1856話
「レイ、これでどうだ!」
どん、という音を立てて、スープ皿がテーブルの上に置かれる。
その皿の中に入っているのは、スープと麺。
……そう、新年のパーティーがあって忙しかった筈なのに、ゲオルギマは未だにラーメンの研究を続けていたのだ。
全面的にという訳にはいかないだろうが、それでも可能な限りラーメンの研究もしていたゲオルギマの料理に対する熱心さには、レイも感心するしかない。
ましてや、こうして試食出来るようになるまでのラーメンが出てきたのだから。
スープからは魚醤の香りが漂っており、食欲を刺激する。
(魚醤を使ったラーメンって、分類的にどうなんだ? 魚醤ってくらいだから、やっぱり醤油ラーメンでいいのか? いや、でもしょっつるを使ったラーメンは醤油ラーメンではなく、しょっつるラーメンって名前だったしな)
取りあえずラーメンはラーメンだということにして、改めてスープ皿に視線を向ける。
普通よりも少し深く作られているスープ皿は、ラーメンを入れるのにちょうどいいのだろう。
スープ皿の中に入っているのは、スープと麺のみ。
本来のラーメンであれば、ここに煮卵、チャーシュー、メンマ、海苔、刻んだ長ネギといった風に幾つものトッピングが乗るのだが、今回重要なのは麺なのでその手のトッピングはないのだろう。
目の前にあるスープ皿を手に取り、レイはまず一口スープを飲む。
丼……否、スープ皿に直接口をつけるというのは、無作法だと言われてもおかしくはない。
だが、折角なので、レイはそうやって飲みたくなったのだ。
スプーンを使って飲んでも、それはそれで構わないとは思うのだが、やはりこうして飲んだ方が美味そうに思えるというのが、その最大の理由だった。
まず口の中に広がったのは、濃厚なまでの魚の旨み。
以前にもゲオルギマが魚醤を使って作ったスープを飲んだことはあったが、今の一口はその味が……深みとでも呼ぶべきものが違っていた。
「美味い」
一言だけ呟かれたレイのその言葉に、ゲオルギマとその弟子達は全員が満足そうな笑みを浮かべる。
新年のパーティーや、その前日に行われる使用人の慰労パーティー。
それらに出す料理も決して手を抜かずに作り上げ、それでいながらラーメンの試作についても研究の手を止めるようなことはしなかった。
レイはもう数日もすればギルムに帰ると言われている以上、出来るだけチャンスを逃さないようにと考えるのは当然だろう。
そんな苦労の結晶とも言えるスープを飲んで美味いと言わせたのだから、それを嬉しく思うなという方が無理だ。
(俺が知ってるラーメンのスープとは微妙に違うけど……まぁ、醤油じゃなくて魚醤だし、それはしょうがない。この先も研究を続けていけば、もっと進化する余地はあるだろうし。それに醤油とか味噌もいずれは……)
これからのラーメンのスープを想像しながら、次にレイはフォークで麺を巻く。
やっぱりこういう時は箸の方がいいと思いつつ、それを口に運ぶ。
ラーメンで重要視される――それでいて他の国では行儀が悪いとされることも多い――啜るという行為は、パスタのようにラーメンを食べている状況では出来ない。
そのことを少しだけ残念に思いつつも、レイは麺を味わう。
(似てるけど、違う)
それが、麺を食べたレイの正直な感想だった。
うどんに比べると、明らかにレイが知っているラーメンの麺に近づいてはいる。
近づいてはいるのだが……それでも、やっぱりどこか麺の味や食感といったものがレイの知っているラーメンの麺とは違った。
「美味い」
麺を食べ終えたレイがそう言ったのは、お世辞でも何でもない。正直な、心からの気持ちだった。
だが、それでも……いや、だからこそと言うべきか、それを見ていたゲオルギマの表情に苦いものが浮かぶ。
レイの表情から、麺を美味いと言ったのは間違いないと理解しつつ、同時にそれが思っていたのと違うという風に読み取った為だ。
それは同時に、レイがラーメンという料理を食べたことがあるのだと、そうゲオルギマに確信させるには十分だった。
でなければ、本で見ただけの料理を食べて、美味いや不味いではなく、思っていたのと違うといった感想は出てこないだろうと。
(なら、何故それを言わねえ? ……まぁ、レイのことだ。何らかの理由があるのは間違いないんだろうが。レイの性格を考えれば、勿体ぶってるというのは有り得ないだろうしな)
若干の不満を抱きつつ、それよりも今は他にやるべきことがあると、ゲオルギマは口を開く。
「レイ、正直に言え。そのラーメンの麺……お前が思っていたのと違うな?」
ゲオルギマのその言葉に、レイの反応を喜んで嬉しがっていた弟子達が驚きを露わにする。
他の弟子達にしてみれば、レイは自分達の作ったラーメンを喜んで食べているようにしか思えなかったからだ。
この辺りが、師匠と弟子の大きな違いなのだろう。
じっとゲオルギマに見つめられ、それこそ嘘は許さないといった視線を向けられたレイは、やがて渋々とだが頷きを返す。
「そうだな。正確には俺が本で読んだ内容と、この麺の食感とかは違うように思えた。ただ、それはあくまでも俺がそう感じてるだけで、もしかしたら……」
「違うな」
レイの言葉を遮り、ゲオルギマは断言する。
それこそ、まさにこれこそが有無を言わせずといった表現が相応しいだろう、そんな言葉。
「誤魔化しはいい。お前が、この麺をラーメンの麺と違うと、そう感じたのかどうか。それだけを聞かせろ」
「……違う」
ゲオルギマの問い……いや、寧ろ詰問と呼んでもいい言葉に、レイは結局それだけを答える。
それは、ゲオルギマの目を見て自分がラーメンという料理を知っている……それこそ、本で読んだだけではなく、実際に食べたことがあるというのを見抜かれたと、そう判断した為だ。
だが、それはあくまでもレイとゲオルギマの間だけで共有されたことで、周囲にいる他の者達には全く分からなかった。
そんな二人の会話の本当の意味は周囲には分からなかっただろうが、ゲオルギマにとっては周囲の者達のことよりも自分が作った料理をより美味くする方に意識を集中するのは当然だった。
「で? 具体的にどう違うんだ?」
「そうだな、さっきも言ったとおり歯応え……麺を噛んだ時の感触がこの麺と俺が本で知った麺とは違うように思えた。以前にも言ったと思うけど、ラーメンの麺にはかん水ってのが使われている筈だ。それが具体的にどんなのか、俺には分からないけど……これは、何を使ったんだ?」
「とあるモンスターの体液を濃縮した液体だ。ここからかなり離れた場所にある国では、パンを作る時にこれを使ってるらしい」
ゲオルギマのその言葉に、レイは意外そうに目を見開く。
かん水について話していたのに、まさかここでモンスターの体液云々などというものが出てくるとは、全く思わなかったのだ。
「それは……取りあえず、かん水じゃないと思う」
少なくても、レイが知っているかん水というのは普通に日本……いや、地球で使われていたものである以上、モンスターの体液を濃縮するなどといった真似をして入手することは出来ない。
なお、モンスターの体液を濃縮という点については、レイは特に思うところはない。
そもそもの話、モンスターを普通に食料として捉えているのだから、その体液を食材――という表現がこの場合正しいのかどうかは不明だが――にしても、特に問題はないというのが、レイの認識だった。
地球でも、動物の血をソーセージに利用したり、鮫の体液を健康食品に利用したりといった風に、体液は利用されている。
そのくらいは、レイもうろ覚えではあったがまだ覚えていた。……具体的にどうやって動物の血を料理に使うのかと言われれば答えられないのが、レイらしいのだが。
そうである以上、かん水代わりにモンスターの体液を使ったと言われても、レイとしては特におかしいとは思わなかった。
……残念ながら、レイが知っている麺とは若干違う物になってしまったが。
「そうか? だが、レイはかん水というのがどういう物なのか知らないんだろう? なら、もしかして……」
「あー……取りあえず、モンスターの体液を使うとは書いてなかったと思う」
自分がラーメンを食べた経験があるというのが知られたのはともかく、まさか異世界からこのエルジィンにやって来たなどというのは、言う訳にもいかない。
(いやまぁ、ゲオルギマの性格を考えれば、もし俺が異世界から来たって聞いても、特に何も感じないか? ……異世界の料理を教えろって言ってくる可能性は高いけど)
料理に対して、それこそ執着とでも呼ぶべきものを持っているゲオルギマであれば、それはほぼ確定だと言ってもいいだろう。
だが、生憎とレイは日本にいた時も、別に料理が得意だった訳ではない。
それこそ、うどんやピザ、肉まんといった料理についても、大雑把な説明しか出来ず、実際にそれを研究して作るのは料理人なのだ。
もしゲオルギマに日本の……もしくは地球の料理について教えろと言われても、どういう料理なのかといったことは教えられるが、それをどうやって作るのかといったことを聞かれれば、まさにお手上げ状態になる。
それこそ、今こうしてゲオルギマが苦労しているラーメンがその証拠だろう。
ラーメンがどのような料理なのか……スープの味、麺の食感、トッピングの具。
それらがどのようなものなのかを説明は出来たが、実際に作り方を分からない以上、こうしてゲオルギマ達が何とかラーメンを作ろうとしている。
ラーメンという一品の料理でこれなのだから、それ以外にもレイが知っている料理を教えるなどということになれば……それこそ、ギルムにいつ帰れるようになるかすら分からない。
もしくは、レイと一緒にゲオルギマもギルムにやって来るという可能性すらある。
ケレベル公爵家に雇われている以上、本来ならそのような真似は出来ない筈だったが、ゲオルギマの持つ料理への執念を考えればそのような手段に出る可能性は決して低くはない。
いや、低くはないどころか、間違いなくギルムにやって来るだろうという予感がレイの中にはあった。
「体液じゃない、か。……となると、これは使わない方がいいのか?」
そう言いつつ、ゲオルギマは調味料が置かれている場所にある壺に視線を向ける。
そんな仕草から、その壺の中身こそが今回かん水の代わりに使われたモンスターの体液を濃縮したものなのだとレイも理解する。
若干残念そうな様子のゲオルギマだったが、レイはそれに待ったを掛ける。
「別にそれを使ってもいいんじゃないのか? 俺が食べたラーメンは、確かに思っていたのとは若干違った。けど、それでもうどんとかに比べると、ラーメンの麺に近づいているのは間違いない。なら、このままその体液を使って、改良していく……ってのが最善だと思うけど? かん水の正体が分からない以上は」
そう、かん水が具体的にどのような物なのかが分からない以上、それを探すのは継続しつつも、同時にこのままモンスターの体液を使った麺を改良していくというのが、レイには最善に思えた。
かん水を使っていないのだから、結果として出来るのはラーメンではないかもしれない。
だがそれでも、ラーメンに近い料理にはなるだろうし、もしくはラーメンを超える料理になる可能性は十分にある。
であれば、その機会を捨てるというのは勿体ないようにレイには思えた。
「そうか? まぁ、このラーメンは……いや、ラーメンとは呼べないのかもしれないが、それなりに美味くなりそうな気はするが」
レイの言葉に、ゲオルギマは満更でもなさそうに告げる。
普段は強面の顔が、少しだけ……本当に少しだけだが、嬉しそうな笑みを浮かべる。
本来なら、ラーメンを食べたことのないレイがそのように言っても、信じられるかどうかは微妙なところだ。
だが、ゲオルギマはレイが実際にラーメンを食べた経験があるのだと、そう理解している。
だからこそ、レイのその言葉に対しても特に不満を言うでもなく、大人しく納得したのだ。
「分かった。かん水ってのを探すのは止めねえが、こっちの調味料を使ったラーメンの研究もさせて貰う」
調味料? と一瞬だけその言葉に首を傾げたレイだったが、すぐにそれがモンスターの体液のことだと理解する。
体液を調味料と言い切るゲオルギマに少しだけ驚くが、それでもレイも動物の血を調味料……いや、食材にすることには違和感がないのだから、その辺は料理人としての考え方からくるものなのだろう。
「ああ、そうしてくれ。このまま、その……調味料を使って研究していけば、もしかしたらラーメンを超えたラーメンが出来るかもしれないしな」
そんなレイの言葉に、ゲオルギマは獰猛と呼ぶに相応しい……それこそ料理人が浮かべるとは思えないような笑みを浮かべるのだった。




