1792話
まず最初にレイの模擬戦相手として選ばれたのは、レイより若干年上に見える年齢の男だった。
とはいえ、レイがこのエルジィンに来てから数年が経つが、それでもレイの外見は当時から全く変わっていない。
本来なら十代半ば程の年齢であれば、一年もあれば大きく背が伸びたりするのだが、一切その様子がない。……とはいえ、その件はレイが極めて強力な魔法使いでもあるからということで、特に問題視はされていなかった。
ともあれ、そんな年齢のレイより若干年上に見えるということは、その相手も十代後半……まだ二十歳にはなっていないだろう相手だ。
精鋭揃いのケレベル公爵騎士団にその年齢で所属しているということは、間違いなく才能のある人物で、将来的にも期待されているのだろう。
だが、高い才能を持っているが故に天狗になるというのもこの年代では当然のことであり……そういう意味では、フィルマにとってレイという存在はうってつけだったのだろう。
長剣を手にした男は、レイが持つデスサイズと黄昏の槍を前に全く動くことが出来ない。
技量の差もあるが、何よりレイの持つ二つの武器から放たれる迫力が男に攻撃を躊躇わせている最大の理由だろう。
そのまま十数秒が経ち……やがて、レイが口を開く。
「そっちから来ないのなら、こっちから行くぞ」
そう告げ、一歩を踏み出す。
そんなレイの言葉と行動に男は半ば反射的に下がろうとするが……
「レオダニス!」
瞬間、フィルマの声が周囲に響く。
決して怒鳴った訳はないのだが、それでも周囲に響いたその声は、戦いの喧噪の中でも味方に指示を出し続けた結果得られたもの。
そして、フィルマのそんな声で我に返った男……レオダニスは、長剣を構えて一気にレイとの間合いを詰めようとする。
「うわあああああああああっ!」
半ば悲鳴に近い叫びではあったが、その踏み込みはその辺の冒険者よりも余程鋭い。
……ただ、それでも本来のレオダニスの速度よりも遅かったのは、やはり冬という季節の寒さである程度走った後でも動きが若干遅かったり、少しではあるが降っている雪が地面を濡らしている影響だろう。
レオダニスの機先を制するのは、レイにとっては難しい話ではなかった。
だが、これが模擬戦である以上、レオダニスにもある程度の経験をさせる必要がある。
だからこそ、レイはレオダニスの行動をそのまま見据え……やがて自分に向かって振り下ろされた長剣を、デスサイズであっさりと弾く。
周囲には鋭い金属音が響き渡り、次の瞬間にはレオダニスが握っていた長剣は回転しながら飛んでいき、レオダニスが手の痺れと共に何が起きたのかを理解した時、既に目の前には黄昏の槍の穂先が突きつけられていた。
「そこまで!」
「……え?」
訓練場にフィルマの声が響き渡る。
レオダニスの口から出たのは、何が起きたのか全く理解していない声。
ただ、強烈に痺れている手だけが、自分が負けたと示している。
それも接戦の末に負けたという訳ではなく、文字通りの意味で一蹴されたのだと。
フィルマの声が響いた瞬間、今のレオダニスの戦い――と呼ぶのは難しいが――を見ていた他の騎士達の口からざわめきの声が上がる。
「おい、見たか? いや、見えたか?」
「……あの大鎌……いつの間にか振るわれていたんだけど」
「槍も、いつ突き出したんだ?」
そんな声が周囲に響くが、それらの声を掻き消すかのようなフィルマの声が周囲に響く。
「次! シャリスラ!」
「私ですか!? わ、分かりました!」
フィルマの言葉に、槍を手にした二十代半ば程の女がレイの前に出てくる。
シャリスラと呼ばれた女が近づいてくると、レオダニスは地面に落ちた自分の長剣を拾って離れていく。
自分の強さには自信のあったレオダニスだけに、まさかこんなにあっさりと負けるとは思わなかったのだろう。
歩きながらも、まだ本当に自分が負けたのかどうかを理解出来ないような、そんな表情を浮かべていた。
「始め!」
フィルマの声と同時に、シャリスラは一気に前に出る。
レオダニスは様子見をしたことで、レイに主導権を渡してしまった。
そうである以上、ここはレイよりも自分が先に動いて主導権を得た方がいい。
そう考えての行動だったのだろう。
それは、レイを相手にしての行動としては、決して間違っていた訳ではない。
だが……レイから主導権を握るにしては、シャリスラの技量や体力……総じて言えば実力が足りなすぎた。
「はぁっ!」
鋭い叫びと共に放たれた、シャリスラの突き。
槍という武器において、最速にして最も基本の攻撃。
そして、ケレベル公爵騎士団に所属しているだけあって、その突きの速度はその辺の冒険者達とは比べものにならない程のものだった。
しかし……
「え?」
次の瞬間、シャリスラの口から出たのは、レオダニスが発したのと同じような、どこか間の抜けた声。
ただし、そのような声を発したのはシャリスラだけでなく、周囲で戦いを見ている他の騎士達も同様だった。
当然だろう。騎士達の視線の先では、シャリスラの槍とレイの黄昏の槍が真っ直ぐに繋がっていたのだから。
何が起きたのかというのは、目の前にある結果を見れば確実に理解出来る。
つまり、レイの放った突きがシャリスラの突きを迎え撃ったという、それだけ。
ただし、シャリスラの槍の穂先の先端とレイの黄昏の槍の先端が少しもずれることなくぶつかり合うという……奇跡的なと表現してもおかしくはない結果だったが。
少し……ほんの少しでも穂先の位置がずれてしまえば、槍は相手の穂先や柄に沿って流れていただろう。
そのようなことが起きず、お互いの槍が全く動かないで止まっているのを見れば、それがどれだけ高い技量を必要とする神業なのかが、誰にでも理解出来た。
それが理解出来たのも、ケレベル公爵騎士団に所属している全員が一定以上の力量を持っている証だろう。
「行くぞ」
槍の穂先の先端同士がぶつかっている状況から、レイが短く呟く。
それを聞いた瞬間、シャリスラは一瞬何が起きるのかと背筋が冷たくなり……だが、それでもこのままでは何も出来ずに負けると判断したのか、手にしていた槍を素早く引き戻す。
お互いが同じだけの力を槍に入れていたからこそ、均衡を保っていた。
勿論、それはシャリスラとレイの力が同じという訳ではなく、模擬戦ということでレイがシャリスラに合わせていたのは確実だった。
ともあれ、そんな状況でシャリスラが槍を退けば、当然のようにレイが前のめりになってもおかしくはない。
おかしくはなかったのだが……レイは全く動く様子を見せずにピクリとも動かない。
だが、レイがどれだけ人間離れした、それこそ人外と呼ぶのに相応しいだけの実力を持っているのかというのは、これまでの短い間でシャリスラも十分に理解している。
そうである以上、突然自分が力を抜いたからといって、レイが態勢を崩すとは思っていない。
寧ろ、それが当然であると判断して、再び突きを放つ。
もしかしたら、また同じように受け止められるのでは? 頭の片隅でそう考えないでもなく……実際に再びレイが突きを放った時は、やっぱりと、そうシャリスラは思った。
だが、槍が受け止められた時の衝撃は腕にはなく、反射的に疑問を感じる。
レイであれば、槍の穂先を合わせるのに失敗する筈がないと、そんな疑問を抱いていたのだ。
だが、今こうして手の中に反応がないのは……と、そう思った瞬間、シャリスラの手に軽い反動が残され、槍の姿は消えていた。
そしていつの間にか先程のレオダニスの時と同じように、自分の目の前に突きつけられている黄昏の槍の穂先を眺めつつ、視界の隅で回転しながら空中を飛んでいる自分の槍を見た瞬間、何が起きたのかを本能的に理解する。
二度目にシャリスラが突きを放った時、レイは最初の時と同じように穂先で受け止めるような真似をしなかった。
それが意図的なものか失敗したから結果としてそうなったのかはシャリスラにも分からなかったが、レイは槍の穂先が流された瞬間を見計らって、シャリスラの槍を絡め取り、上に飛ばしたのだろうと。
槍を武器とするシャリスラの手元からその槍がなくなれば、シャリスラに出来ることはない。
いや、いざという時の為に短剣の類は用意してあるのだが、あくまでも予備の武器である以上、短剣の技量は当然槍よりも劣る。
そんな状況でレイに勝てる……いや、一矢報いるようなことが出来る筈もなく、シャリスラはフィルマが何かを言うよりも前に口を開く。
「参りました」
そう言うシャリスラの言葉に、レイはフィルマに視線を向け、フィルマが頷いたのを見てから突きつけていた槍の穂先を外す。
「うーむ、分かってはいたが、ここまで圧倒的とはな」
フィルマの口からそのような言葉が出るが、その言葉にあるのは部下達に対する失望……ではなく、レイに対する賞賛だ。
毎日のように一緒に訓練している以上、フィルマも自分の部下達が決して弱い訳ではないことを理解している。
レイにはあっさりと負けているように思えるが、それは純粋にレイの技量が並外れているからこそのものだ。
あるいは模擬戦をやった二人が手を抜いているというのであれば話は別だったが、動きを見る限りはそのようなことをしている様子はなかったし、そのようなことをする理由もない。
(以前見た時に比べると、明らかに強くなっているな)
フィルマが言ってるのは、アゾット商会の件で正体を隠して戦った時のことだ。
あの戦いから数年の時間が経っている以上、レイが以前よりも成長しているのは当然だった。
だが、それでもここまで成長しているというのは予想外だったし、以前と違って正体を隠す必要もないので全力を出してもいい今の状況で自分がレイとどこまで戦えるのか、そんな思いがフィルマの中に湧き上がる。
(俺も結局は騎士だった……そういうことか)
自分の中に燃える熱い思いを自覚した瞬間、フィルマは口を開く。
「どうやらレイ殿を相手にした場合、強すぎるようだな。勿論強敵との戦いというのも十分訓練になるのだが……折角の機会だ。次は私がレイ殿と模擬戦をしよう」
ざわり、と。
その話を聞いた騎士達がざわめく。
ケレベル公爵騎士団にとって……いや、ケレベル公爵領の中でも最強に近い人物がフィルマだけに、そうなるのも当然だろう。
もっとも、あくまでも最強に近いだけであって、最強ではないのだが……それでもフィルマの実力がどれ程のものなのかは、それこそ毎日のように訓練をしている騎士達には明らかだった。
常日頃から、いつもその強さを見ているフィルマと、深紅の異名に恥じぬ強さを目の前で見せたレイ。
そのどちらが強いのかというのは、当然ながらその場にいる全員が興味を持っていたのだが……
「お待ち下さい!」
そんなフィルマの行動に、待ったを掛ける人物がいた。
その人物は四十代半ばでフィルマよりも年上だ。
それでもこうして訓練を行っているのだから、その体力は相当なものだろう。
だが、この騎士の役目は基本的にフィルマのサポートで、騎士団の副団長とでも言うべき立場にある者だった。
前線で戦うよりは、部下を指揮しての戦いを得意としており、そのような立場だからこそ、この場でレイとフィルマを戦わせる訳にはいかないと判断していた。
ケレベル公爵領でも最強格と呼ぶべきフィルマは、いわば軍の象徴に近い。
貴族派の象徴とも言うべきエレーナより知名度は低いが、それでも長年ケレベル公爵騎士団の団長という座を勤めているフィルマは、多くの者に力の象徴として見られている。
それは、現在ここにいる騎士達も同様にフィルマをそのように見ている。
レイとどちらが強いのかというのを見たいと思っているのは事実だろう。
だが同時に、フィルマとレイが戦って、フィルマが負けるという光景を想像している者がどれだけいるのか。
今はまだ実感がないようだったが、実際にその目でフィルマが負ける光景を見れば確実にショックを受けるだろう。
あるいは、戦う相手がエレーナ……とは言わずとも、ケレベル公爵領の人物であれば、まだいい。
しかし、レイは当然のようにケレベル公爵領の者ではないし、ましてや貴族派の人間でもない。
そのような人物に、エレーナとは違った意味でケレベル公爵領の武の象徴たるフィルマが負けるというのは、最悪の結果をもたらす可能性があった。
だからこそこうして止めたのだが……
「問題ない」
そう、フィルマは年上の部下に告げる。
「ですが!」
「レイ殿はエレーナ様が連れて来た人物だ。その意味……お前なら分かるだろう?」
「それは……」
ましてや、昨夜の食事会でレイとの関係はケレベル公爵夫妻が半ば黙認という状況になっている以上、ここで模擬戦をしても問題ないと言外に告げたフィルマの言葉に、男は黙り込む。
それを確認したフィルマは、レイに向かって獰猛な笑みを浮かべて、尋ねる。
「さて、レイ殿。私との模擬戦……受けて貰えるかな?」
そう尋ねるフィルマに、レイは黙って頷きを返すのだった。