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レジェンド  作者: 神無月 紅
ケレベル公爵領
1855/3865

1855話

 ミレアーナ王国第二の都市たるアネシスであっても、当然ながら夜になれば暗くなる。

 アネシスを治めているケレベル公爵邸ともなれば、それこそ全く明かりに困るようなことはなかっただろうが、そのような場所は数少ない例外だ。

 例えアネシスといえども、当然のように街中の大部分は夜ともなれば暗闇に閉ざされるのは当然だった。

 そんな暗闇の中を、黒狼は走る。

 黒狼という名前通り、闇に溶け込みながら走るその様子は、超の付く一流の暗殺者と言われれば、誰であっても信じるだろう。

 道を、建物の屋根を、場合によっては壁すらも走りながら、黒狼は目的の場所に向かう。

 ……それでいながら、手の中にレイから貰った肉まんがあるのは……これもまた、黒狼らしいと言っても間違いではなかった。

 それでいながら、屋根や壁を走っているにも関わらず、家の中にいる者には全く気が付く様子もない。

 それこそ家の中の者が眠っていても起きる様子はなかったし、何らかの作業をしていても、もしくは酒を飲んでいたりといった真似をしても、全く気が付く様子はなかった。

 途中で街中を見回っている警備兵に遭遇もしたが、その警備兵は黒狼の姿を見つけることは出来ない。

 夜に、闇に、死に生きる暗殺者だからこそ、他の住人……表の世界に生きる住人は、黒狼の姿に全く気が付く様子はない。

 そうして夜の闇を走っていた黒狼は、ようやくその足を緩める。

 もっとも、それでもかなりの速度なのは間違いなく、普通の者であれば黒狼を見ても恐らく見つけることは出来ないだろうが。


「……」


 無言で周囲を見回していた黒狼は、やがて手の中にある肉まんを名残惜しそうに見つめつつ、口に運ぶ。

 現在黒狼がいるのは、スラム街にある中でも比較的高い建物……の、屋上。

 それこそ、普通であれば夜でなくても上がってこようとは思えない場所だ。

 建物そのものが古く、それこそいつ倒壊してもおかしくない程なのだから。

 そんな状況でも平然としていられる……どころか、雪が降りつつも月の姿を見ることが出来るという夜景を楽しむことが出来るのは、黒狼だからこそだろう。

 もしこの場にレイがいれば、月見をする為にわざわざ姿を消したのか! と不満を言われてもおかしくはない場所だ。

 そんな夜の景色の中、雪が降っているにも関わらず、全く寒そうな様子を見せずに肉まんを口に運ぶ。

 レイの部屋から脱出し、冬の夜の中を走ってきたのだから、当然肉まんはもう冷えている。

 だが、黒狼はそんな肉まんをゆっくりと口に運び、一口ずつ味わうように食べていく。

 当然だが、冷めた肉まんというのはそこまで美味くはない。

 いや、人によっては不味いと断言する者すらいる。

 そんな肉まんではあったが、それでも黒狼は自分の手の中にある肉まんを大事そうに食べていった。

 どれだけ大事に食べても、当然だが食べ続けていればいずれなくなってしまう。

 黒狼は手の中で小さくなっていく肉まんを悲しそうに見つめていたが、それでも肉まんを食べる手は止まることはなく食べ進め……やがて、最後の一口が黒狼の口の中に入ると、レイの前では見せたことがないような、悲しそうな表情を浮かべた。

 そのまま数分、黒狼はやがて肉まんがなくなった手を残念そうに……名残惜しげに舐めると、その場から跳躍する。

 黒狼が今までいたのは、普通の人間なら飛び降りればそれは死に直結するような高さの場所だ。

 にも関わらず、黒狼は全く恐怖の表情すら見せずに跳躍し、音を立てるようなことがないままに地面へ着地した。

 地面に着地した瞬間に膝を曲げ、衝撃を完全に殺したのだ。

 とてつもなく高い技量を必要とする行為ではあるのだが、黒狼にしてみればそこまで難しいことではなく、それこそ鼻歌交じりにでも出来る行為でしかない。

 ある意味で技術の無駄遣いと言ってもいいような行為をしながら地面に着地した黒狼は、そのまま再び走り出す。

 目的地は、スラム街の中でも特別な場所だ。

 そうして夜の暗闇を駆けていた黒狼の視界にやがて映し出されたのは、本来ならスラム街にあるとは思えないような、普通の一軒家。

 にも関わらず、誰も見張りがいないのは……この家に住んでいるのが誰なのか、この辺りの者であれば誰であっても知ってるからだろう。

 幾らスラム街の住人であっても、この家に盗みに入るような真似だけは絶対にしない。

 そのような真似をすれば、それこそ自分の一生そのものが終わるのだと、知っている為だ。

 黒狼は、そんな家の中に特に何の警戒もなく……それこそ自分の家であるかのような気安さで入っていく。


「おや、いらっしゃいませ」


 扉を開けた向こうで、それこそ黒狼が来るのを知っていたかのように待っていた執事が、一礼する。

 それこそ、このような普通の家ではなく、貴族の屋敷で執事をしていてもおかしくはないだけの優雅さで一礼したその男は、だがふと黒狼から漂ってくる香りに気が付き、表情は動かさないままであっても少しだけ驚く。

 黒狼から漂ってきたのは、間違いなく食べ物の……料理の香りだったからだ。

 警戒心が強く、それこそこの家の主たる人物が誘っても滅多に食事をすることがない黒狼にしてみれば、かなり珍しいことだ。

 とはいえ、執事は特にそれ以上は何を聞くでもなく家の中に案内する。

 ケレベル公爵邸……どころか、それ以外の貴族の屋敷と比べても、この家は小さい。

 そのような家で執事の案内が必要なのかと言われれば、普通なら疑問を抱いてもおかしくはなかった。

 だが、この家の場合は話が別だ。

 誰がこの家に住んでいるのかといったことは、周囲の者に知られてはいる。

 だとすれば、この家に住んでいる者の命を狙ってやってくる者もいるということになる。

 アネシスにおける裏の世界にて、非常に大きな影響力を持っている者がこの家に住んでいるのだから、他の街や都市からアネシスに進出してきた者であれば……ましてや、血の気の多い者であれば、アネシスにいる者であれば絶対にやってはいけないことをやらないとも限らない。

 そんな理由で、この執事や他にも数名……一緒に行動しなければならない場所が、ここにはある。

 それこそ、何も知らないで行動すれば命に関わるような罠が発動しないとも限らないような、そんな場所が。


(もっとも、黒狼と呼ばれる程の方だ。この家に仕掛けられている罠の類は、それこそ発動してからでも普通に回避出来てもおかしくはないでしょうがね)


 黒狼の顔を見ながら、執事は廊下を歩いて目的の場所に……この屋敷の主がいる場所に向かう。

 元々がそこまで大きな家という訳ではないので、それこそ数十秒程度でその部屋に到着し、扉をノックする。


「失礼します、旦那様。黒狼様がいらっしゃいました」

「通してくれ」


 部屋の中から聞こえてきた声に、執事は扉を開ける。

 とはいえ、部屋の中に入るのはあくまでも黒狼だけで、執事はそのまま部屋の前から立ち去っていった。

 本来であれば、このような行為は主人にあたる相手にも、そして客としてやってきた黒狼に対しても礼儀知らずだと言われてもおかしくはない。

 だが、この家の中には相応のルールがあり、それに従うのは当然だった。

 黒狼も何度も来ているので、そんなやり取りを見ても特に何も思うようなことはなく部屋の中に入る。

 ここまで来るまでの廊下にあった家具も、どれもが一流の品と呼ぶべき物だった。

 だが、この部屋の中にあるのは、それらと比べても明らかに格上の家具が揃っている。

 それこそこの家具の一つでも売れば、一般の家庭であれば数十年は遊んで暮らせる……それどころか、質素な生活をするのであれば一生暮らせるだけの金額になるだろう価値を持つ家具の数々。

 何より、そのような高級な家具を普通に使っているというのが、この家にいる者の格を表していた。

 実際には、何も考えていないような……それこそ、この家具の価値を聞いても馬鹿らしいと思うような者であれば、この部屋にある家具を普通に使ってもおかしくはない。

 だが、この家に住んでいる者は、それを承知の上で様々な家具を使っているのだ。

 ……もっとも、黒狼にはその家具の価値というものは、全く分からなかったのだが。


「よく来たね、黒狼」


 そう声を掛けてきたのは、三十代半ば程の男。

 このような家を持ち、アネシスの裏の頂点に立つ男としては些か若いと言ってもいいだろう。

 だが、実際にこの男があらゆる手段を使ってアネシスの裏世界でのし上がり、頂点に立った……というのは、間違いのない人物なのだ。

 勿論その激しくも静かな暗闘には、黒狼も協力したのだが。

 黒狼はあくまでもフリーの暗殺者であって、この男の部下という訳ではない。

 それでも黒狼の世話をしてくれた人物なのは間違いなく、黒狼がこのアネシスで最も気を許している人物であるというのも、また間違いなかった。


「おや? いつもと違うようだけど……どうしたのかな?」


 傍目に見ても、今の黒狼といつもの黒狼の様子が違うというのを見分けるような真似は出来ない。

 それが出来たのは、やはりそれだけ多くの時間を男が黒狼とすごしてきた為だろう。

 そんな男に、黒狼は何も言うようなことはなく、ただ男が書類の整理をしていた執務机から少し離れた場所にあるソファで丸くなる。

 このソファもまた、当然のように非常に高価な代物なのだが……黒狼にとっては、それは関係ないのだろう。


「全く……」


 男はそう言いながら、ソファで眠っている黒狼に視線を向ける。

 そこにいるのは、アネシスの裏社会を司る男……ではなく、どこか家族を心配するかのような表情を浮かべている一人の男だった。

 男に……セレスタンにとって、黒狼というのは手駒であると同時に仲間であり、家族に近い感情を抱いていた。

 もしこの場にセレスタンの部下がいれば、黒狼を見る今のその様子に驚いていただろう。

 とてもではないが、普段のセレスタンとは違った様子だったのだから。


(それにしても……)


 セレスタンは、再び書類に目を戻しつつも小さく呟く。

 今日の黒狼は、やはりどこかいつもと違うと。

 それは、何だかんだと黒狼と長い付き合いだからこそ感じた疑問に近い。


(少なくても、何か悪いことがあったという訳でもなさそうですし……このまま放っておいてもいいんでしょうかね)


 黒狼は、暗殺者をやっているだけあって他人の悪意には敏感だ。

 ……そんな黒狼が、自分の前でこうして無防備に眠っているというのは、セレスタンにとっては非常に嬉しい出来事だった。


(ともあれ、黒狼に何かあったのは事実。考えられるとすれば、深紅か)


 現在黒狼が受けている依頼は、深紅の暗殺。

 もっとも、既にその依頼をした男が表に出るようなことはないのだが。

 ともあれ、黒狼が仕事をしている今の状況で何かが起きるとすれば、そこで考えられるのはその標的たるレイ以外に有り得なかった。

 元々、黒狼の持つ能力があれば、暗殺をするのに手間取るということはない。

 そんな黒狼であっても手こずるのは、やはり深紅の異名が伊達ではないということの証だろう。


「それでも……既に依頼主がいないとしても、今回の依頼を引き受けたのは間違いなく黒狼だ。そうである以上、この依頼を中断するという選択肢は存在しない」


 言葉に出しつつ、セレスタンは首を横に振る。

 実際にはガイスカという今回の依頼をしてきた人物が報酬の残りを支払えない以上、ここで依頼を中断しても問題はないのだ。

 ただし、そのような真似をすれば黒狼という暗殺者が依頼に失敗したと、そのように思う者も出てきかねない。

 セレスタンの立場があれば、そのような戯れ言を気にする必要はないし、黒狼もまた他人の評価というのを気にする性格ではない。

 だが、それでも……それでも、黒狼という人物を知っているセレスタンにしてみれば、黒狼の評判が落ちるというのは面白くなく、出来れば避けたいことだった。

 だからこそ、今は若干の無理があると理解していながらも、黒狼にレイを狙って貰っているのだから。

 レイという存在が、セレスタンにとって厄介な存在……という訳ではない。

 そもそもの話、もう数日もすればレイがアネシスから消えるというのは、当然のようにセレスタンも知っている。

 であれば、それこそここで黒狼がわざわざ手を出す必要というのはないのだから。

 それを承知の上で、セレスタンは黒狼への仕事をキャンセルするつもりはなかった。


(ガイスカとかいったか。あの男の血には、それだけの価値があるのも間違いない。……古い血筋というのは、本人の能力以上に価値がある、か)


 一瞬だけガイスカが現在地下でどのようになっているのかを考えるも、セレスタンはすぐにそれを忘れ、幸せそうに眠る黒狼に視線を向けるのだった。

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