1854話
夜のレイの部屋の中。
そこには、本来ならレイの命を狙っている筈の黒狼の姿があった。
狙う者と狙われる者。
そんな二人が一緒の部屋にいるにも関わらず、戦闘が起きる様子はない。
いや、それどころか穏やかな様子で二人は話し合ってすらいた。
……もし事情を知っている者がこの光景を見れば、何故そのようにしていられるのかと、強い疑問を抱いてもおかしくはない。
とはいえ、レイは黒狼と戦っても、正面からの戦いなら負けるというつもりは一切ない。だからこそ、このような態度を取ることも出来たのだろうが。
「で、お前のスキルがはっきりとしたところで、聞いておきたい。お前は何で俺につきまとう? その割には、俺を殺そうともしない。……まぁ、ベランダでは軽く戦ったけど、あれだって別に本気の戦いって訳じゃなかったしな」
「……」
尋ねたレイに対して、戻ってきたのはやはり無言の返答のみ。
何を考えて黒狼がそのような態度を取っているのかは分からないが、レイにしてみればどうすればいいんだ、というのが正直なところだった。
(いっそエレーナとかを呼ぶか? いや、けどエレーナを見ても黒狼が黙ったままなのかどうかは分からないしな)
レイの前では特にこれといった反応を見せない黒狼だったが、それがエレーナの前でも続くとは限らない。
もしかしたら、それこそ過剰に反応して激しい戦いにならないとも限らないのだから。
そうなった場合、面倒なことになるのは確定だろう。
であれば、当然ながらそんな目に遭いたくないレイとしては、このまま自分だけで黒狼をどうにかしたい。
「俺の言葉に頷いてたりするってことは、別に言葉が分からないって訳じゃないよな?」
確認の為の質問であったが、黒狼はレイの言葉に素直に頷く。
「となると……もしかして、単純に喋ることが出来ないとか、そういう理由だったりするのか?」
次の質問には、首を傾げられる。
否定するのでもなく、肯定するのでもない。
白でもなく、黒でもない灰色といったところか。
(これは、どう判断すればいいんだ? こっちの言葉を理解出来ているのか、いないのか)
黒狼を前に悩むレイだったが、無邪気とすら言える視線で自分を見ているのを考えると、それに対しても何と言うべきか迷う。
そもそも、無邪気な視線で自分を見ている黒狼だったが、その黒狼は今まで何人も殺してきた暗殺者だ。
……人を殺したという点では、レイはベスティア帝国の戦争を含めれば、万単位で人の命を奪っているのだが。
ともあれ、レイの前にいるのは凄腕の暗殺者であるのは変わらないし、薬を使ってレイ達を襲わせるといったような真似すらもしている人物だ。
そうである以上、本来ならこうして無邪気な視線を向けてくるということそのものが、色々な意味でおかしい。
おかしいのだが……それでも、レイは目の前にいる黒狼をすぐにどうこうしようとは思わなかった。
とはいえ、それはこのまま黒狼となあなあで済ませるつもり……という訳ではなく、いずれ、それこそ最終的には雌雄を決する時がくるのだろうというのは、十分に理解している。
だが、それでも……それでも、現在のレイは黒狼を前に何かするつもりにはなれなかった。
(話していて、情が湧いたって訳でもない……とは思うんだけどな)
自分ではそんなつもりはないが、もしかしたら自然と情が湧いたのか。
そんな疑問を抱きつつ、取りあえずとレイはミスティリングの中から冷えた果実水を取り出す。
本来であれば、今は冬だ。
冷たい果実水ではなく、それこそ温かいスープなり紅茶なりを飲むのが相応しいだろう。
だが、ここはケレベル公爵邸で、当然のようにエアコンのような効果を持つマジックアイテムが使われている。
一見して城と見間違ってもおかしくない程の規模を持つ屋敷のほぼ全てにそのマジックアイテムの効果を行き渡らせているのだから、それがどれだけ大量の……もしくは高性能のマジックアイテムを用意しているのかを示していた。
それだけに、当然レイのいる部屋も快適にすごせるようになっており、レイの体感ではあるが、気温は約二十℃前後といったところか。
冷たい果実水を飲むのに躊躇するような気温ではない。
「……?」
最初コップに入った果実水を渡された黒狼は、何故自分に? といったように疑問の表情を浮かべていたが、それでもコップの中から漂ってくる甘酸っぱい匂いに惹かれたのだろう。やがてそっとコップを口に運ぶ。
ふわり、と。
黒狼の顔に満面の笑みが浮かぶ。
黒狼にとって、果実水とは初めて飲むものだったのか……もしくは、冷えた果実水を飲むのが初めてだったのか。
(いや、けど……異名持ちすら殺せる腕利きの暗殺者なんだろ? しかも法外な報酬で雇われる。なら、金に困るなんてことはないと思うんだが)
黒狼についての噂から、そう考えるレイだったが……こうして見ている限りでは、黒狼はとてもではないが贅沢をするように見えない。
着ている服も実用性――この場合は戦い――に適してはいるが、高級そうな服という訳ではない。
もっとも、実用性が高い服というのは当然のように相応の値段がすることもある。
ましてや、それが黒狼のように凄腕の暗殺者が着ている服となると、当然その素材にも相応の格が必要となり、値段は跳ね上がる。
……とはいえ、レイの目から見た限りでは、黒狼が着ている服にはそこまで希少な素材を使っているように思えなかったが。
「もう一杯飲むか?」
尋ねるレイに、黒狼は頷きを返す。
レイにしてみれば、この果実水は夏に買い貯めをして、それをミスティリングに収納しておいたもので、飲み慣れている。
実際には、果実水を売っている屋台というのはそれなりの数があり、店によって味が大きく違う。
仕入れた果実の質や、果実の組み合わせ、水に対してどのくらいの割合で果汁を入れるか。
それらが複雑に絡み合い、果実を絞って水で薄めるだけという飲み物であるにも関わらず、店によって味は大きく違うのだ。
だからこそ、自分の好みの味を見つけるのが大変で、同時に宝探し的に楽しむことも出来るのだが。
また、冷却用のマジックアイテムを使って冷やした果実水を売る屋台といった物もある。
……レイのミスティリングに入っているのは、マリーナの精霊魔法で冷やして貰った果実水だが。
ともあれ、レイが好む果実水は黒狼にも十分に喜んで貰えたらしい。
「こういうの、飲んだことがないのか?」
「……」
それとなく出された、レイの問い。
多少なりとも黒狼の素性、もしくは日常を理解出来るのではないかと、そんな思いから出された言葉だったが……黒狼は、それに対して特に何も反応しない。
レイの意図を悟ったからなのか、もしくはそれ以外の何か別の理由からか。
その理由はともあれ、黒狼がレイの言葉に反応しなかったのは事実だ。
そのことによって、一瞬この奇妙な時間も終わって再び戦いになるのでは? という疑問を感じたレイだったが、幸いにも黒狼はそんな様子は見せずに、果実水を味わっているだけだ。
(もしかして、果実水に夢中になっていて俺の言葉を聞いていなかっただけ……とかじゃない、よな?)
そんな疑問を抱くレイだったが、果実水を一気に飲むのではなく、少しずつ味わって飲んでいる今の黒狼の状態だから、その辺りの事情を見抜くような真似は出来ない。
(果実水でこうして喜んだってことは、もしかして食べ物を与えればこっちに気を許したりする可能性もあったりするのか?)
そう思い、レイはミスティリングの中から肉まんを取り出す。
「っ!?」
だが、肉まんを見た黒狼は、レイが思っていたよりも遙かに大きな反応を見せる。
それこそ、じっと……黒狼の名前通りに獲物を見るかの如き視線を肉まんに向けていた。
そんな黒狼の様子に驚きつつも、レイは少しだけ何故目の前に立つ人物が、黒狼と呼ばれているのかを理解する。
今の、食欲を刺激する香りを漂わせている肉まんを見た時の反応は、それこそ狼が獲物を見つけた時のものとそう変わらないように思えたのだから。
(もっとも、肉まんを割ったりしてる訳でもないんだから、今の肉まんではそこまで食欲を刺激するようなことはないと思うんだけど)
肉まんから漂ってくるのは、微かな甘い匂い。
それは、生地の匂いだ。
その匂いだけでも十分に食欲を刺激するような匂いではあったが、それでも肉まんを割った時の、中の具から漂ってくる匂いに比べると、どちらがより食欲を刺激するのかというのは明らかだった。
「食うか?」
そう尋ねるレイに、黒狼は少しだけ戸惑った後に、やがて頷きを返す。
黒狼にしてみれば、何故レイがそこまで自分にしてくれるのかが分からなかったのだろう。
だが、肉まんの魅力には勝てなかったのか、黒狼はそっと手を伸ばしてレイの持つ肉まんを受け取る。
(いやまぁ、向こうにしてみれば自分が狙っている相手が、何だって食べ物をくれるんだとか、そんな風に思ってるのかもしれないけど)
そんな風に思っているレイの視線の先で、黒狼は肉まんを美味そうに食べている。
少しだけレイが驚いたのは、黒狼が肉まんを食べる時に両手を使っていたことか。
とはいえ、手を使って食事をするというのなら、先程の果実水を飲んだ時も普通に両手を使っていたのだから、そこは驚くべきことではないのだろうが。
はぐはぐ、と。そんな擬音が相応しい様子で肉まんを食べている黒狼の様子を見ながら、正直なところこれからどうしたらいいのかと、何度目かの迷いを抱く。
何しろ、今はこうして肉まんで餌付けをしているが、実際には目の前にいるのは自分の命を狙っている暗殺者なのだ。
そうである以上、レイとしてもいつまでもこのまま同じように……という風にはいかないだろう。
それは分かっている。分かっているのだが……どうしても、今の状況のままで特に何かをしようとは思えないのだ。
「……」
レイが黒狼をどうしようかと考えていると、やがて肉まんを食べ終わった黒狼は改めてレイに視線を向けてくる。
それでも何も言わないのは、レイにとっても最早慣れた行為だ。
「あー……肉まん、もう一つ食べるか?」
尋ねるレイの言葉に、頷きを返す黒狼。
黒狼が何を思ってこのような行動をとっているのかは、レイにも分からない。分からないが……それでも、レイにしてみれば何となく構いたくなってしまう。
(餌付け……そうだな、多分端から見た場合、これって餌付けなんだろうな。……その餌付けの対象が黒狼であるというのが、微妙なところだけど)
レイは黒狼に新たな肉まんを渡した後で、自分も肉まんを口に運ぶ。
レイが知っている日本の肉まんと比べれば、やはりどこか味が違う。
だが、何が原因でそのような違う味になっているのかは、レイにも分かっていた。
各種調味料や香辛料といった代物が、日本と……いや、地球とこのエルジィンでは違うのだ。
問題なのは、それが分かってもレイではどうしようもないということだろう。
元々料理が得意な訳ではなく、この肉まんにしろ、うどんを始めとしたそれ以外の料理にしろ、レイが覚えているのはその完成品や、レシピも大体のところしか覚えていない。
そして、中華料理というのは様々な香辛料を使う。
そんな香辛料をレイがすべて覚えている筈もなく、結果として食べている肉まんは肉まんではあっても、微妙に肉まんではない代物となっている。
(まぁ、だからって不味い訳じゃないけど)
日本で食べた肉まんの味を知っているからこそ、どこか違和感があるのだが、このエルジィンの住人にしてみれば肉まんはこれしか知らない。
つまり、エルジィンにいる者にとって、肉まんとはこの味なのだ。
「……ん? どうした?」
肉まんを味わいつつ、それでもどこかに違和感のあった味について考えていたレイは、ふと黒狼が肉まんをじっと見ているのに気が付く。
「言っておくが、別に毒が入ってるとか、そういうのはないから安心していいぞ。第一、俺も食ってるだろ? ……まぁ、同じ肉まんを食ってる訳ではない以上、完全に信頼は出来ないかもしれないけど」
そう告げるレイだったが、黒狼はそんなレイの言葉など聞こえていないのかように肉まんをじっと見つめている。
それこそ、獲物でも見るような……先程レイが肉まんを取り出した時と同じような視線を。
(何だ?)
そんな黒狼の様子に疑問を抱くレイだったが、黒狼はレイの視線には全く気が付いた様子もなく、肉まんをじっと見つめるだけだ。
一体何がどうなったのか。
そんな疑問を抱き……
「え?」
レイが口を開こうとした瞬間、黒狼の姿はレイの前から消えていくのだった。