんだろう? その関係の書類やら何やら……言わば、証拠の類を入手する為にな。もっとも、もうそれも必要なくなったけど」
肉の繭に埋め込まれたガイスカと思われる人物を眺めつつ、レイはそう告げる。
その肉の繭の件があれば、それこそケレベル公爵家としては、セレスタン達を放っておくことが出来ないのは間違いなかった。
(正直、本当に何を考えてこんな真似をしたのかは、全く分からない。分からないが……それでも、このまま放っておくという選択肢は存在しないな)
レイにとって、ケレベル公爵家というのはその辺のどうでもいい貴族達とは違う存在だ。
エレーナの家であると同時に、珍しく……という言い方も変だったが、レイから見ても有能な人物だ。
人当たりも、決して悪くはない。……最初にレイが会った時は、相応に威嚇というか、貴族の威のようなものを発せられるといったこともあったが。
「さて、どういう意味でしょうね。……ただ、私が貴方に害意を持っているのは間違いないですけどね。黒狼の仇も討ちたいですし」
セレスタンにとって、黒狼というのは商売道具であると同時に、間違いなくかけがえのない存在でもあった。
その黒狼が死んだという情報は出来る限り隠していた筈であり、あの戦いを見ていた者もいなかったのを考えると、セレスタンがそれを知っている筈はない。ないのだが……黒狼の仇としっかりと口にした以上、セレスタンがそれを知っているのは確実だった。
(あの戦いの場所には間違いなく誰もいなかった。そうなると……ケレベル公爵家の中に情報を漏らした奴がいるのか? まぁ、ケレベル公爵家であっても、働いている全ての者から絶対の忠誠を捧げられている訳じゃないだろうし)
レイが知っている限り、ケレベル公爵家で働いている多くの者はそのことに満足し、ケレベル公爵一家に心から忠誠を誓っていた。
だが、それはあくまでもレイが知ってる限りの人数でしかない。
「黒狼の仇、か。……どうやってその情報を知ったのか、その辺りについて聞かせて貰えると、こっちとしても助かるんだけどな」
「わざわざ、私がそれを言うとでも? であれば、随分と見くびられたものですね」
「……そう言うと思ったよ。じゃあ、話を変えようか。この家の罠と、あの部屋からここまでやって来る時の隠し通路。そう言えば、分かるな」
「ええ、勿論。罠については、この家そのものが一種のマジックアイテムになってましてね。隠し通路の方は……」
そこで言葉を止めたセレスタンは、肉の繭に視線を向ける。
言葉では何も言っていないが、何を言いたいのかは考えるまでもなく明らかだ。
「そうか。……それで、これが俺からは最後の質問だ。そんな肉の繭を用意して……封印を解くらしいが、それでお前はこれからどうするつもりだ?」
尋ねたレイの言葉に、セレスタンは薄らと笑みを浮かべるだけで、何も言葉を返すことはなかった。