1862話
黒狼。それは、レイの命を狙っている暗殺者。
だが、その割には何故か本気でレイを狙うような真似はしない。
実際には何度かレイを襲っているのだが、それはどちらも真剣といった風ではなく、様子見に近いものだった。
そんな黒狼が、現在かなり離れた……それこそ三百m以上離れた屋根の上から、レイの方を見ている。
それが人であると形を判別し、更には黒狼であると見抜くことが出来たのは、ゼパイルによって作られたレイの身体が鋭い五感を持っていたからだろう。だが……
(黒狼? 本当に黒狼か?)
ここ何度かレイと接触し、それでいて肉まんをやって餌付けしたかのような黒狼は、銀髪だった。
だが、今レイが見ている視線の先にいる黒狼の髪は、黒い。
それこそ、大々的に行われた模擬戦の後で、襲ってきた薬物中毒者。
その連中を倒した時に、最初に遭遇した時と同じ髪の色だった。
直接接したからこそ、黒狼といえば銀髪というイメージの強いレイだったが、こうして現在視線の先にいる黒狼は、間違いなく黒狼と呼ばれるに相応しい髪の色をしていた。
(まぁ、考えてみれば、銀髪なら黒狼じゃなくて銀狼って呼ばれてるよな)
そう思いつつ、レイはこれまで黒狼に会った時のことを思い出し、ふと気がつく。
(もしかして、夜になれば銀髪になるのか? で、昼は黒髪? ……まぁ、可能性はあるか。魔法とかそういうのがある世界だし)
また肉まんでも食べたくてやって来たのか。
餌付けでもするかのようなつもりで、レイは黒狼に視線を向け……その視線が、黒狼と交わる。
「っ!?」
瞬間、レイが感じたのは強烈なまでの殺気。
それこそ、今まで重ねてきた交流が全くなくなってしまったかのような、そんな思い。
いや、そんなことを考えてはいられない程に強烈な殺気。
それでいて恐ろしいのは、黒狼の向けられる殺気はレイだけにピンポイントで向けられており、周囲にいる他の者はそれに全く気がついた様子がないところだ。
例え戦闘に身を置くような者でなくても、今のような黒狼からの殺気を感じれば、それが殺気と理解出来るかどうかはともかく、身体に何らかの変調を起こしてもおかしくはない。
だが、レイの周囲にいる者達は誰もがいつも通りに生活をしている。
つまり、レイに対してピンポイントに殺気が送られているということに他ならなかった。
しかし……それはあくまでも普通の者であればの話であって……
「ほう、この殺気……随分と手練れの相手のようだな」
レイの隣にいた、エレーナ程の者ともなれば話は違う。
また、ピンポイントでレイに向けられている殺気だったが故に、レイの隣にいるというのも大きかったのだろう。
先程までの酔いは、レイに向けられた殺気を感じ取ったことで即座に消えていた。
それが、本当に酔いが消えたのか、それとも身体が戦闘態勢に入ったことで酔いを一時的に忘れているだけなのか、レイには分からない。
分からないが……それでも、現状でレイが選ぶ選択肢は一つだけだ。
「悪いな、エレーナ。あいつは……黒狼は、俺の敵だ。手を出さないでくれ」
「何?」
黒狼。
その単語が出た瞬間、エレーナの視線はレイの視線を追う。
エンシェントドラゴンの魔石を継承した為に、エレーナの身体能力も以前と比べると非常に高くなっている。
それこそ、レイに勝るとも劣らずといったくらいには。
そんなエレーナの視線は、当然のようにレイの視線の先にいた黒狼を……銀髪ではなく黒髪で、黒狼と呼ぶに相応しい様相の相手を捉える。
「あれが……黒狼」
エレーナも、アネシスに住む者として当然のように黒狼の名前は知っていた。
だが、当然ながらそんな黒狼の姿を直接自分の目で見たことはなく、そのような意味ではこうして直接自分の目で見ることが出来たのは運が良かったと言えるだろう。
もっとも、それは珍しいものを見ることが出来たといった運の良さではなく、腕の立つ暗殺者の顔を前もって知ることが出来たというのが大きい。
「だが、何故だ? 相手は暗殺者だ。それも普通の暗殺者ではない。私がレイに手を貸しても、問題はないと思うが?」
そう告げるエレーナの言葉は、周囲にいる通行人達に聞こえないような、それでいてレイの耳にだけはしっかりと聞こえるような、絶妙な大きさの声。
暗殺者云々という物騒な会話をしている以上、ここで周囲に聞こえるように話をするというのは、危険だと判断したのだろう。
実際、ドラゴンローブを着てフードを被っているレイはともかく、エレーナは特に何か素性を隠すような真似はしていない。
年が明けたばかりということもあり、まだアネシスの住人は賑やかな気分でいる者も多い。
もっとも、それには年末に模擬戦を行って半ば祭りのような騒動にしてしまったレイも、実は一役買っているのだが。
ともあれ、今の状況で暗殺者云々という話が他の通行人に聞かれれば、非常に厄介なことになる。
また、場合によっては通行人もろともに攻撃をしてくるという懸念も、エレーナの中にはあった。
何度も黒狼と会って、それこそ餌付けすらしているようなレイとは違い、エレーナが黒狼と直接会った――距離からすると、正確には見ただが――のは今日が初めてだ。
そうである以上、エレーナが判断するのは黒狼についての噂しかない。
極めて凄腕の暗殺者だという、噂しか。
だからこそ、黒狼が妙な行動をするのではないか。
そう思ってのエレーナの行動だった。
レイはそんなエレーナの様子に、考えすぎだと言おうとし……だが次の瞬間、再び黒狼からの殺気がレイに向かって放たれ、それ以上言葉を口にすることが出来なくなる。
今の黒狼は、明らかに今までレイと接してきた黒狼とは違う。
あえて言うのであれば、最初に黒狼と接触した、薬物中毒者の襲撃の時と似ている感じか。
ともあれ、現在レイの視線の先にいる黒狼は、明らかに今までレイが接してきた……肉まんで餌付けをしようとした黒狼とは違う相手に思えた。
「あの黒狼とも少しではあっても付き合いがあるからな。出来れば俺が何とかしたい」
「レイ……これは遊びではないのだ。相手が黒狼なら、わざわざ自分から姿を現したのだ。であれば、ここで協力して倒すべきだろう」
エレーナの言葉は、決して間違っていない。
凄腕の暗殺者というのは、それこそ非常に厄介な相手なのだから。
そのような相手だけに、倒せるべき時に倒すというエレーナの言葉は正しい。
だが、それでも……黒狼と何度も接してきたレイにしてみれば、出来れば黒狼がどうなっているのかを自分の目で確認したかった。
「黒狼は、俺が今まで何度か食べ物をやってきた。向こうも俺にはそれなりに懐いているように思えたし、もしかしたら戦わなくても降伏させることが出来るかもしれない」
「無理だ」
エレーナがそう断言したのは、やはり黒狼が放つ殺気を感じているからだ。
とてもではないが、これから降伏するとは思えない殺気。
それこそ降伏ではなく、これから戦いを挑もうとしていると言われても納得出来る。
「……それでも、頼む」
本来なら、エレーナの言うことが正しい。
それが分かっていながらも、何だかんだと黒狼と関わってきたレイはそう頼む。
実際に黒狼と接した時間というのは多くはなく、本来なら何故そこまで黒狼に拘るのかと、そう言われてもおかしくはない。
それでも、レイは黒狼を相手にしてそう思ってしまったのは間違いのない事実なのだ。
そんなレイの思いが理解出来たのか、それともレイの様子からこれ以上は何を言っても無駄だと判断したのか……やがて、エレーナは溜息を吐いてから口を開く。
「もし黒狼が周囲に……アネシスの住人に被害を出そうとしたら、私も手を出す。ケレベル公爵家の者として、それだけは譲れん。それでもいいか?」
エレーナの言葉にあるのは、それだけは絶対に譲れないという覚悟。
レイも、そんなエレーナの言葉に対しては特に反対することなく頷きを返す。
「分かった。黙って見ていてくれるのなら、俺はそれで構わない」
「うむ。では、行くか。この様子では、向こうもこちらが来るのを待っている様子だしな」
そう告げるエレーナの視線が、屋根の上でじっとレイを見つめている黒狼に向けられる。
だが、黒狼はエレーナにそんな視線を向けられているというのを知っていても、それに対して何か反応するようなことはない。
ただ、ひたすらに自分の獲物たるレイだけに視線を向けていた。
「……向こうはレイに夢中か。私が無視されるというのは、少し珍しいな」
そう言って笑うエレーナは、やはりまだ若干の酔いが残っているようにレイには思えた。
もっとも、実際に戦闘になればエレーナの中にあるエンシェントドラゴンの力が完全に酔いを消去するだろうというのは、レイにも予想出来たのだが。
(ま、それはそれとして……)
今はエレーナのことを考えるより、黒狼のことを考えた方がいい。
そう判断したレイは、遠くにいる黒狼を見ながら歩き出す。
幸いにも、レイはミスティリングを持っており、デスサイズや黄昏の槍のように、普段から使う武器はその中に収納されている。
そうである以上、武器を取りに一度ケレベル公爵邸に戻るといった真似もしなくてすむ。
(武器を取りに戻ると言えば、黒狼なら待っててくれそうな気がしないでもないけどな。……もっとも、それは今の黒髪じゃなくて銀髪の方の黒狼だけど)
今から戦うべき相手のことを考えつつ、レイは道を歩く。
何度かアネシスの中を歩いたこともあり、何となく現在自分がどの辺りにいるのかというのは理解していた。
もっとも、アネシス程に巨大な都市ともなれば、入り組んでいる場所はかなり入り組んでいる。
そのような場所だけに、どうしても初めてくるような者であれば道に迷うのだが……今のレイは、不思議と特に迷う様子も見せずに道を進む。
セトと一緒に空を飛んでいる時は、微妙に道を間違ったりもするのだが、今のレイはそんな様子は全く見せない。
レイの後ろを歩くエレーナは、何故レイがこのような場所でここまで迷わず移動出来る? と疑問を抱くも、今のレイにそれを尋ねてもそれを教えて貰えるとは思わずに黙ったままだ。
二人が黙って道を歩き続けること、約十分。
やがて、不意に目の前が開けた。
本当に不思議な程に目の前が開け、小さな公園くらいの開けた場所。
その中心部分に、先程までは建物の屋根にいた筈の黒狼が待っていた。
「何?」
そんな黒狼の姿を見て、エレーナは視線を先程まで黒狼が立っていた建物の方に向ける。
だが、黒狼がここにいる以上、当然屋根の上に黒狼の姿がある筈がない。
エレーナが混乱しているのは、レイにも分かった。
それはレイも一度通った道なのだから。
「黒狼のスキルらしい。……具体的にはどんなスキルなのかは分からないけどな」
エレーナに聞こえるように呟くと、レイは改めて黒狼に向けて一歩踏み出す。
「さて、久しぶりだな。今日もまた、肉まんを食べに来た……って訳じゃなさそうだが」
今も、黒狼はレイに向けて殺気を飛ばしている。
それこそ、普通の人間なら何らかの影響を受けてもおかしくないような、それ程に強力な殺気だ。
だが、レイは黒狼の殺気を特に気にした様子もなく、ミスティリングの中から肉まんを取り出す。
前に肉まんを見せた時は、それこそ次の瞬間には肉まんにじっと視線を向けていた黒狼だったが、今はそんな様子は全くなく、レイに向けられた殺気も止まっていない。
以前とは違い、感情を見せる様子がない黒狼の視線を一身に受け止め、レイは手に持っていた肉まんをミスティリングに収納する。
「どうやら、問答無用って感じらしいな。……ただ、この前までは普通に話していたと思うんだけど、何故急にこんな状況になったんだ?」
手に何も持たずに尋ねるレイだったが、黒狼はそんなレイに対して何を答えるようなこともしない。
いや、元々レイも黒狼が話している光景を見たことがないのだから、それは特に不思議ではないのだが。
それでも、レイは黒狼に向かって尋ねる。
「肉まんが気にくわないなら、何か他の肉でも食うか? そうだな、オークの肉を使ったシチューとかどうだ?」
餌付けをした為か、レイとしては出来れば黒狼とは戦いたくない。
そもそも、以前はあれだけ暗殺者とは思えない程に無邪気だったのに、何故今はここまで殺気を向けてくるのか。
黒狼との付き合いが短いだけに、その行動原理を完全に理解しろという方が無理だった。
一歩、二歩と黒狼に近づき……次の瞬間、今まで感じていた殺気がより濃密になり、レイは殆ど反射的にその場を跳びのく。
すると、一瞬前までレイのいた場所のすぐ後ろに黒狼の姿があり……レイの身体のあった場所に、鋭く尖った、それこそ短剣の如き爪を振るっていた。