1851話
パーティーのあった翌日、レイは寝るのが遅かったこともあって、いつもより大分遅くに起きることになった。
ミランダによって起こされ、身支度を整えると、特にやるべきこともないレイとしては朝食後にケレベル公爵邸を歩き回ることにする。
尚、パーティーで着ていた、昨日寝る前にミランダが取りに来た服は、後日新品同様にして渡すとミランダに言い切られた。
レイにとっては、あの服を着るということは貴族の開催するパーティーに参加するということを意味している以上、ミランダの気持ちは嬉しいが、複雑な気分だった。
とはいえ、結局は感謝の言葉を口をしたのは間違いないのだが。
そのような訳で、現在はこうして……
「グルゥ! グルルルルルゥ!」
嬉しそうに喉を鳴らすセトと、散歩を楽しんでいた。
セトが一緒にいる以上、当然のように屋敷の中を歩ける訳もない。……もっとも、ケレベル公爵邸の屋敷の広さを考えればセトが歩き回るには十分なのだが、それでもいざというときのことを考えれば中に入ろうと思わないのは当然だろう。
また、幾らケレベル公爵邸が広くて、セトが普通に歩き回ることが出来るとしても、何かあった時のことを考えれば、それこそ以前襲撃してきた相手を迎撃する為に厩舎を壊した時の二の舞になりかねない。
そう思ってしまうのは、やはり今までのことを考えているからだろう。
(それに、セトも外の方が楽しそうだしな)
セトは大きな身体をしているだけに、周囲に気を遣わなくてもいいような場所を好むのだろう。
……とはいえ人と遊ぶことも好きなのがセトなのだが。
「イエロも、今頃はエレーナと一緒に寝てるのか?」
「グルルゥ」
レイの言葉に、セトがそうだよ、と喉を鳴らす。
ケレベル公爵邸で客として迎えられてから、イエロはかなりの時間をセトと一緒にすごしてきた。
ギルムにいる時も、イエロはセトと一緒にいる時間は何だかんだと多かったのだが……やはり、ここがアネシスにあるケレベル公爵邸、つまりイエロの家というのも関係しているのだろう。
イエロにしてみれば、今はセトが自宅に遊びに来ているようなものだ。
しかもこれが初めてとなれば、イエロがセトを歓迎しない訳がなかった。
とはいえ、イエロもまだ子供だ。
大好きな友達……親友と評してもいいセトと一緒にいるのは楽しいが、自分を生み出した、いわば母親のエレーナとも一緒にいたいと思うのは当然だった。
「セトも、やっぱりイエロと一緒にいるのは楽しかったか?」
「グルゥ!」
レイの言葉に、セトは嬉しそうに鳴き声を上げる。
レイを大好きなセトだったが、当然のようにレイ以外にも好きな相手はいる。
だからこそ、イエロと一緒に遊ぶことが出来たというのは、非常に嬉しかったのだ。
そんなやり取りをしながら歩いていると、不意に気合いの入った声が聞こえてくる。
レイに聞こえたのだから、当然のようにそれはセトにも聞こえていたのだろうが、セトはそれを気にしている様子はなかった。
聞き流しているのはレイにも分かったので、その辺は特に気にせず、セトと共に声の聞こえてきた方に向かって進む。
(聞こえてくる声は、聞き覚えのない声だ。少なくても、ケレベル公爵騎士団の者でないのは確定だな。それに何より甲高いというか……幼い?)
レイもケレベル公爵騎士団の全員の声を完全に覚えている訳ではないのだが、それでもほぼ全員と模擬戦をした経験はある。
そうである以上、このように気合いの入った声の持ち主の声であれば、その声を聞いた瞬間にそれが誰なのかを思い出してもおかしくはなかった。
「さて、誰だろうな」
特にその声の持ち主に何らかの用事があった訳ではない。
訳ではないが……それでもこうして興味を惹かれてしまったのは間違いなかった。
(警備兵か? いや、まぁ、警備兵でも訓練はするだろうけど。ただ、こうして聞こえてくるのはあくまでも一人の声なんだよな)
もし警備兵が訓練をしているのであれば、それこそ何人も……場合によっては何十人もの声がしてこなくてはおかしい。
だが、レイとセトが進む先から聞こえてくるのは、あくまでも一人の声。
ケレベル公爵邸の庭を進み……やがて、その光景が見えてきた。
やはりと言うべきか、レイの視界に入ってきたのはたった一人の男。
いや、それは男と言うよりは少年と、もしくは子供と表現した方がいいだろう。
レイの目から見た感じ、年齢はまだ十歳前後くらいといったところか。
どう見ても警備兵には見えないし、同時に聞こえてきた甲高い声の理由も声変わりをしていないということを考えれば納得だった。
とはいえ、声変わりをしていない子供であっても、稽古をしている様子を見る限りでは真剣なものだ。
子供のお遊びという訳ではないのは、傍から見れば明らかだ。
「えい、やぁっ、とおっ!」
子供は気合いの声を入れながら、手に持つ槍を鋭く突き出す。
その様子は、とてもではないが洗練されているとは言えず、寧ろ拙いという表現が相応しいだろう。
だが……それでも表情は真剣そのもので、それが槍の稽古に本人がどれだけ真剣なのかというのを示していた。
「グルゥ?」
そんな子供の様子を見ていたレイに、セトが喉を鳴らす。
まだここにいるの? と、そう態度で示しているのだ。
セトにしてみれば、折角なのでレイと一緒にもっと散歩をしたいと、そう思ってしまうのは当然だろう。
「ああ、そうだな。なら……ん?」
じゃあ、他の場所に行くか。
そう言おうとしたレイだったが、ふと先程から聞こえてきた子供の声が消えていることに気がつく。
何気なくそちらに視線を向けたレイが見たのは、何故か目を輝かせて自分を見ている子供の姿だった。
その視線にあるのは、強烈なまでの尊敬。
何故自分にこんな視線を? と思わないでもなかったが、そもそも自分が異名持ちだという時点でそのような視線を向けられてもおかしくはないかと思い直す。
「あ、あの、深紅のレイさんですよね!」
「そうだな、そう呼ばれることもある」
その子供が目の前の人物をレイと認識したのは、やはりセトの存在だろう。
ドラゴンローブのフードを被っている今のレイは、傍から見た限りではレイだと認識するのは難しい。
だが、そんなレイの隣にセトがいるのを見れば、深紅の噂を聞いたことがある者であれば、誰でもそれがレイだと認識出来るだろう。
……もっとも、レイの噂を聞いていても、それを素直に信じるかどうかというのは、また別の話なのだが。
だが、幸いにもレイを尊敬の視線で見ている子供は、含むところがないようだった。
「その……この前の模擬戦、見ました。凄かったです!」
模擬戦を見たと言い、そしてケレベル公爵邸の庭で槍の訓練をしている。
それを考えれば、この子供がどのような存在なのかは考えるまでもなく明らかだ。
模擬戦を見たというだけであれば、それこそアネシスの住人であってもおかしくはない。
だが、ここにいるのであれば、それは当然貴族の関係者だろう。
(昨日のパーティーに招待された貴族が、何か理由があってこの屋敷に泊まって、その子供……といったところか?)
恐らく間違っていないだろう予想をしながら、レイはそれに対して何かを言おうとしたのだが、その瞬間セトが背後を見る。
唐突なその行動に、レイは口を開くのをやめ、改めてそちらに視線を向ける。
それでも警戒した様子がなかったのは、セトが普段通りの様子だったからだろう。
セトとレイの行動に、子供も不思議そうな様子でその視線を追うが、そこには何も見えない。
しかし……それから数秒。やがて、誰かが走ってくる足音が聞こえてきた。
「レオダニス?」
そう、そこにいたのは間違いなくレオダニス。
ケレベル公爵騎士団の中で、一番レイと親しい相手……と、そう断言してもおかしくはないだろう相手。
そのレオダニスは、軽く息を荒くしながらレイ達の方に近づいてくる。
「ったく、散歩に行くのはいいけど、せめてどっちの方に向かうとか、そんなのは誰かに言っておいてくれないと困るぞ」
不満そうに言いながら、レオダニスはレイ達の方に近づいてくる。
そんなレオダニスの様子を見ながら、レイはふと子供の方に視線を向けた。
ちょっと走ってきたレオダニスよりも、今まで槍の訓練を続けていたこの子供の方が、より疲れているのは間違いないだろうと。
レイに視線を向けられた子供は、何故自分がそのような視線が向けられたのか分からず、荒くなりがちな息を何とか我慢しつつ首をかしげる。
レイと一緒にいる時に弱みを見せたくはないと思っているのだろう子供だったが、息の荒さは何とか我慢出来ても、その身体から漂っている湯気は隠しようもない。
(あれ? こういう場合も湯気って言うんだったか?)
ふとそんな疑問を感じたレイだったが、そんなレイに向かってレオダニスが口を開く。
「ちょっといいか? 出来ればお前に知らせておいた方がいいようなことがあったんだ」
「……何か、微妙に嫌な予感がするな」
今までの経験から……もしくは日本にいる時に読んだ漫画や小説、アニメといったものの影響からか、レイはそんなレオダニスの言葉に微妙に嫌な予感を覚える。
だが、この状況でそれを聞かないという選択肢も、また存在しないことは、レイが一番理解していた。
寧ろ、この状況で何も話を聞かなかった場合、それは最悪の未来が待っていることになるだろう。
そう確信してしまうだけの予感が、レイの中にはあった。
そんなレイの態度に何を思ったのか、レオダニスは微かな笑みを浮かべつつ、レイに尋ねる。
「で? どうする? 俺としてはこのまま帰ってもいいけど?」
「……分かったよ。話を聞かせてくれ。このまま帰られたら、後で色々と面倒なことに巻き込まれそうだ」
降参、といったように告げるレイに対し、レオダニスは満足そうな笑みを浮かべて口を開く。
「ふふん、ならいいさ。教えてやろう」
微妙に偉そうな言葉遣いをしながら言ってくるレオダニスに若干苛立ちを覚えたレイだったが、それでも今はレオダニスの話を聞く方が先だと判断し、話の先を促す。
「で? 俺に教えておいた方がよかったってのは、どういう内容なんだ? 今のお前の様子を見る限りでは、よっぽどのことのようだけど。……ここまで引っ張っておいて下らない用件だったら……」
それ以上は口に出さず、ただ笑ってみせるレイ。
だが、そのような態度こそが、レオダニスにしてみれば怖い。
もし本当にレイの興味を惹かないような情報であれば、一体何をされるのかと。
散々探し回らせられたからといって、その不満をレイにぶつけたのは間違いだったのではないか?
一瞬そんな風に思うが、それは既に遅い。
今更何を言っても、今の状況ではもう後には引けないのだから。
「セイソール侯爵家の者達が、昨夜からかなり動き回っているらしい。それも、かなりの人数が出されている」
「……セイソール侯爵家が?」
意外。
それが、今のレイの顔に浮かんでいる表情だろう。
もっとも、考えてみればそこまで意外でもないと思うのだが、それでも最初に感じたことは、その意外というものだったのだ。
「ああ。昨夜のパーティーが終わった後からだな。正確にはセイソール侯爵家の当主が自分の屋敷に戻ってから……といったところらしい。もっとも、これは人聞きだから確実とはいえないけどな」
「人聞き、ね。それでも情報は情報だよ。……俺を探していた理由が分かった」
レイがセイソール侯爵家のガイスカと揉めたというのは、それなりに知れ渡っている。
そうである以上、そのセイソール侯爵家の事情にレイが興味を惹かれない訳がなかった。
……とはいえ、結局のところ何がどうなったのか。
その辺の詳しい事情が分からなければ、意味はないのだが。
「で、その辺りの詳しい情報については何もないのか? 出来れば、もっと詳しい情報を聞きたかったんだけどな」
じっとレオダニスを見ながら尋ねるレイだったが、それに返ってきたのは首を横に振るといった行為。
今の状況では全く情報が集まっていないのだ。
そもそも、セイソール侯爵家が秘密裏に動いたという時点で、今回の件は怪しすぎる。
向こうもそれを理解しているからこそ、出来ればこの行動を他人に知られたくはなかったのだろう。
もっとも、結局はこうしてレイの耳にも入っているのだが。
「ザスカルが自分の屋敷に戻ってから、動きが活発化したのか。だとすれば、考えられるのは……」
幾つかの情報がレイの頭の中で整理される。
ザスカル自身は自分との関係を望んでいるように思えた。
そうである以上、レオダニスが言うだけの規模で動いているとなると……考えられる可能性は多くはない。
そして何より、今の状況で考えられる一番面倒な事は……
「謹慎させられているガイスカが、逃げ出しでもしたのか?」
半ば直感で、レイは正解を導き出す。
……とはいえ、それはあくまでも直感であって、実際にそれが本当なのかどうかはレイには分からなかったのだが。