1803話
「俺はブルーイット・エグゾリスだ。エグゾリス伯爵家における不肖の息子ってところだな」
レイが自分のことを知らないと思ったのだろう。ブルーイットはレイに向け、そう告げる。
「伯爵家の息子が、何だってこんな場所でこんな真似を?」
普通、貴族の子息が街中に出て……その上で、ああいう連中と揉めたりなんかはしないと思う。そう言いたげに視線を向けるレイに、ブルーイットは視線を少し離れた場所に向ける。
そこでは、頭を下げている二十代前半と思われる男女の姿。
そんな様子を見れば、レイも何となく理解出来た。
恐らくあの男女が先程のチンピラ達に絡まれ、それをブルーイットが助けたのだろうと。
(とはいえ、だからってわざわざ伯爵家の子供がそれを助けるってのは、どうかと思うけど。……いや、伯爵家の息子であっても、これだけの実力があるのなら問題はないのか? それでも、護衛とかの責任問題に発展しそうな……)
公爵や侯爵といった、高い爵位を持つ者と接することもあるレイだったが、それでも伯爵家というのは一般人から見れば十分に天の上の人なのだ。
そのような人物がチンピラと喧嘩をしているようなことが知られれば、間違いなく騒動になるだろう。
だが、レイの視線の先にいるブルーイットは、そんなことを全く気にしていないのか、頭を下げた男女に軽く手を振ると、それだけで済ませる。
そんな光景を見て、レオダニスは微妙な……本当に微妙な表情を浮かべてしまう。
本来なら、アネシスの治安を守るのは警備兵の仕事だ。
だというのに、起きたトラブルを解決したのがエグゾリス伯爵家の息子……それも次期当主という人物なのだから、レオダニスがこのような表情を浮かべるのも当然だろう。
(警備兵は何をしてたんだ?)
若干八つ当たり気味にそう考えるレオダニスだったが、別にアネシスの警備兵が怠けているという訳ではない。
いや、寧ろアネシスの警備兵はミレアーナ王国全土を見回しても優秀な方に入るだろう。
今回警備兵が間に合わずブルーイットが乱闘騒ぎを起こすことになったのは、純粋に運の問題だ。
男女二人……恐らく恋人だろう二人がチンピラに絡まれている時、偶然近くに警備兵の姿はなく、代わりにブルーイットの姿があったという、それだけの問題。
勿論運の問題だから、それで全てが解決したという訳ではないのだが。
「あー……取りあえず、ここを離れませんか? 警備兵がやって来たら、色々と面倒なことになるでしょうし」
本来なら、騎士のレオダニスとしては積極的に警備兵の為に動くべきなのだろう。
だが、今そのような真似をすれば、案内をしているレイやブルーイットに無駄に時間を使わせてしまうことになる。
現状ではそのような真似をする訳にもいかず、結局この場から立ち去ることを選択する。
もっとも、それもブルーイットがチンピラ達に絡まれていた恋人達を助けたからであって、もしそれが解決していなければ、そのような真似は出来なかっただろうが。
「ふむ。俺もレイとは少し話してみたいと思っていたんだ。どうせなら一緒に行動しないか? ここを離れるにしても、そっちの方が面白そうだし」
「……えっと、レイ?」
今回の主役は、あくまでもレイだ。
そうである以上、ブルーイットと一緒に行動してもいいのかどうかは、それこそレイに選択権がある。
レオダニスとしては、このような場所で次期エグゾリス伯爵家当主に会った以上、ブルーイットを放っておくというのは、出来ればしたくはない。
そうである以上、出来ればレイに了承して欲しいという思いでレイを見たのだが……
「ああ、俺は別に構わない。俺もちょっとブルーイットには興味があるしな」
レオダニスが聞いたのは、そんなレイの声。
予想外にレイがあっさりと頷いたのが意外だったのか、レオダニスは若干驚きの表情を顔に浮かべる。
レイについての噂は元々聞いていたが、模擬戦で手も足も出ずにレイに負けた結果、その悔しさからより詳細にレイの情報を集めた。
結果として理解したのは、レイと貴族の相性は基本的に悪い。
特に貴族派の貴族とは何度も揉めているという情報もあり、ブルーイットの言葉にレイがこうもあっさりと頷いてくるというのは完全に予想外だったのだ。
「本当に大丈夫か? レイに暴れられると、こっちが困るんだが」
「俺からは暴れるつもりはないぞ。……俺からは、な」
そう告げるレイをどうするべきかと見ていたレオダニスだったが、今の状況でこれ以上何かを言っても、それこそここで無駄に時間を費やすだけだと判断し、渋々とその言葉に納得する。
下手にここで言い争っていたりすれば、警備兵がやって来る可能性もあるのだから。
「分かった。じゃあ……ここから離れよう」
レオダニスの言葉に頷き、その場にいたレイ達は全員がその場から移動するのだった。
もっとも、レイはブルーイットが自分達と一緒にいたというのは、セトの存在ですぐに警備兵にも知られるのではないかと思っていたが。
「ほう、レイがエレーナ殿と親しいという噂は、やはり本当だったのか」
ブルーイットは煮込まれた肉の塊をエールで飲み込みながら、嬉しそうに笑う。
現在レイ達がいるのは、公園。
雪が降っている影響か、レイ達以外には誰の姿もない。
子供辺りが遊んでいてもよさそうなものだが、その姿もなかった。
恐らくどこか他の場所で遊んでいるのだろうと、レイはそれ以上気にはならなかったが。
この世界の子供は、基本的に遊ぶ時は外で遊ぶ。
……少なくても、レイがいた地球のように、ゲーム機の類は存在していないので、そうやって遊ぶしかないのだが。
中には本を読んだりするといったことを好む子供もいるが、本の類は非常に高価で、一般の家庭では買えるようなものでもないので、そのような者は圧倒的に少数派だろう。
「そうだな。それは間違いのない事実だ」
ブルーイットの言葉に答えるレイを見て、レオダニスが微妙な表情を浮かべ、ミランダは好奇心で目を輝かせる。
レオダニスにしてみれば、エレーナという存在は貴族派の象徴であるのもそうだが、ケレベル公爵家の象徴でもあるのだ。
勿論騎士団を率いているフィルマを心の底から尊敬はしているが、だからといってエレーナを尊敬していない訳ではない。
そしてエレーナの美しさを考えれば、それに憧れるなという方が無理だろう。
レオダニスも当然のようにその例外ではなく、エレーナに強い憧れを抱いている。
そのエレーナとレイが親しい間柄だと言われれば、それは当然のように複雑な表情を浮かべてしまうだろう。
ミランダの方は、エレーナという存在に憧れていない訳でもないが……やはりそこは、男と女の違いといったところか。
憧れよりも、エレーナの恋愛事情が気になるというのが、正直なところだった。
天下に並ぶ者がいない程の美女と噂されることも珍しくないエレーナだったが、そのような噂とは裏腹に、親しい男は全くいなかった。
いや、正確には単純に親しいだけなら何人かいるのだが、そのような相手にエレーナが抱いているのは、異性に対する感情ではなく、友情や同胞意識といったものだ。
その美貌から男に言い寄られることが多く、それが余計にエレーナから恋愛感情を奪っていた。
だから、そのエレーナが……姫将軍という異名を持つようになったエレーナに男の影が出来たと数年前に知った時は、メイド達は皆がそれがどのような人物なのかと噂しあった。
だが、噂されていたレイは何だかんだと今までアネシスに来るようなことはなく……今回、ようやくだったのだ。
そして、ケレベル公爵夫妻に暗黙の了承とも呼ぶべきものを与えられもした。
メイドの噂話により、ミランダもその辺りの事情については知っている。
それでも自分でその話を聞くことが出来るのであれば、是非話を聞きたいと思うのは当然だろう。
「ほう、まさかそこまで言い切るとはな。だが……そうなると、レイに敵意を向けてくる奴は多くなるぞ? 俺だって、エレーナ殿を妻にすることが出来るとなれば、喜んで迎えるしな」
そう言いながらも、ブルーイットの様子からはエレーナに対する執着の類はない。
レイの反応を見てみたいという思いがあったのだろう。
「向こうがこっちに敵対してくるのなら、こっちも相応の対応をするだけだ」
「……噂通りだな」
レイの言葉を聞き、ブルーイットは男臭い笑みを浮かべる。
ブルーイットも、当然レイについての情報を色々と集めていた。
その中には貴族を相手にしても一切手加減をすることがないというのはあったし、実際にレイに危害を加えようとして、痛い思いをした貴族がいるというのも知っている。
「その噂ってのがどんなのかは分からないけど、大体の予想は出来るのが微妙な感じだな」
「まぁ、レイの性格を考えればな」
「……それで、俺の噂はともかく、お前の方は何だって貴族の次期当主なんて立場なのに、そんな服装で誰も連れずに街中にいたんだ?」
普通であれば、伯爵家の次期当主が護衛の一人も連れずに街中を歩いているというのは有り得ない。
にも関わらず、ブルーイットはその有り得ないことをしていたのだ。
しかも服装まで平民が着ているような物――その中でも上等な物だが――を用意する周到さだ。
これが、ただの偶然などである筈がないというのがレイの思ったことだった。
「別に何かを企んでいたという訳ではないから、安心しろ。純粋に興味があってこの街を見ていただけだ。このアネシスの繁栄ぶりは、俺から見ても素直に羨ましい。うちの領地もそこそこ繁栄してはいるのだが、それでもアネシスに比べれば数段落ちる」
そう言ったのは、お世辞でも何でもなく心からの言葉だろう。
もっとも、このアネシスはミレアーナ王国第二の都市である以上、ブルーイットの領地にある街や都市がアネシスよりも発展するというのはかなり難しいだろうが。
「では、本当にただの見学で?」
「そうだな。俺の家の領地と比べて、どのようにすればいいのかというのを、ちょっと考えていたな。ただ漠然と見物していた訳じゃない」
「へぇ、そうなのか。じゃあ、このアネシスがブルーイットの領地とどこが違うと思う?」
ブルーイットの言葉にレイがそう尋ねたのは、現在レイの拠点たるギルムが増築工事をしているからだろう。
もしこのアネシスだけにある何らかの要素をギルムに適用出来れば、ギルムはもっと繁栄するのではないかと。そう思った為だ。
……もっとも、周囲からはダスカーの懐刀と思われているレイだったが、実際にはそんな関係ではない。
レイが意見を言えばダスカーは一応聞くだろうが、それが反映されるかどうかは微妙なところだろう。
都市設計というのは、それこそその筋の専門家が行うことであり、レイが少し聞き囓った程度の知識で提案しても、それはかえって害になる可能性の方が高いのだから。
それが役に立つかどうかは別として、何であれ知識は覚えておいた方がいいと、レイはブルーイットの言葉を待つ。
そんなレイの視線を向けられたブルーイットは、少し考え……口を開く。
「そうだな。まず、ゴミがあまり落ちていないのに驚いた」
「……は?」
てっきり都市の立地だったり、もしくは何らかの店について話すのかと思っていたが、何故そこでゴミなのか、とレイは驚く。
驚くが……すぐに日本で何かの拍子に聞いた知識を思い出す。
(割れ窓理論……とかいうのだったか?)
割れた窓のあるような場所では、犯罪が起こりやすくなる。
正確にはもっと細かい理論が色々とあるのだが、レイが覚えているのはその程度のものだった。
「ゴミってのは、捨ててあれば自分も捨てていいと思う奴が多い。そうしてゴミが次々に捨てられていけば、当然のようにそこは汚くなり、人が寄りつかなくなったり、場合によって出来れば近寄って欲しくないような連中が集まってくる。そうなれば、あっという間にスラム街が出来上がり、後ろ暗い連中が集団になってしまう」
そう告げるブルーイットの言葉に、レオダニスは得意げな表情を浮かべる。
自分の主人が行っている施策が褒められて、悪い気はしないのだろう。
こうして割れ窓理論に近いことをやっているのは、レイの目から見ても驚きだ。
この世界に割れ窓理論などというものがある筈がない以上、恐らく経験的なものからそこまで辿り着いたのだろう。
(いや、もしかして転生にしろ転移にしろ、俺以外にやって来た奴がその理論を広めた可能性はあるのか)
このエルジィンに転移してきた者や、転生してきた者を知っている以上、その辺りが何らかの知識で残っていてもおかしくはない。
そんな風に考えつつ、レイはブルーイットとの会話を続けるのだった。